2024 年 3 月 3 日

・説教 ルカの福音書11章1-13節「本当に必要なものを~主の祈り8」

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2024.3.3

鴨下直樹

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 主の祈りからの説教も今回で8回目となりました。ここで最後です。今日は主に5節から13節の御言葉に耳を傾けたいと願っています。

 この主の祈りは、はじめに主イエスの弟子たちが主イエスに「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」と問いかけたところから始まっています。主イエスの弟子たちは、祈ることに憧れを持っていました。神との交わりのすばらしさを知りたいと願っていたのです。

 それで、主イエスは主の祈りを教えた後で、5節からの譬え話をなさいました。5節から8節にひとつの譬え話が書かれています。そこには、あなたがたの友だちが訪ねてきたので、真夜中に別の友だちのところに「パンを三つ貸して欲しい」とお願いに行ったという話が書かれています。パンを借りに行ったのはもう真夜中です。友だちはすでに寝ています。子どもたちも寝ています。そんな状態ですから、友だちはこの願いを断ります。8節で主イエスはこう答えておられます。

「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。」

 先日の祈祷会でも、みなさんここからいろいろな意見が飛び出してきました。「もう真夜中なんだから、明日の朝まで待たせることができたんじゃないか?」とか「パンを三つも求めるのは多すぎじゃないか? 友だちの分だけではなくて、自分も食べるつもりだろうか?」とか色々な意見がでました。

 私たちは、ここで感じるのはパンを借りにいく人の厚かましさです。ただ、同時に私たちは聖書の中に「旅人をもてなしなさい」という御言葉があるとこも知っています。そう考えれば、この人はこの御言葉を誠実に実行しようとした人、隣人に対する愛に満ちた人だという考え方もできるのかもしれません。

 ところが、ここで主イエスは「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。」の後に、こう言われました。

「しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上り、必要なものを何でもあげるでしょう。」

 そうしますと、ここで主イエスが教えようとしておられることは、どういうことになるかというと、「しつこく求めれば何でも与えられる」という理解になると思います。

 すると、私たちはすぐに首を傾げたくなるわけです。私たちがしつこくお祈りすれば必要なものは何でも与えられるのか? という疑問です。きっと、みなさんもこれまでの信仰の歩みの中で、何度も、何度もしつこいくらいに願い事のお祈りをした経験がおありになると思います。そのお祈りはどうなったでしょうか? もちろん、その祈りが叶えられたという経験をした方もあると思います。けれども、ダメだったという経験を持っておられる方も少なくないと思うのです。

 それで、その疑問を解消するためにもう少し丁寧に聖書を読んでみますと、原文ではこの「しかし」という言葉がないことにまず気がつきます。つまりこれは、「しかし」という意味を成り立たせるために、後で補った言葉です。そうだとすると、「しかし」の後の文章は、何らかの意訳が入っていると考えられます。

 そこで、聖書を丁寧にみていくと、「しつこさのゆえなら」と訳されている箇所に、とても珍しい言葉が使われていることがわかってくるのです。この言葉は「アナイデイア」というギリシャ語なのですが、「アン」という打ち消しの言葉と、「アイドース」という言葉の合成語です。この「アイドース」という言葉は、聖書の中で、テトスの手紙第一の2章9節に一度だけでてくる言葉で、そこでは「慎み」と訳されています。つまり、「慎みがない」という意味の言葉だということが分かるわけです。聖書の時代に近い年代に書かれた文章ではこの言葉は「恥知らず」と訳されています。

 そうすると、この8節の後半は、「しかし」という言葉も取ると、「友達に恥知らずだと思われないために、起きあがって必要なものを何でも与えるでしょう」という意味になります。最近の聖書学者たちの解説の多くはこのように理解しています。

 そうなると、どういうことになるかというと、「しつこくお願いしたら、しょうがなく何でも願い事を叶えていただける」ということよりも、「お願いされたら、あの人は何もくれないケチな人、恥知らずな人、慎みのない人だと思われたくないので、願いを叶えるだろう」ということになるわけです。つまり、神の名誉にかかわるわけです。

 主に必要なものを求めるものには、神はその名誉にかけて、必要なものを与えてくださるお方なのだということになるのです。

 そして、続く9節以下で、有名な御言葉が出てきます。

「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます」

 みんなが大好きな御言葉です。クリスチャンではない人でさえ知っています。ここで、もう一度先の問いに戻ってしまいます。誰でも、求め、探し、たたくなら、願っているものが与えられる。この御言葉はそのような響きを持つのです。

