2014 年 1 月 26 日

・説教 出エジプト記20章15節 「姦淫の罪とは」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:31

 

2014.1.26

鴨下 直樹

 

姦淫してはならない。

これが今朝私たちに与えられている十戒の第七の戒めの言葉です。この短い戒めですけれども、この戒めを通して私たちが本当に考えなければならない問題が、ここにはたくさん潜んでいると言っていいと思います。

 まだ、若い時にこの戒めをめぐってずいぶん悩みました。私たち同盟福音基督教会という教会は、敬虔主義の流れを持っています。敬虔主義の「敬虔」という字は、よく「敬虔なクリスチャン」と言う時に使われる言葉です。信仰の歩みは実生活に証されるべきであるという考え方が、この敬虔主義の考え方の根底に流れています。ですから、たとえば「聖日厳守」とか「禁酒禁煙」というような標語が教会でも掲げられてきました。私の父も牧師をしておりましたけれども、非常に厳格な敬虔な牧師です。毎朝早天祈祷をし、大きな祈りの課題があれば断食をし、暇があればトラクトを配るか、車の上にスピーカーを載せて町に伝道に出かけるという生活です。そういう両親に育てられましたので、聖書の戒めについては厳格に守るように子どもの頃から教えられてきました。そのことについては、私は今となっては本当に感謝しています。そのように教えられなければ、本当に神さまに従うことについて考えてこなかったと思うからです。

 先ほどもお読みしましたけれども、マタイの福音書の山上の説教の中で、主イエスがこの「姦淫してはならない」という戒めをこのように教えられました。五章の二十七節です。

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。

と続きます。以前すでにここから説教しましたので丁寧に解説する時間はありませんが、ここでは「すでに心の中で姦淫を犯した」と言われています。そのために、本当に自分はどうしたらいいんだろうかと思うほどに、毎日のようにこの聖書の言葉に苦しめられました。しかし、今考えても、あのように御言葉に苦しめられるという経験は、本当に聖書を理解していくうえで非常に大事なことだと思います。

 

 少しつづこの戒めについて考えてみたいと思います。まず、この「姦淫してはならない」という戒めの本来の持つ意味ですけれども、これは、すでに結婚している夫婦が、自分の配偶者以外の人と肉体的な関係を持って、その夫婦関係を壊してしまうことです。

 後に聖書を学ぶようになって、独身の自分がなぜあの時にこんなにこの聖書で悩んだのだろうかと、少しほっとしたのを覚えています。と言っても、主イエスの語られたことで、それで意味を持たなくなるわけではありません。そのことは、後でまたお話ししたいと思いますが、まずは、この戒めはすでに結婚している夫婦に語られています。

 

そこで特に、それに付随して覚えておくべきことがいくつかあります。まず、この戒めが与えられた当時の婚姻は婚約をもって成立しました。ですから、この戒めは婚約期間にもすでに適応される戒めでした。例えばレビ記第二十章十節にはこう記されています。

人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。

 このレビ記の戒めからも分かるように、この時代、姦淫の罪を犯すということは、殺されなければならないほどの罪であると理解されていたことにまず心にとめる必要があります。主イエスがお生まれになる時に、まだ許嫁であったマリアが身ごもります。これはこのレビ記の規定によれば殺されなければならないことでした。けれども、御使いがヨセフに現れて、マリヤの胎に宿っている子どもは聖霊によるのだと告げられ、ヨセフはマリヤを受け入れます。夫が妻を受け入れたということは、これを公にしないで、自分の子どもとして受け入れたということです。ですから、ここでヨセフは妻を疑わないで、これが主によるものであると信じたということを意味していて、ここに、夫婦の深い絆を見ることができます。

 

 創世記の冒頭にも記されていますが、神は夫婦関係がその生活の基盤であると考えておられます。この夫婦は、神がお定めになられた秩序の基本、生活の土台なのです。創世記の第二章二十四節にこう記されています。

それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結びあい、ふたりは一体となるのである。

これは結婚式の時に読まれるエペソ人への手紙の中でも繰り返して書かれているとても重要なところです。それぞれ結婚をして新しい家庭を作る時には、まず、男も女も父母を離れるのだということが語られています。これは、自立した人間同士が新しい家庭を築くということです。結婚をして新しい家族を持つと言うことは、そこにそれぞれの両親が入り込む余地はありません。子どもも親に甘えることはできないし、親も、結婚をする二人の生活に口をはさむことはできません。

 そうして二人は結びあい一体となるのです。これには少し説明が必要ですけれども、自立した者同士が一つの存在となるということは簡単な事ではありません。どちらかが依存的な人間で、相手の言うことをなんでも任せますというのであればそれほど問題は起こりませんが、聖書は、自立した者同士が一つとなっていくことが結婚なのであり夫婦生活なのだと、そのはじめに教えているのです。

 そうだとすると、そのようにして築き上げられる夫婦の関係を他の者が入り込んで来て、その生活の秩序を壊してしまうと、もう生活が成り立たなくなってしまいます。それは許されないことだと考えるので、その戒めによって、このような罪を犯す者は殺されなければならないのだと律法は戒めたのです。

 

