2010 年 10 月 3 日

・説教 「あなたの宝のあるところ」 マタイの福音書6章19-24節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:46

鴨下直樹

今日の説教の題は「あなたの宝のあるところ」という題をつけました。私はいつも、自分のつけた説教の題が、下手な題のつけ方だなと少し心苦しい思いを持っています。ひと月前に、説教の箇所と題をすでに記いて、みなさんに今月の予定と共にお渡しするために、いつも説教代は暫定的につけます。まだ説教ができているわけではないのでやむを得ないということもありますし、後で変えればいいと思うのですけれど、それでもうまい言葉が見つかりません。けれども、今日のところについて言いますと、言いたいことはだいたい伝わるかなとも思っています。
今日のタイトルにあるように、ここの聖書の箇所の主題は明らかに宝です。後半のところでは富と言い換えられていますけれども、私たちの宝とは何か、私たちの心はどこに向かっているかということを、主イエスは問うておられるのです。しかし、宝などという言い方をしますと、すぐに連想されるものは「宝箱」です。古めかしい箱に入って、人目に触れないようにして隠してあるもののことをまず考えます。

私の子供のころの話で恐縮ですけれども、母親に「うちには宝箱はないのか」と尋ねたことがあります。そうすると母は少し考えてから、「ある」と言って、押入れの中から小さな箱を取り出してきました。私はその小さな箱をどきどきする思いで見つめていたのをよく覚えています。何が入っているのかと尋ねると、母は少し私に見せるのを躊躇するのです。そうすると、一層見たいという思いが強くなります。何度もねだっているうちにとうとう根負けしまして、私にそれを見せてくれました。その小さな箱を開けますと、そこには小さな紙が丸めてられて、まるで蜂の巣のようにぎっしりと詰め込んであるのです。それは何かと尋ねますと「御言葉だ」と言うのです。私は「なーんだ」と一瞬にして興味を失ったのですけれども、これはすごい物なのだと母は言うのです。たしかそれは中国語で書かれたものであったと思います。中国で伝道していた宣教師から貰ったのだということでした。見てみると、小さな紙にびっしりと御言葉が書かれていたのです。中国というのは共産主義の国ですから、一般には誰も聖書を持つことは許されておりません。それが印刷されたものであったのか、手で書いたものであったのか今ではよく覚えていませんけれども、そういうなかで、御言葉を書いた小さな紙を箱に入れて隠して持っていたものが、巡り巡って母が手にすることになったのです。
今そのことを思い返すだけでも、本当にその小さな箱のなかにある御言葉は、その時の中国のキリスト者にとってまさに宝であっただろうと思います。聖書を全部手にして読むことはできなくても、その一節一節の御言葉を何度も隠れるようにしながら読んでは、心に御言葉を刻み付けていたにちがいないのです。
けれども、当時子どもであった私は興奮しながらそれを眺めましたが、その宝の本当の価値を理解することができませんでした。私が思い描いていたのは、子どもが思い描くような宝箱に鴨下家にまつわる財宝でもないものかという期待の方が大きかったのです。おそらく、みなさんでも小さな頃に同じような思いを持って、家に宝物はないかと親に聞いたことがあるのではないでしょうか。

我が家にはどんな宝があるだろうか、あるいは自分にどんな宝があるだろうかと考えることがあると思います。そういう場合「宝」というものを、色々と考えることができると思います。一般に考えるのは、高価なもの、貴重なもの、私が思い描いたような、宝箱に入れてしまいこむような財産のたぐいです。あるいは、人によっては「家族」あるいは、「子ども」、「孫」が宝だと考えることもあるかもしれません。健康が宝であるとか、自分にとっては、自分のこれまでの経験が宝であるという場合もあるかもしれません。ドイツなどでは夫婦の間で、実際に「シャッツ」「シャッツィー」などと言います。これは「宝物」という意味そのものです。そのように、相手のことを宝のように大事に思うということがあると思います。
新改訳聖書では19節から21節までのところは一貫して「宝」という言葉が使われていますが、新共同訳聖書をお持ちの方は「あれ?」と思われるかもしれません。新共同訳では「富」と訳されているのです。もともとの言葉は「財産」を意味する言葉ですから「宝」と訳しても「富」と訳すことも可能だと思いますけれども、この「富」という翻訳を選んだのにはおそらく一つの理由があるのだろうと思います。それは、今日の聖書箇所の最後の言葉である24節の終りに「あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と記されています。ここに記されている「富」という言葉は「マモン」という言葉であると新改訳の注にも記されています。この言葉は明らかに前のところで語られている「富」というのとは違う意味で書かれているのです。この言葉は「マモン」と言ったり「マンモン」と言ったりします。英語でもそのまま「マンモン」と使われている言葉です。これは悪魔的な富の力を表す言葉です。たとえばお金に物を言わせるような「拝金主義」というような言葉などはこの言葉から来ておりまして「マモニズム」などと言ったりします。
ある聖書学者の説明によると、この富を表すマモンと、お祈りの時に言うアーメンという言葉とは深く結びついていると言う人があります。このアーメンという言葉は「確かに」、「真実」という意味の言葉です。この確かさを表すアーメンと富の力を表すマモンというのは言葉がとても似ているというのです。この富、マモンというのは、そのように確かなものという意味があったのではなかったかと考えるのです。
これは説明としてよく分かる説明です。私たちが「富」を求めるのはなぜかと言うと、将来のための確かさを求めるからという部分があるのです。先日もある方と「貯金はどうしても必要だろうか」という話をしました。というのは、「本当に神様を信頼しているのであれば貯金なんていらないのではないか」という考えがあるからです。もちろん、こういう会話は気をつける必要があります。信仰があれば病院に行かなくてもいいのではないかということと同じような話になってしまうからです。神様はこの世界にあるもののすべてを否定しているわけではありません。それらを正しく用い、管理するように、あるいは知恵や技術を用いて生きるということは私たちの使命でもあります。ですから、貯金は必要ではないと言えません。その時の会話でも、やはり、ある程度の備えは必要ではないかという話をいたしました。けれども、そうすると、すぐに考えなければならないのは、この「ある程度」というのは「どの程度」なのかということになるのです。それは簡単なことではないことだと言えます。
この聖書の箇所19節からの「宝」、あるいは「富」という言葉のことをよく見てみますと「自分の宝」、「自分の宝」と二度にわたって語っています。これは、一つの富に支配された姿をよく表していると思います。これは自分のものだから絶対に離さないというような非常に強い執着心を引き起こさせます。いつもそこに心が向いてしまうのです。富の力というのは、それほどまでに強い力を持っているということを、私たちは知っていなければなりません。

