2010 年 10 月 10 日

・説教 「空の鳥、野の花を見よ」 マタイの福音書6章25-34節

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鴨下直樹

今、ずっと「山上の説教」から御言葉を聴き続けておりますけれども、この山上の説教にはとても有名な言葉がいくつも語られています。最初の「悲しむ者は幸いです。」という幸いを告げる言葉や、主の祈りもそうですけれども、そのほかにも実に様々な言葉が知られています。今日、私たちに与えられている「空の鳥を見なさい、野のゆりを見なさい」という言葉もよく知られた御言葉ですし、あるいは、そのあとに記されている「神の国と、その義をまず第一に求めなさい」という言葉もよく知られている言葉です。どうして、こういう言葉が良く知られるようになるのだろうかと考えてみますと、やはりそれは、多くの人の心をひきつける言葉が、そこに語られているからなのだろうと思います。そして、特に、今日私たちに与えられている言葉が良く知られるようになったのは、やはり、ここで語られている主イエスの言葉に多くの人が慰めを得たからだろうと思います。

今日の私たちに与えられている聖書の中には「心配」という言葉が六回も出てきます。新共同訳聖書では「思いわずらう」と訳されている言葉です。私たちの生活を振り返ってみますと、私たちの生活にはさまざまな「心配事」や「思いわずらい」があると言っていいと思います。そういう私たちの「心配」の中で起こる様々な心配や、思いわずらいを、聖書はどう語っているのかというのは、やはりキリスト者だけでなくても知りたいと思うところなのだろうと思います。
聖書を読むときに大切なことは、その言葉がどういう流れの中で語られているかということです。人によっては、聖書の有名な言葉だけをぽこっと取り出してきて、そこだけを読むということがありますけれども、やはり大切なのはどういう文脈で語られているかということです。今日の聖書の箇所で言いますと、先週すでに語りましたけれども、富に仕えるか、神に仕えるかということを問いかけておられまして、その後でこの話が語られているのです。どこを見て生きているのかということを主イエスは問いかけておられるのです。
そこで、問題になるのは「神に仕える」というのは実際にはどうすることかということでしょう。うっかり「神に仕える」などと言おうものなら、すぐに伝道者にならなければならないのかという心配事が出てまいります。そうでなかったとしても、自分の生活を営みながら、富のために、自分の生活を中心とするのではない生き方というのはどういうことなのだろうかという疑問が起こってくるのは当然のことだと思います。
そこで、一度整理しておきたいと思うのですけれども、主イエスはここで神に支配される生き方というのが、どういう生き方をすることなのかということを、非常に具体的に語ってくださっているということです。ここで語られていることの中心的な主題は「神の国と神の義を、まず第一に求めなさい」という33節の言葉に尽きると言ってもいいと思います。けれども、それはどうすることなのか説明抜きに簡単に理解できることではありません。それで、この25節のところからは「だから、わたしはあなたがたに言います」と言って、主イエスが私たちに願っている生き方、ライフスタイルというものがどういうものなのかを説明してくださっているのです。
今、私は「ライフスタイル」という言葉を使いましたけれども、生活の姿を顧みてみますと、すぐに思い浮かんでくるのは「心配事」、「思いわずらい」ということだと思います。どんなことに思いわずらうのかということです。そうすると、すぐにでてくるのは、食べること、飲むことと、着る物の心配です。つまり、日常の生活の心配です。けれども、私たちの日常の生活の心配事って何だろうかと考えてみますと、食べたり、飲んだり、着る物に困るというようなことから、少し変わってきていると言えるかもしれません。すぐに食べ物の心配をしたり、着る物の心配をするよりも、もっといろいろな心配事があるからです。どうしたら人とうまく折り合いをつけていくことができるかとか、決められた期日までに仕事をどうしたらやり通すことができるかというようなことかもしれません。いずれにしても、生活の中で起こる、さまざまな事柄であるに違いはありません。

