2024 年 3 月 10 日

・説教 ルカの福音書11章14-28節「もう神の国は来ている」

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2023.3.10

鴨下直樹

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 主の祈りがようやく終わりまして、今日からその続きのみ言葉に耳を傾けようとしています。前回の結びの言葉は「聖霊を与えてくださいます。」という言葉でした。

 そして、今日の冒頭の箇所は「さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。」と繋がります。この福音書を書いたルカの意図は、ここからもよくわかります。祈る人に聖霊が与えられるということは、悪霊が追い出されることだからです。

 「悪霊を追い出す」などという物々しい言葉を耳にすると、ホラー映画の「エクソシスト」のようなものをイメージしてしまう方があるかもしれません。私はホラー映画をあまり見たことがないので、良くわからないのですが、悪霊追い出しがテーマの映画なのでしょう。自分ではどうすることもできない「霊」や「悪霊」の働きというのは、私たちの心に「恐怖心」を植え付けます。

 映画などでは、悪霊を追い出す人がいるというのはポピュラーなのですが、実際に教会では、悪霊追い出しの話を耳にすることは、あまりないかもしれません。けれども、耳にしないからといって、悪霊の働きが無いわけではないのです。私自身も、これまでに何度かそういう祈りをしてきたことがあります。以前にもお話ししたことがありますが、ナルニア国物語を書いたイギリスの文学者のC・S・ルイスは、「悪魔の働きは2種類ある。1つは、悪魔など存在しないと思わせること、もう1つは、悪魔はとても恐ろしいものだと信じ込ませること」と言っています。悪魔の働きを信じないことも、過度に恐れることも、どちらの反応も健全ではないのです。

 聖書には、こんなにもたくさん悪霊の追い出しの話が出てくるのに、このテーマを取り上げて教会でお話しする機会はあまり多くはありません。その理由は、C・S・ルイスがあげているように、悪魔や悪霊の働きを過度に恐れる心配があるからです。けれども、悪魔の働きを侮ることもできません。

 別に、私はここで悪霊論を展開しようなどとは考えていません。けれども、私たちは占いだとか、ホラーだとか、ミステリーといったテーマに心を惹かれるうちに悪魔に対する過度の恐怖を持つことがないように気を付けなければなりませんし、同時に、侮ってはならないことも心に留める必要があります。悪魔の働きは、神様から私たちの関心を引き離すことです。神様との関係を断ち切るような働きは、すべて悪魔の働きであると言っても言い過ぎではないのです。とすれば、それらの働きは私たちにとって日常的なテーマだと言わなければなりません。そして、私たちは誰かが、そのような悪霊の働きに関心を持つようになる場合には、そのことを明確に指摘していくことも大切です。

 今日の聖書箇所に、1人の、悪霊に支配されていた人が登場します。この人は、この悪霊の働きのために話すことができませんでした。このように聖書に書かれている時には、聖書を読む私たちも気を付けなければなりません。病気や、さまざまなその人の弱さを簡単に悪霊の働きとすることはできないからです。先ほども言ったように、悪霊の働きというのは私たちを神様から引き離すことです。

 主イエスはここで、話すことができなくされていた人をご覧になられて、この人を悪霊から解放し、自由に話ができるようにしてやりました。その場にいた人たちは皆驚きました。普通であれば、こういう出来事を目の当たりにした人たちは、口々に主の名を褒め称え、癒された人のところに行って、喜びの言葉を口にするはずです。

 ところが、今日の聖書の箇所には、続いてこのように書かれています。15節です。

しかし、彼らのうちのある者たちは、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

 びっくりする反応です。この人たちは、主イエスのなさった御業を見て、これは悪魔の親玉であるベルゼブルが、悪霊を追い出しているのだと言っているわけで、主イエスのことを悪魔の親玉扱いしているわけです。

 ただ、この反応は私たちにも良く理解できるものだとも言えます。私たちはテレビでトリックショーや、マジックショーなんかを見ると、あれやこれやと難癖をつけながら、その種明かしをしてやろうと躍起になります。それと似ています。自分は騙されないぞという思いが、こういった言動に現れるわけです。

 もう1つの反応が16節に記されています。

また、ほかの者たちはイエスを試みようとして、天からのしるしを要求した。

 他にも奇跡を見せて欲しいと言っているのです。ここにも、主の祈りの中に出てきた「試み」という言葉が出てきます。これは、もっと他の奇跡を見せてくれるなら、信じることができるかもしれないという要求です。一見良さそうな態度にも思えますが、主イエスには「試み」であるわけで、「神殿の頂から飛び降りてみろ」という、あの荒野の誘惑の再現のようなものでしかありません。

 これらの人々は、目の前で起こっている悪霊からの解放という救いの出来事に目を留めることができず、疑うか、自分の関心の有ることにしか目が留められないのです。そして、主イエスはこれらの人々をご覧になられて、彼らの心を見抜かれて語りかけられます。

 この後の17節以降の主イエスの言葉は、もっぱらこれらの人々に向けて語られています。つまり、主イエスの御業を正面から見ることのできない人に向かって語りかけられます。

