・説教 ガラテヤ人への手紙5章16-26節 「自由への戦い」
2013.1.27
鴨下 直樹
今日の説教題を「自由への戦い」としました。今日の十六節からの聖書箇所には自由という言葉はありませんので、なぜこんな題をと思う方があるかもしれませんが、その前の十三節から自由についてパウロが語っているからです。ですから本当でしたら今日は十三節からにするべきだったかもしれません。
この「自由」という言葉は色々なものを連想させます。自由と言った時に連想するのは、多くの場合、自分の願いが満たされること、自分がまさに自由に、気ままに生きることができる時であろうと思います。けれども、私たちがキリスト者としてこのテーマから連想する自由のイメージは、もしかすると、信仰に生きるために欲望を我慢して不自由を強いられることが信仰的な生き方で、それを聖書は御霊に生きると言っていると理解してしまうことがあるかもしれません。
このような考え方を禁欲主義といいます。禁欲主義などという言葉を使いますと、自分はそんな堅苦しく考えていないと思うかもしれませんが、信仰に生きるというのは、禁欲的な生活を強いられるというイメージを持っている人は意外に多いと思います。今日の箇所は私たちが信仰者としてどのような自由に召されているのかを考えてみたいと思います。
私は今、「自由に召される」と言いました。召されるという言葉は、たとえば牧師になるために神学校にいくように召されたなどという使い方をしますから、何か特別な召命を受けた人のことと考えてしまうかもしれません。しかし、パウロはこの十三節で「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」と書いています。召すというのはそのために任命するということです。神は私たちが自由に生きるように任命してくださったのだというのです。
けれども私たちが信仰に生きる時、この自由によって与えられる喜びが失われていることに気づくことがあるのではないかと思います。教会に来始めた頃、聖書の話に興味をもって礼拝に来ていた時は喜んで来ていたのだけれども、信仰に生きるようになって、洗礼を受けていつのまにか、喜びが心の中に感じられなくなってしまって、何となくの義務感や、人付き合いから来る責任感の方が大きくなってきてしまうということがあるようです。これは残念なことです。いくら残念と言っても、簡単に喜びを取り戻すことができなくなっていくと、それは深刻な問題です。
今日の聖書の箇所は私たちが失いそうになってしまいがちな、この信仰の喜びに深く根差す自由はどこから来るのかということを、パウロは教えようとしているのです。
パウロは今朝のところでこう言っています。十六節です。
御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
私は先週の説教で、この前の部分のことでパウロは律法主義に対して一つの答えを出しました。それは、神が私たちを義と認めてくださるのは、私たちが義しいことをきちんと行なうことができるようになることではなくて、神との関係を回復することだと語りました。人間の努力によるのではなくて、神の心に適うことが大事なのだと。そして、それは神が定められた救いである主イエスを信じることだと。私たちにとって大切なことはこの神との関係を持ち続けることです。なぜなら、そこに自由があるからです。
けれども、私たちの自由が奪われてしまうのは、この神との関係に生きるのではなくて、人との関わりの中に何かを見出そうとしてしまうからです。
たとえば教会でよく語られることですけれども、礼拝は大切だと言います。礼拝でどのように神と交わりを持ち、それが私たちの一週間の生活においてどんな豊かさを与えるのかをあまり考えないで、ただ礼拝に来ていればいいのだということになってしまうと、そこから義務感が生じてきてしまって喜びが失われることになるのです。そして、もっと他のところに楽しいことがあるではないか。礼拝に行くよりも、デパートに行って買い物をしたほうがよほど楽しいではないかということが起こってしまうのです。
パウロは言います。「御霊によって歩みなさい」と。「そうすれば肉の欲望の満足のために生きることはなくなるから」と言います。
パウロはここで「肉」という言葉を使いました。肉というのは本来の人の姿をあらわすことばです。十九節から二十一節にはこの肉はどんな力を持っているのかが記されています。
肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。
とあります。これは四つのグループに分けることができます。一つ目のグループは「不品行、汚れ、好色」です。つまり、性に関すること、肉の欲の一つの姿が性の欲望に姿を表すのです。不品行というのは、結婚しているのに妻を捨ててしまう、夫を捨ててしまう、そうして、他の異性に欲望を求める、そういう人間の姿です。
二つ目は「偶像礼拝、魔術」と表されているように、宗教的な事柄です。これは、自分の関心のあるものに心を注ぐということです。魔術などというと私たちはあまり現実的に考えられませんが占いも同じことです。こういう宗教的な姿をとっていますが、しかし、ここに現わされている人間の心というのは自己利益の絶対化です。自分が得をすることをしたいということが、このような行為になって表れるのです。
