2013 年 11 月 17 日

・説教 出エジプト記20章8-11節 「第四戒 聖なる日とする」

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2013.11.17

鴨下 直樹

 

 もう少し前のことになりますけれども、スイスの説教者でヴァルター・リュティの書いた「あなたの日曜日」というエッセーが翻訳されました。日曜日の礼拝の祝福についてあらゆる事柄がその中で考察されているとてもユニークな読み物です。以前紹介したことがありますので覚えておられる方もあると思います。その時にもお話ししたと思いますが、この本の冒頭で月曜日に野良に出かける農耕馬のことが書かれています。こんなはなしです。農耕馬は月曜日になると、早く馬具をつけてもらいたくて、せかせかとしながら、納屋から出されると、綱をぐいぐいひっぱっていきます。ところが、人間は月曜の朝を迎えると、冷え切ったモーターをやっと動かすように重たい足取りで出かけて行きます。そこでリュティは書いています。「どうしても考えないわけにはいきません。なぜ馬はあのように月曜の朝、元気いっぱいに蹄で地面をガリガリかくのに、私たち人間は冴えない気持ちで同じ朝を思い、不機嫌な気持ちと戦わなくてはならないのか。どうして農耕馬には日曜日が実にはっきりした祝福になっているのに、今日の私たちにとっては日曜日がますます厄介なものとなっているのでしょうか。結局、馬には秘儀が分かっており、私たちには分からなくなっているということなのでしょうか」。こんな風にこの本ははじまっていきます。

 リュティーがこの本の中で問いかけていることは、私たちにとってとても切実な問いです。馬は月曜日が待ち遠しくて仕方がないのに、私たちは月曜日は気が重くなってしまっているという現実があるからです。私たちにとって日曜日が祝福となっていないならば、私たちの一週間は、私たちの働きもまた、気を重たいものとなってしまいます。では、日曜日の祝福の秘密とはいったいどこにあるのでしょうか。

 

 この第四の戒めは安息日を聖なる日とせよという戒めです。それではじめに、この安息日と主の日と呼ばれる日曜日との違いについて短く説明しておく必要があるかもしれません。旧約聖書の時代、安息日、今でいう土曜日のことでした。けれども、キリストの教会はこの安息日を、主が復活された日曜日に振り替えます。主がよみがえられた日こそ、主に礼拝をささげ、主からの安息を受けるのにふさわしい日と考えたからです。そういうことから主の日とか、主日という呼び方をするようになりました。ですから、内容的に考えても、ここで安息日と教えられている戒めは、主の日の教えとしても差し支えありません。

 

 興味深いのは、この出エジプト記ではこの安息日を大切にする根拠として、十一節で、

それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

と記されているということです。出エジプト記では安息の戒めの根拠は天地創造の時に主が休まれたからだと言っているのです。思い起こしていただきたいのですけれども、神が六日間かけて天地を創造されて、最後に人間をお造りになりました。そして、七日目に神はすべての業をやすまれて、その日を聖なる日とされました。そうすると、人間は最初に安息からその生活をスタートさせたことになります。ということは、神ご自身は一週間お働きになられて、人間に安息をお与えになられたということを意味します。私たちは、安息というのはどこかで一所懸命に働いたご褒美として休みがあるのだというような理解をついしてしまいがちですけれども、そうではなくて、神がすべてを整えてくださって、そして、人間に安息することからその生涯をはじめることを教えられたということです。

 ここに安息日の祝福のみなもとがあります。神がすべてを備えていてくださるから、私たちは神の御前で憩いを得て、そして、喜んで私たちに与えられている一週間の務めに向かっていくことができるのです。これが、安息日の祝福の一つの大きな意味です。

 

 けれども、先ほどもみなさんと一緒に十戒を唱えました。讃美歌21には、その下の部分にこの第四の戒めについて、申命記に記されている十戒の安息日の文章を読んでもいいと書いております。そこには何が書かれているかと言いますと、安息日の根拠はエジプトの奴隷であった民が神に救いだされたことを思い起こすために、と書かれています。申命記に記されている十戒のほうでは、あなたがたが救われたことを思い起こすためにこの日を聖なる日とすべきだと記されているのです。出エジプト記に記されている十戒と、申命記に記されている十戒は、この第四の戒めのところでその理由が大きく変わっているのです。申命記のほうでは、安息日の戒めの根拠は出エジプトの救いを思い起こすため、救いを感謝する日として安息日が定められているというのです。

 これもとても大切なことです。私たちは今日、主の日を主の復活をお祝いする日として大切にしていますが、これも主の救いを思い起こすためという大切な意味が込められています。しかし、旧約聖書の時にはすでに、安息日は主の救いを思い起こす日として定められていたのです。主がエジプトの奴隷であったイスラエルを救ってくださったことをこの安息日に思い起こすことを通して、安息日を迎えるごとにイスラエルの人々はもう一度、心をリセットするといいましょうか、神の救いの事実に目をとめることから生活をつくりなおすことを覚えたのです。