私がいつも説教の準備をする時に楽しみにして読む読み物があります。それは竹森満佐一という牧師が教会で語りましたこの山上の説教の講解説教です。この牧師はここのところで、人間はどうして心配するのだろうか、思いわずらうんだろうかということを考えています。そこで面白いことを言っているのです。思い悩みがどこから来るかというと、自分でこうだと決めてしまうところからはじまると言うのです。あの人はこう思っているに違いないとか、これはこうなるはずだと思い込むのではないかと。そして、事柄が重要であればあることほど、思い込みが強くなる。しかも、この牧師は、さらに困るのはそうして思い込むだけに留まらず、多くの場合人は悲観的になってしまう。たとえば、誰かのことを考えると、あの人は親切にしてくれるはずがないとか、自分のやり方に反対するに違いないとかといって悪い方に、悪い方に考えてしまうと言うのです。この牧師は人間洞察のするどい人だといつも感心するのですけれども、私自身のことを考えてみても当たっていると言わざるを得ません。
興味深いことに、この「心配」とか「思いわずらい」と訳されている言葉は、「分裂する」という言葉が元になっています。つまり、心の中の思いが分かれてしまうのです。自分が思い込んでいることと、実際に起こることが異なるために、その事柄をどう考えたらいいのか心の中で考え方が分かれてしまうのです。前回のところでは、「目が健全」という言葉は「目が澄んでいる」という意味で、一つのところを見るということだと言いましたけれども、ここでは、心がいくつもの思いに分かれてしまうのではなくて、一つの思いに定まることが、心配事から解決だということができるかもしれません。
色々な聖書学者がここで食べたり飲んだり、着たりするものの心配をするなと、主イエスが語っておられるけれども、明日のために備えるためにする労働を禁じているということではないと言います。明日のために心配しなくてもいいのであれば、明日からは働かなくてもいいのかというそうではないと言うのです。
カトリックの神学者で雨宮慧という聖書学者がおります。今、NHKのこころの時代という番組で毎週第三の日曜の早朝の五時という早い時間ですけれども、「福音書のことば」というシリーズの放送がなされております。この教会の中にもこの番組を見ておられる方もあるかもしれません。この方は非常に優れた神学者であり、言語学者です。この人の書いた本の中に、聖書の中に語られているギリシャ語の持つ意味を丁寧に解説した素晴らしい本がいくつもでております。その中に、この「心配」とか、「思いわずらう」と訳されておりますこの言葉を解説したものがあります。そこではこの雨宮先生は心配という言葉は「生存にかかわる重要な事柄が心をとりこにする」ことを意味すると解説しています。つまり、ただ色々なことで心を疲れさせて悩んでいるというようなことに留まらず、自分の存在に関わる心配事だというのです。何を食べるか、何を着るかとうい事柄も、つまらない悩みだというように主イエスは考えてはおられないということです。主イエスはこの27節のところでこのように語っておられます。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(27節)

その心配事は今さえ上手くいけばいいというようなことに終わらないで、自分がどう生きていくか、自分のいのちそのものと深く結びついているではないですかと、ここで主イエスは問うておられるのです。主イエスの方が、私たちが心配しているよりも、もっと先を見ていてくださるとさえ言っていいと私は思います。

先週のことですけれども、教会の俳句の会の方々に誘われて、月曜日の朝に鷹の渡りを見に行く計画を立てておりました。私はこの地域で鷹の渡りが見られるなどということはこれまで聞いたことはなかったので、非常に楽しみにしておりました。残念ながらその日は天気が悪くなってしまったために見ることができなかったのですけれども、毎年このくらいの時期に、鷹が渡っていくのだそうです。そう考えてみますと、渡り鳥もこの季節です。この季節になりますと、温かい方に群れをなして飛んでいく鳥を見ることができます。ところが、鷹というのは、群れをつくらないで、単体で渡るのだそうです。すぐ近くに岐阜城がありますけれども、その隣の山の上を毎年何千羽という鷹が、一羽づつ渡っていくのだそうです。弱い鳥は群れを作り、強い鳥は単体でというのですから本当に面白いものです。
これもまた先週のことなのですけれども、この教会の玄関を入りますと、廊下が教会の反対側までまっすぐに続いておりまして、向こう側、つまり外にある壁に小さな十字架がくり抜かれているのをそのまま眺めることができるようになっております。その十字架の下のところに小さな植物が植わっています。年中きれいな葉をしげらせている背の低い木です。私はその植物が何という名前なのかよく分かりません。この木は、ほおっておくとどんどん葉を茂らせて背も高くなってしまいますので、時々この枝のせん定をしてやらなければなりません。先日、そろそろせん定をしなければならないかなとその枝を見ますと、見事に一本も葉が無くなっているのです。どうしたんだろうと見てみますと、すべて青虫が葉を食べてしまっているのです。先週までは青々とした綺麗な葉が茂っていたのです。本当に不思議なものです。わずか数日で、みごとに葉がすべてなくなってしまっているのです。それを見ながら、ここで主イエスが語っておられる言葉を思い返さざるを得ませんでした。
主イエスはこう語っておられます。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(26節)

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(28、29、30節)

主イエスはここで、どれほどまでに、私たちに神が心を留めてくださっておられるかを語ってくださっています。私たちにはさまざまな思いわずらいがあります。実に多くの心配事があります。けれども、それを主イエスは決して小さな事とは考えておられるわけではありません。むしろ、あなたのいのちにかかわることだとさえ見ていてさえくださるのです。そして、鷲が一羽で渡りができるように造られた神は、私たちが羽ばたいて生きることができるようにしてくださっていることを知らなければなりません。花が美しく神に養われ、神にすべてを託してしまっているように、私たちも神に身をゆだねて生きることが必要なのだと語ってくださるのです。神は私たちに、心をとめていてくださるから、この神を信頼したらよいのだと、主イエスは語ってくださるのです。