 17節から20節までの間に、主は3つのことを話されます。まず、17節と18節です。

「どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます。
あなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言いますが、サタンが仲間割れしたのなら、どうしてサタンの国は立ち行くことができるでしょう。」

 ここで、主イエスは15節のように反応した人たちに向かって反論なさいました。

 悪魔の親玉であるベルゼブルが悪霊どもを追い出したというようなことは、考えてみれば仲間割れをしているわけで、そんな考えは成り立たないでしょうと言っておられます。そうしたらサタンの国そのものが崩壊してしまうと。

 そして、続く19節では、このように言われました。

「もし、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが悪霊どもを追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らがあなたがたをさばく者となります。」

 これは少し分かりにくい文章なのですが、「あなたがたの子ら」というのが誰のことを指しているのかが分かれば、それほど難しくはありません。ここで言っている「あなたがたの子ら」というのは、悪霊を追い出している人だということが、この文章から読み取れます。そうすると、人々の中に「悪魔祓い師」とでもいうような人たちが居たんだということが見えてきます。

 では、そういう悪魔祓い師たちを信頼して、ユダヤ人たちがこの人たちをリーダーにしているかというと、そうではありません。そういう人たちが「あなたがたをさばく者となります」というのは、言ってみれば、主イエスは皮肉を言っておられるわけです。あなたがたの中に、そういう悪魔祓いをする人たちが居たとしても、結局その人たちのことを、あなたがたは信じていないではないか。つまり、どちらにしても、人々の中には、悪霊の追い出しの出来事を信じる気持ちが無いことを主イエスは明らかにしておられるのです。

 そこで、主イエスはさらに3つ目の論証をなさいました。それが20節です。

「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」

 主イエスは言われるのです。けれども、もう1つの可能性がある。それは、主イエスがなさっている悪霊の追い出しは、本当なのかもしれないということです。そして、もし主イエスの御業が本当であるならば、神の国があなたがたのところに来ていることの証拠となるのではないかと。

 ここで、主イエスは三段階に分けて、ご自分の正しさを明らかにしようとしておられるわけです。悪魔の親分が手下を追い出しているなんていう理屈は通用しない。そして、実際、あなたがたの中にいる悪魔祓い師たちは、あなたがたのリーダーにもなっていない。つまり、その人たちのことも本物とは認めていない。ということは、残る1つの道は、この目の前で起こっている出来事は、神の国が来ていることのしるしとなるのではないかと。

 主イエスがおられるところ、そこはすでに神の国なのです。そこでは、悪魔は自由にその支配を拡げることはできません。人々と神との交わりが回復されるからです。一人一人が悪霊の支配から解放されて、聖霊が与えられるからです。

 主イエスはここまで話されて、話をおやめにはなりませんでした。間髪を入れずに続けて21節と22節の話をなさいました。

「強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。
しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」

 これも、主イエスがなさった例え話です。しかし、ここもなかなか意味が掴めません。この箇所を先日の祈祷会でも学んだのですが、実に色々な理解が出てきて、とても面白いです。この強い人が誰のことを指して、もっと強い人が誰を指すのか。色々と理解することができます。また、この人が守ろうとしている財産が何かによって、まるっきり違った聖書解釈になります。

 前半の部分は比較的分かりやすい話です。強い者が武装して屋敷を守る。そうすれば財産は守れるでしょという話です。我が家にも、番犬になるかどうか分かりませんが、犬がおります。物音がすれば吠えるくらいはしてくれますので、多少の役には立ちます。きっと皆さんも、財産がたくさん有る方は、用心棒を雇ったり、あるいはご家族をスポーツジムに通わせたりしながら、財産を守ろうとしておられるかもしれません。ちょっとそこまではできないという方は、警備会社にお願いしたりするかもしれませんし、あるいは、お金を全部銀行に入れておいて、家には盗まれるものは無いなんていう対策をしておられる方もあるかもしれません。

 けれども、いくら用心棒や傭兵を雇ったり、スポーツジムに通って100Kgのバーベルを上げることができるようになったとしても、もっと強い人が襲って来たらどうしようもありません。

 ここまでは割と理解できると思います。そしてこの話で、守ろうとしているのは何かですが、財産と言っていますが、悪霊との関係で話しているわけですから、守ろうとしているのは自分自身のことだということは、お分かりいただけるでしょう。

 この人たちもそうです。悪霊を追い出された人を目の前にして、騙されてはいけないよと一所懸命アドバイスしようとしているわけです。このイエスという人は優しそうな顔をしているけれども、実は悪魔の親玉なんだとか、もう少し様子を見て、もっとすごい奇跡ができるかどうかを見極めてからでも遅くはないと、アドバイスしているわけです。

 しかし、そうやって理論武装をして自分を守っていても、もっと強い人が現れたら、その武装は何の役にも立たないのだと言っているわけです。そうなると、ここでいう「もっと強い人」というのは、「主イエス・キリスト」のことなのだということが何となく見えてくるのではないでしょうか。主イエスは悪霊さえも打ち破ることのおできになるお方なのです。