三番目は、一番長いリストですけれども、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」です。これは、すべて人間関係を破壊させることがらのリストですが、これは他の人との関係が造れなくさせるもののリストです。仲間を造ることができない、仲間を受け入れることができない、なぜかというと自分を絶対化するからです。そして、人を見下したり、差別したりすることによって自分を守ろうとしたり、自分には手に入れられない思いが起こるとそこに妬む心がでてきてしまいます。
四つ目は「酩酊、遊興」です。お酒に酔いしれ、美食におぼれていってしまって、自分自身が崩れていってしまうのです。
こうして四つに分けて見ても、結局結びついているのは自己主張の姿です。人間には様々な欲があります。自由をもとめながら、自分、自分、自分とどこまでも自己利益の追求ばかり求める性質のことを肉と言う言葉で説明しているのです。これは原罪と言い換えることもできるかもしれません。罪の持つ本来の姿です。
この肉の状態からどうすれば逃れられるか、自由になることができるのか。それが、今日の箇所のテーマでもあります。それには二つの道があるとここに示されています。その一つが律法主義によって乗り越えようとする道です。つまり、戒めによって、自分を制限する生き方です。この考え方を最初に言いました禁欲主義といいます。もっとも単純に考えればそうなってしまうのですけれども、それがこの社会に広がっている考え方でもあります。
結果には原因があるのでその原因を取り除くというわけです。悪いことをしてしまうのであれば、それをしないように自分を戒めるのです。しないように節制し、禁止して守ろうとする。このやり方はもっとも単純でそれなりに効果があります。けれども、問題もあります。禁止項目をつくりますと、それにともない新しい悪が生まれるからです。
これは具体的な例をあげなくても簡単なことです。目標の学校に入るためには勉強する必要があると気づいて勉強をすることを決める。そのためにテレビを見ることを禁止します。ところが、少しだけと思ってテレビを見てしまう。テレビを見ることは悪いことではなかったはずが、ここでテレビを見ることは悪いことであるということになってしまいます。ですからテレビをつけてしまいますと、自分が決めたことも守れないなんてと自分が嫌になってしまい、自己嫌悪に陥ります。では今度はテレビを見ないようにするためにはどうすればいいかと考えて、何か罰則を造れば守れるのではないかと考えるのです。それで、新しい禁止事項を考える。そして、守れないことが増えていって、そこでどんどん自己嫌悪に陥るという具合になっていきます。これはもういたちごっこです。
はたで見ていますと何と馬鹿なやり方をと思うのですが、しかし、社会はほとんどこういう方法です。スピードを出し過ぎる車にペナルティーを科します。それでも、守らないので、点数を決めてその点数を超えたら運転免許を何日かとりあげる。それでもだめなら運転免許自体を取り上げる。本当は車というのは自由に目的地につくための便利な手段であるはずなのに、そのルールを守ることができないと、そこにも行くことができなくなってしまうのです。肉の思いに負けてしまうと、自由を奪われるということになるのです。
私たちが自由に生きたいと願いながら、自分の欲望のままに、肉の欲のままに生きると、やはり色々な問題が生じて来ます。それで、何とかそれを改善しようとする。けれども、また過ちを繰り返すということをやり続けているうちに、もう私たちは自分に自信をもつことができなくなってしまいます。こうなると、一度やっても二度やってもダメなんだからと開き直りたくなる気持ちさえ出て来てしまいます。我慢すること、人間の力で乗り越えようとする、つまり、律法主義の道に生きるとそこには不自由な道しか待ってはいないのです。ですから、結局この自分を戒めるという道では、この肉の欲を乗り越えることはできないのです。
けれども、パウロはもう一つの方法があるといいます。それが、御霊による生き方です。十七節にこうあります。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
私たちが本当にしたいこととは何かということが大事なことです。私たちが本当にしたいことは、肉の欲望にしたがって自分の思うままに生きることか、それとも、神の御心に従って生きるかということです。私たちは自分の無力さを知っています。自分の力で生きようとすると、本当に自分がやりたいことはできなくなるのです。つまり、ただしく生きようと思うことができなくなってしまうのです。自由を求めながら、自分勝手な自由を求めて行くならば、私たちは結局、自分を追い詰めていくだけで、そこには自由なんかないことに気づかされて行くのです。けれども、神の御霊に、聖霊に支配される生き方があるのだとパウロは言います。御霊は、肉の願うことに逆らうのだと。キリストのように生きることを人間が本当に願っていること、神に喜ばれるように生きることを、聖霊が助けてくださるのだとパウロは言うのです。
私たちが本当に自由に生きることができるのは、神が願っておられるように生きることです。そこで、神は私たちに神の霊である聖霊を与えてくださいました。二十二節と二十三節に御霊の実というリストをパウロはあげました。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