 私たちにとって主の日も、何よりもまずこの二つのことを思い起こすことが大切です。私たちはこの礼拝に呼び集められて、神が私たちに神とともにある安息を与えてくださることによって、私たちの一週間が神の祝福のなかにおかれていることを覚えると共に、私たちは神に救いだされた者として、もう一度この世界に派遣されていることをここで新たな思いを持つのです。神の備えの中で生活を築き上げて行くのだということと、神の救いの御手の中に置かれている、この二つのことが覚えられていて、私たちの一週間は、この神の祝福の中を歩むことができるのです。

 

 私たちにとって、この日曜日というのは色々なことが求められます。今朝も、地域清掃がありまして、私自身も出かけて行き池の周りの草刈りをしてまいりました。そのように、地域のさまざまな行事が日曜日に行なわれることがあります。あるいは、会社の仕事がどうしても休めなくて出勤しなければならないということがあります。あるいは、家族が日曜しか休みがないので、そのために時間を取らなければならないということがあります。実際に、礼拝のために時間を割くということはとても大変なことです。けれども、そうだからといって、この日を、この世の都合自分の都合を優先させてしまうときに起こるのは、結局のところ、自分の心を整えることのないままにまた一週間を迎えてしまうことになります。そうすると、私たちの前に広がる一週間は、我慢と忍耐に耐え忍ぶもので、それこそ、次の休みまでなんとか乗り切って、休みこそがご褒美なのだということになってしまうのです。

 しかし、神は私たちに先だって、すべての働きを終えて、私たちを神とともにある三足に招き入れて下さろうとしておられます。また、私たちが神の救いを受けたものとして、この一週間どのように生きることができるかを励まし、支えてくださるのです。

 

 考えてみてくださるといいと思いますが、毎日、一日も休まずに働き続けたらどうなるか。休みなく働きつづければそれはそれだけ仕事がはかどる事でしょうし、それだけ稼ぐことができるでしょう。しかし、そのような生活を永遠に続けることはできません。神は、この世界を創造された時から、六日間働いて、一日休むように秩序づけられました。これは、神の知恵です。この日を神の御前で過ごすことによって、その一週間が祝福されたものとなるのです。たしかに、目の前に仕事があって、やるべきことがあって、それにもかかわらず休むということは、実に大きな決断が求められることです。しかし、そこでこそ、神への信頼が問われるのです。自分で限界まで働くことができる自分を信じるのか、それとも、この世に秩序をお与えになられた神を信じるのか。この日が、祝福されたものとなるかどうかは、この信仰にかかっているのです。

 以前いた教会に一人の音楽家の方が教会に来られるようになりました。仕事はギターを弾くことです。ギター教室で教えることと、終末に色々なホールやお店で歌手の後ろで演奏をするのが仕事でした。その方が、教会に来られるようになって信仰に生きる決断をしました。私はその時に、もしあなたが信仰に生きる決断をすると、ひょっとすると今までの仕事ができなくなるかもしれないけれどもそれでもいいですか、と訪ねました。その方はもちろんそのつもりですと返事をされました。

 キリスト者になるということは、そのまま収入がへることを意味していました。けれども、その方は、神の祝福は収入の多い少ないとは関係ないのだということを知ったからこそ、信仰に生きる決断をされたのでした。

 

 さきほど、ヘブル人への手紙の4章を読みました。ここには安息日の意味についてが記されています。十節にこう言う言葉があります。

神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

とあります。神が休んだのだから、私たちも休むのだ。その時に、神がそこで与えようとしておられる祝福の意味を見出すことになるのです。

 ヘブル語の安息と言う言葉は、「やめる」という動詞からできた言葉です。日本語のイメージでは安らかに息をつくという字を書きますから、とても静かな印象を受けますが、このヘブル人への手紙がそうであるように、安息とは神を信頼して、その手のわざをとめることにあるのです。

 出エジプト記二十章十節にこのように記されています。

しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――― あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―――

この安息日の戒めは、すべての人に適応されるべきだとここに記されています。自分だけが休んで、僕に働かせればいいのだとか、子どもたちに代わりにさせればいいのだということではないのです。

 ドイツに行って感心したのは、日曜日になりますと、すべてのお店が徹底して休みです。一部の観光地を除いて食事をするところを探すことも大変です。ですから、日曜日になると、いつも午前中に礼拝に行って、午後はのんびり過ごしました。教会も午後には何のプログラムもありません。本当は私たちもそうするべきなのかもしれませんが、幸い、今日は午後に何の予定もありませんので、ゆっくり過ごしていただければと思いますが、この聖書の言葉が守られるためには誰かだけを働かせると、この聖書がまもれないということがその背景にあるからです。そうして、月曜日からの自分の務めに備えるのです。

 この戒めを積極的な言葉でいいかえるとすれば、「主の日には神の御前で備えて一週間を生きよ」ということです。それが、この日を聖とするという意味です。そこに、私たちが自分の生活を取り戻す第一歩目の歩みがあるのです。

 

お祈りをいたします。

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