2024 年 4 月 28 日

・説教 ルカの福音書12章13-21節「喜びの備え」

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〈歌え〉
2024.4.28

鴨下直樹

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(本日はYouTube動画はありません)


 約1か月ぶりに芥見教会の皆さんと、こうして顔を合わせて礼拝できることを、本当に嬉しく思います。前回はオンラインでの礼拝説教でしたので、今日はこうして皆さんを身近に感じながら礼拝できることは喜びです。

 4月になりまして、笠松教会との兼牧が始まりました。単純に関わる人の数が倍になりました。やることは増えましたが、私自身とても楽しく過ごさせていただいています。笠松教会にも多くの信仰の友がいて、その一人一人のお話を聞くことは、とても嬉しいことです。

 笠松教会にOさんという今年102歳になられるお婆さんが来ておられます。毎回私と顔を合わせると、顔をくしゃくしゃにして、手を握りながら「昔、オシメを換えていた、あの赤ちゃんがこんなに立派になって嬉しい」と喜んでくださいます。私が笠松教会にいたのは2歳までですので、そのころの記憶は私にはありません。けれども、これまで何度も何度もOさんとお会いしてきました。もう耳が悪くてあまり聞こえていないようなのですが、それでも喜んで礼拝に集っておられます。芥見でもそうですけれども、笠松でも教会の方々が、一人一人を訪問して車で乗せて来てくれるのです。中には何人もの体調のすぐれない方がおられるのですが、皆さん嬉しそうに教会に集っておられます。そういう皆さんのお姿を見ていると、それぞれの存在が、お互いに大きな支えになっているのかと思うのです。

 前回の説教は3週間前でしたので、前回のことを少し思い出してみたいと思います。前回、主イエスはパリサイ人や律法学者の偽善を見抜かれて、1羽の雀や抜け落ちる髪の毛の話をなさりながら「神があなたのことを心配してくださる」と語ってくださいました。見せかけの信仰に生きるのではなくて、神と共に歩むことのできる幸いをお語りになられたのです。

 すると、その様子を見ていた大勢の群衆の1人が、主イエスとは素晴らしいお方だと感じ、この方なら分かっていただけるのではないかと思って、主イエスに相談を持ちかけました。13節です。

「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」

 この相談をした人は、主イエスが絶対に自分の味方になってくださるに違いないという確信を持っていたのだと思います。ところが、主イエスから返ってきたのは、この人の思ってもみない返答でした。

「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」

14節です。

 主イエスの返事を聞いて、この人は失敗したと感じたのだと思います。見極めが甘かったのです。この人は主イエスが話をしておられるのを聴きながら、このお方なら、自分に対して遺産を分けてくれない兄弟から、遺産を取り返すことがおできになるに違いないと思いました。どうしてかというと、パリサイ人や律法学者のような立場のある、それこそ自分の正当性を主張する人であっても、その心の中に秘めた貪欲を曝け出すことが、おできになる方だと思ったからです。ところが、自分の味方になってくれると当たりをつけた人物は、自分の味方になってはくれないことが、ここで明らかになったのです。

 私たちは、時折これと同じようなことをしてしまうことがあります。何かの時に、自分の意見を表明したとします。すると、どうも周りの人たちには、自分と同意見の人が少なくて旗色が悪いと感じると、自分の考えを理解してくれそうな人をさがして、「あなたも、私と同じ意見ですよね?」などと言って、同意を求めたりすることがあるかもしれません。

 私たちは、自分に意見やアイデアがある時、自分に同意してくれる人は良い人で、自分と違う意見の人は敵であるかのように感じてしまうことがあるかもしれません。突き詰めて考えると、そういう時というのは、物事の本質ではなくて、自分の言い分を正当化したい、そこに重点が置かれてしまっているのです。

 けれども、本当に大切なことは物事の本質です。一体何が問題で、その問題に対して、どうあることが最善なのか、どこに主の御心があるのか、そのことが重要なのです。

 主イエスはここで、「それは私の役割ではない」と自分に求められている要求に対して、自分はそれを判断する立場にないことを明確になさいました。これも、私たちには少しびっくりすることかもしれません。もし、この相談を主イエスに持ちかけていた人の兄弟が、不正に財産を奪い取ろうとしているのだとすれば、助けてやれば良いのにと思わないでもないのです。相手が悪であれば、その悪は正されるべきであると感じるのです。