ここにあげられているのは、私たちは本当は心の中でしたいと思っていることのリストだと言ってもよいものです。これは御霊の九つの実などと言われる箇所ですけれども、実と言う言葉は単数形で書かれています。それで、よく絵で表す時はぶどうの絵で描かれることがあります。全体では一房だけれども、九つの実がついているというイメージです。いずれにしても、その一つの実は、この最初の愛という言葉にかかっています。ですから、御霊の実というのは愛のことだと言ってもいいのです。
私たちが自由に生きることができるためには、愛することにかかっていると言ってもいいのです。肉の欲の生き方が自分自身に徹底してこだわることがその姿だとすれば、まさに、愛に生きる、本当の自由に生きるというのは、自分をどれだけ捨てて愛することができるかということにかかっているのです。もちろん、それは神を愛することと、隣人を愛することです。
愛するということは、色々な言い方ができますけれども、相手のことを理解することです。知ろうとすることです。理解すると、どう行動すればよいのかが分かってきます。知ろうとしないことは無関心です。これは、愛することを止めていると言うことです。
こういうたとえが適切かどうか分かりませんけれども、動物の飼育係さんは自分の担当する動物を本当に愛して育てるんだそうです。そして面白いことに、長い間その動物とばかり向き合っていると、その動物に似てくるなどということが起こるそうです。
夫婦の場合でもそういうことがあります。まったく違う家庭環境で生まれ育ったはずなのに、長い間いっしょに生活しているうちに、互いに似てくると言うのです。
神が私たち人間を愛してくださるというとき、神は私たちに寄り添って理解しようとしてくださいました。それで、神が人間になるという驚くべき愛を示されたのでした。神のほうから人間に近づいてくださったのです。そうすることによってまた私たちも、神様のことを良く理解することができるようにされました。ですから、私たちがこの人となってくださった主イエスを仰ぎ見る時に、このお方に似てくるのです。そして、そのために、神は私たちに神の霊を贈ってくださいました。神のように生きるということがどういうことなのか、愛に生きることがどういうことなのかを教えてくださったのです。それはつまり、喜びに生きること、平安を持って生きること、親切にすること、善意を持って行動すること、という具合にです。
こうして第二の道が示されました。それは信仰に生きる道です。主イエス・キリストを信じて、キリストの御霊に、聖霊に導かれて歩む道です。この自由への道へ生きるために私たちは、ここでパウロが語っている本当に私たちがしたいと思っていることは、神に喜ばれる生き方であることに気づいていなければならないのです。
時折、私たちは腹を割って話そうではないかと言うことがあります。正直に自分を思っていることを話すべきだ。建前ばかりで、本音を隠してしまっているのは良くないなどといいます。特に教会では、人々は建前で話すなどということを言う人がいます。
二年前にこの教会の特別礼拝に講師で来てくださった加藤常昭先生が、以前私が牧会していた教会の礼拝説教でちょうどそのことをお話しくださいました。
私たちの本音とは何かと問われたのです。私たちの本音は、自分の心の赴くままに好きなことを話すことだという。それこそ、自由に人の顔色を見ないで発言することだと理解することが多いのです。もっと心の中では醜いことを考えているのに、クリスチャンだから、ここは教会だから言いたいことも言えないと考える人がいる。しかし、私たちの本音とは何だろうかと問われたのです。加藤先生は言われました。私たちの本音というのは、神が願っていることでなくて他に何があるのかと。
まさに、ここでパウロが語っていることです。私たちは自由に生きることを好き勝手にすることだと思っているかもしれない。それが自分の本心だと思っているかもしれない。しかし、そのような考えは肉に支配された考えで、私たちが本当の心の奥底からしたいと願っているのは、むしろそのようにして自分を滅ぼしてしまうことなのではなくて、自分が生きることができるようになること、喜びを見出すことができること、平安を見出すことができること、つまり、愛に生きること、御霊に生かされることではないかというのです。
パウロは語ります。
御霊に導かれて、進もうではありませんか。
と。二十五節です。これは、本当に人が自由に生きる道であることをパウロは確信して語っているのです。神を喜ぶ道がここにあります。自己憐憫や自己嫌悪から解放される道がここにはあります。人を孤独にする生き方からの自由がここにはあり、本当に自信をもって、確信をもって生きることのできる確かさがここにはあるのです。
確かに、この自由に生きるためには戦いがあります。しかし、それは自分の肉の欲を必死に目をつぶりながら耐え抜いて行くという戦いではありません。罪を犯さないように頑張るという戦いでもありません。自分が肉の欲に支配されそうになる時には、私たちを本当は支配してくださる聖霊を頼りにしながら主イエスを見上げることです。そして、主が何を願っておられるかを聞き、そう生きることによって得られる平安がそこにはあるのです。それは強制されることではありません。まさに自分がそうしたいからするのです。そして、私たちの内に働く聖霊は、そうしたいという気持ちをも引き起こしてくださるのです。
もし私たちが御霊によって生きるなら、主イエスによって生かされているのなら、御霊に導かれて生きることができるのです。この戦いを、御霊が戦ってくださることを信じて歩むことができるのです。
お祈りをいたします。