私は、主イエスは本当に話の達人であったと思うのですけれども、22節から少し違った視点で語り始めています。けれども、ここで語られていることがまるで違う話なのではなくて、ちゃんと一つの意図をもって丁寧に語られていることがわかるのです。主イエスはここで、宝の話から少し離れまして、こんどは「目」の話をいたします。「からだのあかりは目」だと言うのです。

昨日のことです。毎月教会で行われています俳句の会「ぶどうの木」に出席しました。いつもそこで短い話をするのですけれども、昨日私は、そこで主イエスは詩人であったという話をいたしました。そういう意味では教会で俳句の会があるというのは、とても良いことだと思っています。主イエスが詩人であるというのは、私が言い出したことではありませんで、そういうタイトルのついた本もあるのです。主イエスが詩人であるという言い方は、多くの詩人たち、あるいは文学者たちが聖書を読むと、そう思わざるを得ないような実に豊かな言葉にぶつかるからです。その一つにこの言葉があると言ってもいいと思います。
「からだのあかりは目です。」
面白い言い方です。昨日もそこでお話したのですけれども、目はものを見るところです。その目があかりだなどという言い方は普通しません。けれども、主イエスの独特の言い方で、まさに詩人のような語り方をなさるのです。ここで、主イエスが考えさせておられるのは「あなたが見ているものが、あなたから映し出される」ということを、主イエスなりの言葉で語っておられるのです。言ってみれば詩的に表現しておられるということができます。目から入ってくるもの、あなたが見ているものによって、あなたは外にそれを表している、そのような影響を受けているでしょうと言っておられるのです。
「からだのあかりは目です」と言われた後で、こういう言葉が続きます。「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」と。ここに「目が健全」という言葉がでてきます。健全という言葉はそれだけでも意味はよく分かりますけれども、新改訳聖書の下の注を見ますと「澄んでいる」となっていまして、新共同訳聖書ではこちらの翻訳を採用しております。「目が澄んでいる」というのは、混じりけのない目をしているということです。この言葉のヘブル語にまで意味をさかのぼりますと「二心のない」という意味になります。つまり、変なものが映っていないのです。あれもこれもと、色々なものを同時に見ようとしていない、ただ一つのものをひたすらに見つめているということです。
反対に23節では「目が悪ければ」と語っております。「貪欲な目」をしているということです。目が濁っているということです。あっちもこっちもと、視点が定まらないで、いつもきょろきょろしているのです。あれを手に入れれば幸せになれるのではないか。あれはどうだろうか、これはどうだろうか、と様々なことを考えながらいつまでも落ち着かない。そうすると、もちろんそれはその人の生活に表れてきます。
色々なものに目移りしながら、マモンの持つ力に引き寄せられていってしまう。地上の財産はもちろん大事なものです。それは富むものも、貧しいものも同様です。あれも、これもと実にさまざまなものに心を寄せながら、何とか安心を得たい、平安を得たいとやっているうちに、肝心なものを忘れてしまう、いや、肝心なものから目が背けられていってしまうのです。

このところの21節には「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」とあります。私たちが見ているもの、心を向けているところ、それがあなたの目から入ってくるのだから、そうしてあなたはすっかりそのものに支配されている、それこそがあなたの宝になっていると主イエスは言われるのです。