 そうして、23節でこう言われます。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。」

 親切そうな顔で、もっともらしいことを言っていたとしても、主イエスの味方でない者は皆、敵であって、その人たちは散らしている人なのだと主イエスはここで言われているのです。

 私たちが信仰を持とうとすると、こういう親切な人たちが現れます。もっともな考え方を教えることで、理論武装させようというわけです。宗教なんてだいたいが怪しいものだとか、どうして人の救いを説く宗教が戦争ばかりするのかとか、宗教というのは、どうしてお金を欲しがるのかとか、いろんな意見があります。そして、それらのアドバイスは実際にとても的を射たものです。たしかに、この世界には怪しい宗教がごまんとあります。そういう意味では、家族を守りたいとか、友人を魔の手から守りたいという思いは理解できます。

 ただ、主イエスはそのような、それこそ悪霊の仲間のような胡散臭い教えを説かれるようなことはありませんでした。これを信じたら得をするとか、ご利益があるなどという話はしないのです。主イエスが問われるのは、まさに悪に支配された心です。神にその思いが向かない人の罪に切り込んでいくのです。そのような、その人の自由を奪ってしまうような悪霊からの解放を、主イエスは語られるのです。

 聖霊を与えられて生きようとする人の周りには、いろんな人たちが集まって来ます。そして、その人のためを思って、さまざまなアドバイスをしてくれます。これらは、言ってみれば皆、善意です。その人が間違った教えに引き込まれないために親身になって助言してくれるのです。もちろん、動機は悪くありません。けれども、主イエスはここで、そのような人たちに、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。」と言っておられるのです。

 肝心なことがあります。それは、神の国が来ていることが見えているのかどうかです。人が失ってしまった神と共にある生活、それがそこには在るのかどうか、それを見極める必要があるのです。

 もうだんだん時間が無くなってきていますので、丁寧な議論ができませんが、24節から26節のところでは、こんな話をしておられます。

 主イエスによって悪霊を追い出された人は、その後に聖霊がその人の心を支配すれば良いのですが、さまざまなアドバイスによって迷っている間に、その人から出ていったはずの悪霊が、もっとたくさんの仲間を引き連れて、その人の心の中を支配するようになるというのです。そうすると、前よりももっと悪いことになるとさえ言っておられます。

 いかにも有りそうなことです。悪霊がその人から出ていくだけでは、問題の解決にはならないのです。その人の中に、神の霊が働かなければ、その人は平安を見出すことはできないのです。

そして、27節と28節では少し違った角度から、もう1つの話が出てきます。これらの出来事を見ていた1人の女の人が、主イエスに向かって、「あなたのような子どもを持ったお母さんは幸せな人ね」と言って主イエスを誉めたのです。けれども、これは、どういうことかというと、今風に言えば「上から目線」とでも言いましょうか、自分は客観的に見ながら、冷静に判断している気持ちになっているのです。そして、こんな立派なことを言えるあなたは偉いわねとでも言わんばかりに、あなたのお母さんは幸せねと言ったのです。

 すると、主イエスはそれに応えてこう言われました。28節です。

「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

と。

 自分を外に置いて、自分は関係ないというスタンスで外に留まり続ける人に、主イエスは、はっきりと言われるのです。それは「幸いな歩みではない」と。大切なのは、神のことばを聞いてそれを守ることだと。自分は高みにいて、ジャッジしてやろうという姿勢は、15節や16節の立場の人と何ら変わりはありません。

 主イエスがおられるところ、そこに神の支配があります。そして、神が支配されるところには神の霊、聖霊が働きます。聖霊が働くようになれば、神の言葉を聞き取ることができるように、神の言葉に生きるようになります。大切なのは、この神の国がもう来ているということに気付けるかどうかです。

 そして、神の国が来ていることに気付くことは難しいことでも何でもないのです。その時には悪霊が自由に働くことができなくなるからです。悪霊が自由にできなくなると、私たちに何が起こるかというと、罪悪感を感じるようになったり、一時的に心が重くなったり、不自由さを強いられているような思いになります。それが、聖霊が働いておられるしるしです。

 一気にスッと心が軽くなる前に、必ずと言ってもいいほど、こういう段階を通ります。お祈りするのは、面倒くさいなとか、教会に行くのが嫌だなとか、自分の罪を認めるなんてできないというような思いになるのです。そういう思いが出てきているというのは、聖霊が働いておられるしるしです。それまで自由に働いていた悪霊が、自由に動けなくなるからです。そういう時に、私たちは主よ、私たちの心にお入りください。あなたのみ言葉を聞きます。どうぞお語りくださいと祈っていくことが大切なのです。聖霊が働くならば、私たちは自由を得るのです。そうして、私たちは神との交わりの中に生きることができるように変えられていくのです。

 主は私たちのところに来てくださり、私たちの心を支配している、さまざまなものから私たちを解き放ってくださいます。そして、私たちに神の霊である聖霊を与えてくださいます。そうすると、私たちは、神との交わりに生きることができるようにと変えられるのです。

 神の国はもう私たちのところに来ています。この主イエスが私たちに与えてくださる聖霊と共に、私たちは幸いな、平安な歩みへと招かれているのです。

 お祈りをいたします。

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