 私たちにとって、祈りの多くは願い求めです。病気の癒しを祈る、必要が満たされることを求め、問題解決のために祈ります。何度でも言いますが、このような祈りが間違っているわけではありません。どんどん祈ったらいいですし、神に願い事を知っていただくことが祈りです。そして、主は私たちが祈ることも待っておられます。祈りは、私たちが主に信頼し、主に期待していることの表れです。

 主イエスは、この言葉を語られた後で、さらに一つの短い譬え話をなさいました。それが11節以下です。

「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。」

 自分の子どもに悪いものを与える父親はいないと主イエスはここで言われます。しかも、ここを読んで少し気になるのは「悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています」という言葉です。

 ここを読むとどうしても「悪い父親というのは、子どもを虐待したり、魚を与えずに、サソリを与えたりするような人がいるんだよなぁ」など考えます。けれども、ここで言われている「悪い者」というのは、子どもを子どもとも思っていない卑劣な人ということではなさそうです。この「悪い者」は、「天の父」との比較だということが、続けて読んでいくと分かってきます。

 ここでははじめに、友に頼み事をするような気軽さが語られていて、続いて、父親にお願いする子どもという関係で祈りが語られています。そして、最後にはこう結ばれています。

「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

 この最後に来て、私たちが祈るのは、天の父であり、友達や父親とは違う。友達は、自分の名誉のために与えることがあるだろう、この世の父親でも自分の子どもには良いものを与える。だとしたら、天の父は、祈る者に聖霊を与えてくださるのだと、ここでようやく、祈りにおいて私たちが祈り求めるものが、「聖霊」であることを明らかにしておられるのです。

 「聖霊を求めて祈る」。私たちは祈りを教えて欲しいと思う時、そんなことははじめ少しも頭の中にはないと思います。まず、思い浮かぶのは自分の必要です。自分の願い求めるものです。それは、自分に必要だと思うものです。

 けれども、主イエスはここで私たちが「本当に」求めるべきもの、私たちに本当に必要なことというのは、物やお金や健康ではなくて、聖霊なのです。聖霊が与えられることこそが、私たちの救いなのだ、と言おうとしておられるのです。

 私自身のことを少しお話ししたいと思います。去年の後半から、私自身とても大きな祈りの課題をいくつも抱えています。教団の働き、神学校の働き、さまざまな教団の働きがあります。そして、神学生たちや牧師たちの働きのために、いつも祈らされています。さまざまな祈りの課題があります。そこには、さまざまな人の思いがあります。10人いれば10人の願い求めがあります。

 私は神様ではありませんから、それらのすべての方の願いを叶えることができません。けれども、自分の中でこれが最善だと思いながら、決断をしていくことがあるわけです。けれども、一つのことを決断すると、必ずその決断に納得のいかない人たちが現れます。当然、不満が出てきます。そして、その不満の声は日毎に大きくなっていきます。そうすると、この不満は、攻撃となって押し寄せることになります。そうなると、何をどう祈ったら良いか分からなくなってしまいます。誰の最善が、主の最善なのか。

 こうなると、私の祈りそのものが、主からの試練のように思えるようになってくるのです。何を祈るのが正解なのか。私は誰を喜ばせようとしているのか。どこに立つべきなのか。どう祈るのか、その祈りが、方向を決定してしまうことになるのです。

 そんな中で、この御言葉は私に一つの正解を教えてくれます。「主よ、聖霊を与えてください。聖霊を注いでください。私の心に、そして、あの人のところにも、この人のところにも」それが祈りなのだということに気づかされるのです。

 主はこの受難節の期間に、ゲツセマネで祈られました。

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカの福音書22章42節)

 この主イエスがなさったゲツセマネの祈りも、求めているのは聖霊だということに気づかされます。

 誰かのための最善を願うのではなくて、主の御心を求めて祈るのです。主の御心を求めるということは、聖霊を求めて祈るということです。聖霊が私たちに与えられるならば、私たちの一切の必要は満たされるのです。

 主は私たちに祈りを教えてくださっています。祈ることの素晴らしさを教えてくださいます。それは、私たちが生きるために最も大切な願い求めです。聖霊が与えられること、神の霊が、私の空っぽの心の中にもう一度新しく作られる時、私たちの心は主の平安で支配されるのです。

 自分で何かをすることはでない、自分で決断するのではない、すべては主の御手にある。そう思うことのできる平安が、その祈りの中で、私たちに与えられるのです。

 お祈りをいたします。

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