 ところが主イエスは、ここで続けてこう言われました。
15節です。

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 主イエスはここで、相談を持ちかけてきた人に向けてではなくて、たくさん集まっている群衆の方を向いて、こう言われました。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。

 相談した人は、穴があったら入りたいような気持ちになったに違いありません。「それは貪欲だ」と人々の前で、自分の考えていることが晒されたのです。この相談を持ちかけた人は、自分の兄弟の中に貪欲があると思って相談したはずなのです。ところが、あなたの中に貪欲があると、それもみんなの前で晒されてしまったのです。つまり、主イエスがここでそう言われるということは、やはりこの人の問題は「貪欲」にあるということなのでしょう。

 兄弟の遺産問題の、肝心な問題点がどこにあったかは、ここでは答えられていませんのではっきりしません。答えられていない以上、何が問題であったのかを想像しても仕方がないことなのでしょう。聖書の関心はそこには無いのです。この福音書を書いたルカの関心は「主イエスが、この人の問題は貪欲にある」と判断したということにあります。「貪欲」というのは、漢字で表されているごとく、欲を貪ることです。

 ここで主イエスはこの話を聞いている人々に、一般的な問題として話されています。そしてここで、主イエスは、財産といのちの重要性に気づかせることを意図しておられます。「お金よりも命の方が大切です」と言われれば私たちは誰もがうなずくのだと思います。いのちがどれだけ大切なものかは、よく分かっているつもりになっています。

 けれども現実問題として、主イエスのところに相談に来た人のように、お金を手に入れられる機会があるのであれば、そのためには最大限の努力をおしまないでしよう。しかもここでは相続ですから、自分で頑張って働いて収入を得るという話でもありません。そうであれば貰えるものは貰っておきましょうと考えることが、そんなに悪いこととも思わないのです。しかも、自分には相続する当然の権利があると思っているのですから尚更です。

 主イエスもここで財産を得ることを悪いことと言っているわけではありません。主イエスがここで意図しておられるのは「貪欲」に気づかせることです。
 では、「貪欲」とはどんなことなのでしょうか。何を指しているのでしょうか。主イエスは、このために1つの譬え話をなさいました。それが16節以降の、ある金持ちの豊作の譬え話です。

 この譬え話自体はそれほど複雑な話ではありません。沢山の収穫を得た金持ちは、その収穫物を収めるために倉を新しくして、これで自分の将来は安泰だと思ったという話です。けれども、いくら沢山の財産を得ても、翌日死んでしまったとしたらどうか? という問いかけの話です。

 この譬え話は少し興味深い話です。ある金持ちが、仕事に精を出して沢山の収穫を得て、当面の糧を得たという話です。読みようによっては、どこに問題があるのか? という話で、言ってみればビジネスの成功者の話です。不正をして富を得たわけでもありませんし、ちゃんと働いた労働の対価として得た富です。その人が、自分のしてきた努力を振り返りながら、「よくやったなぁ俺は」と、これから当面大丈夫だからと喜んでいるのです。ほっとしているのです。

 そこだけを切り取れば何の問題もないはずの話です。主イエスも、実はここでそのことについては触れておられません。主イエスがここで問いかけておられるのは、仕事の成否ではないのです。問題は、この金持ちの「富」の理解についてなのです。

 この譬え話を理解するために、大切なのは19節の「自分のたましいにこう言おう」という部分、金持ちが自分自身の魂に語りかける部分です。ここをどう理解するかが鍵です。この箇所がとても重要です。この話をよりよく理解するために、カトリックの聖書学者の雨宮慧先生がこんな説明をしています。

 ここでは、ヘブル語の「魂」の意味をよく考える必要があるというのです。ヘブル語で「魂」は「ネフェシュ」と言います。この「ネフェシュ」という言葉は、「魂」とか「いのち」と訳されるのですが、雨宮先生の解説によると、もともとの意味は食物摂取器官としての「口」とか「のど」が語源なのだそうです。しかもヘブル的思考法では、人間のある器官は、その機能と密接につながりのある、人の有りようとか役割を表すというのです。つまり、ここでいう「魂」「ネフェシュ」が言い表す人間というのは、飢えや渇きを満たすことに関心をもっている存在だということなのです。