今朝はこの礼拝に、来年から神学校で学びたいという思いを持っているM君が来ております。いつもは東京で生活をしているのですけれども、少し遅めの夏休みをいただきまして、先週からこちらに帰って来ております。先日、彼とこれからのことを少し話すことができ、それはとてもよい時間になりました。M君と色々な話をしながら、その話を聞いている間中、私の心の中に今日の御言葉が響いておりました。伝道者になるということを、最初から考えているなどという人は誰もおりません。あるとき、思いがけず主から自分がそう語りかけられているのではないかと様々な形で主の御声を聞くのです。そういう彼の証しを聞きながら、その心の中にずっとあるのはまさにこの御言葉なのだろうと思うのは今日の最後の御言葉です。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えることはできません」。25節にそのように語られています。
証しを聞きながら、M君の心に神さまが語りかけておられたのは、神に仕えるのか、富にも仕えたいのか、ということだったようです。もちろん富というのは金銭的な意味だけではありません。この世界のものと、神とあなたはどちらを選ぶのかと問われたというのです。そして、私はあなたに仕えますと決断したのです。それは、本当に厳しい決断であったに違いないのですけれども、そう言いながら実にすがすがしい顔をしていることを本当にうれしく思いました。目が健全なのです。澄んだ目をしているのです。もう神さまを見上げていくぞと決めている目なのです。それは、なんという幸いなことだろうと思います。
この御言葉を聴くものが、誰もがみな伝道者にならなければならないということでは決してありません。けれども、私はこのお方を見上げていくのだと確かな確信を持って生きることは、私たち誰もができることなのです。なぜなら、主がそのように招いていてくださるからです。
私たちの心がそのように定まり切れないとしたら、そこに何があるかというと、他にも宝があるのではないかと考えてしまうからです。いや、もっと安心できるものが他にもいろいろあるのではないかと考えるのです。もちろんこの地上の富が大事ではないと言っているのではないです。それも、大切なことです。老後の備えをしておくことも大事なことでしょう。けれども、私たちは天を見上げることを忘れて、平安を持って生きることなどできないのです。
「天に宝を蓄えなさい」と主は言われます。地上にどれほど蓄えたとしても、「そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます」とあります。これも主イエスの独特の言い方ですけれども、宝を入れる箱は、大抵木で作られた箱です。けれども、その箱は虫が食ってしまって、安全ではない。では鉄の入れ物をつくればいいのかというと、鉄だって錆びてしまう。いや、家に隠しておけばいいのだと思うかもしれないけれども、その家だって、穴を開けて盗みに来るというのです。この穴を開けてというのは、家の脇から穴を掘ってというようなことではなくて、どうも家の壁そのものに穴を開けて、入り込んでくるというようなことがあったようです。どんなことをしたって、地上でたくわえたものは安全とはいえないではないかと、主イエスはここで非常な皮肉を使って語っておられるのです。

ご存じのとおり、ここ数年世界の経済はひどい状況です。ドルが考えられないほど安くなっています、ユーロも安い。そして、円だけが高いというような状況が続いています。なぜ、こんな話を突然し始めたかと言いますと、私たちは「富んでいる」ということをよくよく理解していなければならないからです。一般に、世界の三分の一の富む国の人々が、三分の二の貧しい国の人々の分まで食べてしまっているなどと言います。ところが不思議なことに、私たちは富んでいる国の中に生活していながら、自分たちの生活が富んでいるという実感がありません。今、私たちの町でAPECが開かれておりまして、どうしたらこの世界不況の現状から乗り越えることができるかということをアジアの各国の代表たちが集まりまして話し合っているほどです。「富む」ということは、それほどに大きなことです。そして、私たちはそういう富の力をどうしたら持つことができるかという世界の中に生きているのです。ですから、それは私たちの生活の大きな関心事にもなります。なぜ、これほどまでに「富」を求めるのかと言いますと、それは私たちの生活を安定させるもの、私たちのいのちそのものを守るものだという思いがあるからです。
もちろん、私たちに必要なものは富だけではないということです。私たちが生活する環境も、自然、教育、健康、才能、挙げればきりがないほど様々なものを必要としています。そういったものを一つ一つ数え上げながらも、それを手に入れることに夢中になってしまって、やっと手にいれたことは「自分の宝」だからと隠してしまったところで、それで一体どうなるのかということを主イエスは問うておられるのです。
私たちはさまざまな富を手にすることができます。お金だけではない、豊かな人間関係も、知恵も経験も、まさにあらゆるものが含まれています。そしてそれを、自分のものとするのではなくて、神のものとする。神に使ってください、用いてくださいと、それを主のために生かすときに、私たちのもっているさまざまな富は、天に積み上げられていくことになるというのです。それは、自分という、小さなところしか見えていない、小さな幸せに留まるのではなく、天に、神の御国のために用いられていくということです。このように、私たちが天に宝を蓄えながら生きる時に、私たちの目は澄んでいるばかりか、私たちの体そのものが、その天のすばらしさを輝かせる光となって、この世界に表されていくことになるのです。私たちの目に映るものが、そのように神に一つに向けられているなら、澄んだ目をして生きることができるだけでなく、私たちが見ている天の光が、私たちの生活に輝いていくのです。そしてそこに、私たちの本当の生きる喜びと、平安と、充足感が与えられるのです。そして、それが私たちの喜びの姿として、この世界にまるで光のように輝かされていくことになるのです。

お祈りをいたします。

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