私たちの芥見キリスト教会は来年で教会設立35周年を迎えます。新しい礼拝堂ができてもうすぐ四年になります。今日は、この礼拝の後で、近くの根尾クリスチャン山荘に行きまして教会のキャンプをします。教育部の長老がそのためにもう長い間準備を進めております。なぜ、こういうことをするかといいますと、感謝なことに私たちの教会の仲間に加わってくださる方々が増えてまいりました。そうすると、私もそうですけれども、以前の礼拝堂のことなどはあまり知りませんし、当然のことですけれども、これまでどのような牧師がこの教会で伝道してきてくださったのかということもあまり知らない人が増えてまいります。それで、この芥見教会のことをお互いに良く知っていただきたいという願いからキャンプをしてはどうかと教育部で考えたのです。それだけではありません。教会にはさまざまな集まりがあります。子どもの集まり、学生の集まり、各会、今年から新しく始まりました語学クラスですとか、俳句の会とか、パッチワークの会だとか、子育て会とか実にさまざまな集まりがあります。このそれぞれの会というのは教会に長く集っていたとしても、誰もがすべての会に出席するわけではありません。まして、長老会や役員会ではどんなことをしているのか、誰がそれに携わっているのかということまで考えていきますと、本当に知らないことがたくさんあると思います。それで、そういうことを知りあう機会を作ったらいいということになったのです。幸いなことに、明日は祝日ですし、全期間参加しなくてもいいからという勧めもあってかなり多くの方々が参加してくださるようで、今から楽しみにしている方も多いのではないかと思いますし、私も大変楽しみにしています。
その中で、これまでの教会の歩みを写真を見せながら六分間で紹介をするという時間があるそうです。六分でできるのかどうか、今から興味のあるところですけれども、そのために写真を大きなスクリーンに写しだして見せるための準備をしてくださいました。たくさんの教会の写真があります。35年というのは、本当に長い教会の歩みです。牧師だけでも、ストルツ先生が開拓をしてくださってから順番は私もよく分かりませんけれども宮園先生、飯沼先生、川村先生、脊戸先生、浅野先生、後藤先生と実に様々な先生方がこの教会の伝道にかかわってくださいました。その中には牧師がいない期間(それを無牧と言います)、その間に助けてくださった先生の名前を入っていますけれども、わたしで八人目ということになります。そして、それまでの教会の歩みには実にさまざまな出来事があったことと思います。今日の御言葉の最後にこういう言葉があります。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(34節)

この御言葉を読みますと、本当にこの教会の歩みそものが、さまざまな心配事の連続であっただろうと思います。この35年にわたる教会の歩みは、その中に大変なこともあったと思うのですけれども、その一つ一つの場面、それこそ写真には写らないようなさまざまな教会に集う人々の、厳しい生活があったと思うのです。そして、そのために役員をはじめ、牧会に携わってくださった牧師たちのさまざまな戦いがあったと思います。けれども、こうして、今日もなお、ここに教会が建てられ、伝道が続けられ、新しくこの教会の仲間に加えられる方々が起こされ続けております。それは、何と言っても、この教会が神のものであるということのしるしです。

主イエスは言われました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と。「神の国」を求めなさいと主イエスは言われました。神が支配してくださることを求めなさいというのです。私たちの生活そのものが、この教会の歩みそのものが、まるで天国であるかのように、神が支配してくださることを求めたらよいのだと言ってくださいました。また、この神の国を求めると同時に、このお方の義、義しさを求めなさい、このお方のなさり方を求めて生きなさい。求めるだけではない、求め続けて生きなさいと言われました。それは、この神の国と神の国を求めることがどんなものにもまして必要なもの、大切なものだからです。
心配事がなくなる、悩みが解決することはとても大切なことです。けれども、それにまさって主を求める生活を第一に求めるように、主イエスは願っておられるのです。何故でしょうか。どうしてこう語ることができるのでしょうか。それは、神の支配のもとで生きること、神の義しさを求めて生きることがどんな幸いにも勝るからです。私たちの生活、生き方、ライフスタイルを私たち以上に心配していてくださるのは神ご自身です。この神の国に生きること以上の幸いはありません。そして、何よりも日常の生活の中で起こるさまざまな心配事を主にゆだねることができるようにと招かれているのです。主はそこで私たちにどのような幸いを見せてくださるのか、主を見上げつつ共に味わおうではありませんか。私たちが心配になるなら空の鳥をみたらいいのです。野の花を眺めたらいい、この芥見教会のことを思い起こせばいいのです。ここにキリストの真実があるからです。この私たちの教会を守り支えてくださった主は、私たちの日ごとの歩みも確かに支えてくださるのですから。
お祈りをいたします。

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