 この金持ちの人間は食物を摂取することが大事なので、作物を備蓄することは必然の前提となっているわけです。けれども、主イエスがここで語ろうとしておられるる「いのち」というのは、全く別ないのちです。口に入る作物が豊かにあって、喉を潤す飲みものがあれば、人間として生活が続いていくということに意味を見出している「いのち」ではないのです。

 この雨宮慧先生の指摘はとても重要です。今日の箇所の15節で主イエスが「いのちは財産にあるのではない」と言われているのは、まさにそういうところに理由があるのです。

 この譬え話をお読みになって気づかれた方があると思います。「私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産」と、この金持ちは「私の」という、自分の所有を表す言葉を4回も使っています。この金持ちの「いのち」の理解は、「私の所有する財産」と深く結びついているのです。「魂」が「口」とか「喉」と深く結びついた理解です。この人にとって「いのち」とは、財産が豊かに有ることなのです。

 けれども、主イエスはここで「いのちは財産ではどうにもならない」と言われているのです。

 かつてアメリカで黒人の差別問題と戦ったマーティン・ルーサー・キング・Jrという牧師が、この箇所から説教をしています。その中でこんな話をしています。

「私たちは朝食一つ済すにも、世界の半分の人々に依存している。朝起きてシャワーを浴びる時に、太平洋の島々の人が用意してくれたスポンジに手を伸ばす。フランス人が作ってくれた石けんを手に取る。タオルはトルコ人が提供してくれたものだ。食卓では南米の人から提供されるコーヒーや中国人からのお茶、西アフリカ人からのココアを飲む。仕事に出かける前に、もう世界の半分以上の人たちのお蔭をこうむっているのだ」

 キング牧師のイマジネーションの豊かさが伝わってきます。私たちはお互いに支えあっていることを忘れては生活することができません。自分一人では、生きていけるほどに生活が成り立つかというと、そうではないのです。

 この譬え話に出てくる金持ちは「私が! 私が!」という主張を繰り返します。自分一人の力で、生きていけると思い込んでしまっているのです。そして、さらに大きな問題は、この金持ちは、神のゆえに今の自分の生活があるという、この根本的なことを忘れてしまっているのです。神の支え無しに、また互いの隣人の存在の上にしか自分の生活は成り立たないことを忘れて、自分の力ですべてを成しているという錯覚がこの人にはあるのです。

 主イエスは言われます。21節です。

「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 神の前に富んでいないのです。神の前に、その生き方は祝福されていないのです。「私が! 私が!」「自分が! 自分が!」という生活は神の目にかなっていないのです。神の目にとまらない生き方なのです。そうであるとすれば「そのたましいは、今夜おまえから取り去られる」ということになりかねないのです。神がその人を支配していないので、神の御手の中にその人はない、つまりそのいのちは神の願ういのち、生き方ではないので、神の前に無価値ないのちとなってしまっているのです。

 大切なことは、私たちのいのちは神の御手にあり、神のご支配の中にあるということです。神の前では、これが生きているということなのであり、神の前に価値のあること、富んでいることなのです。

 私たちの主は、私たちのいのちに責任を持ってくださるお方です。それゆえに、私たちはどんな状況に置かれることがあったとしても、神の御手の中にあるというこの一点において、私たちは安心を、平安を得ることができるのです。

 そして、私たちのいのちは、自分一人のものではありません。私たちの周りに生きている人たちのための、いのちでもあるのです。自分の口と喉が潤っていれば、それで良いのではありません。自分の生活が成り立っていたら、それで良いのではなく、私たちの周りの人たちのいのちをも、私たちは支えているのです。そういういのちを、主は私たちに与えてくださいました。

 自分のいのちを、自分一人のものとするのではなく、神に与えられたいのちとして、このいのちを用いていきたいのです。なぜなら、私たちの主は、わたしたちに、この「わたしたち」に、いのちを与えられるお方だからです。

 ここのところ、教会の中で体調を崩された方が何人もありました。その何人かのところに、時折訪問をいたします。すると、何々さんが来てくれた、誰々が電話をしてくれたという話を、皆さん嬉しそうに話してくださいます。そんな姿に、私自身とても嬉しく思います。いや、きっと主がそのことを喜んでくださっているのです。私たちの喜びは、自分の財産を増やすことにあるのではなくて、お互いに支え合うことのできる交わりの中にこそあるのです。人のために自分の時間を使う、これこそが私たちのいのちの使い方なのです。そうして、私たちは、天に喜びの宝を積み上げられていくのです。

 お祈りをいたします。

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