 今大事なところをお話ししませんでしたけれども、私たちは、このお互いに違う人格を持つもの同士が、結婚の生活において一つになるということがどれほど大変な忍耐を強いられることになるか、結婚をなさった方は誰もが経験いたします。それはもう大変なことです。結婚をする前まで、特にお付き合いをしていたころは、素敵な人だと考えることができたはずなのに、結婚生活がはじまりますと、不思議なことに相手の欠点だけが目についてしまいます。そこで、お互いは本当の意味で愛するということを学んでいきます。赦すということがどういうことなのか、相手を受け入れるということがどういうことなのか。

 この教会の前任の牧師であった浅野牧師は、自分が結婚をする時に示された聖書の言葉が「汝の敵を愛しなさい」という御言葉であったとお話ししてくださったことがあります。結婚を通してこの御言葉の意味を学ぶのだと思って結婚したのだと言われたのです。最初、これを聞いたときに私は驚いたのですけれども、時間が立つごとに、この浅野先生の言葉の意味を改めて考えさせられるようになりました。今では結婚カウンセリングをする時にはまず最初に話すようになったほどです。結婚の生活が始まるまで、本当の意味でまだ相手のことを良く知っていません。良く分かってくるにつれて、本当にこの人は自分の敵なのだということが分かってきます。考え方がまるで違うのです。価値基準も違えば、生活様式も違う、判断の仕方も違う、そうすると、この人が自分の伴侶なのだと思うと怒りさえ湧いてきてしまう。

 これは一般論として話しているのであって、私が妻のことをそのように考えているということではありませんので、注意して聞いてください。

 愛するということは本当に難しいことです。この人なら大丈夫と思って心から愛して結婚の誓いをしたのにも関わらず、愛することが難しいのです。けれども、その二人の間に主が共にいてくださる。まさに、こうして主によって二人が赦し合い、受け入れあって一つにされていくのだということを、夫婦は生涯をかけて学んでいくものです。

 はじめはお互いに深い愛に包まれていたはずだなどという錯覚から解放されて、確かに敵だと認識するようになります。けれども、そのような敵であっても、主が共にいてくださるから、その人を愛していくのだと毎日決断しながら、家庭生活を築き上げていくのです。

 

 問題は、そのようにして相手を愛し受け入れあっていくのはとても時間がかかるし、大変な努力です。しかも、毎日お互いに傷つきながらの生活です。そうすると、ふと気が緩んで、以前独身の時のように、自由に恋愛してみたいというような思いが心の中をよぎる。お互いにしばられることのない恋愛というものに、再び魅力を感じてしまう。毎日戦っていればなおさらです。そして、お互いに築き上げてきた、愛の業をどこかに投げ出してしまって、他の異性とわだかまりのない関係を求める。お互いに大変なことが分かっているので、都合のいいところだけを求めていく。これが、姦淫です。

 愛することを放棄するのです。しかも、それはとても魅力的で、自分はそうせざるを得ないほど傷ついているのだと、どれだけでも自分を正当化することができます。けれども、私たちが本当に知らなければならないのは、そのようにして姦淫を犯すということは、夫婦の中に働いて、お互いを赦し、導き続けておられる神をも拒むということを意味します。神が求めておられる夫婦のあり方を、自分勝手な都合で捨てると言うことなのです。

 

 ですから、聖書の中に様々な預言者が登場します。ホセアであるとか、マラキやエゼキエルもそうですけれども、この神の愛から離れてしまった神の民の姿を、気付かせるために、夫婦の愛に例えています。神から離れることは、妻を捨てて姦淫の罪を犯すことと同じだと何度も何度も聖書は書いています。

 相手を裏切り、自分だけ他の異性に慰めを求めることは罪です。それは、相手を悲しませるだけではなくて、他の誰でもない神を悲しませることです。それで、主イエスは、このことを教えるために、実際に他の人と関係を持つことで罪なのではなくて、心の中でそう考えることも同じだと教えられたのでした。

 相手を愛さないと決める。そして、別の誰かに慰めを求めることは、神がそこで働いていてくださることをも忘れていることなのです。

 

 私たちは知らなければなりません。私たちの神、主は、愛する値打ちのないものであっても、そのものを最後まで信じて待ち続けてくださるお方です。私たちが毎日のように裏切り続けても、それでも、私たちを愛する、赦すと決めておられるお方です。この愛に支えられているから、私たちは生きることができます。妻を愛することができます。夫を赦すことができます。相手が合格点になったら赦す、愛してあげてもいいというのではないのです。そうであれば、まず私たちが神に受け入れられることはないのです。

 

 そうだとすると、結婚をする前からもうすでに、私たちはこの愛に生きることを学ぶ必要もあるのです。姦淫は、結婚をしている人にだけあてはまるのだから、それまでは好きなことをしていいということではない。自分勝手な愛を求めることは間違っているのだということを知らなければなりません。そして、何よりも、主が不完全な私たちを受け入れ、赦してくださることを知らなければなりません。主の憐れみの前に生きることを知ることこそが、神の前に正しく生きることを学ぶことです。

 結婚する以前に夫婦であるかのような関係を持つこと、そのような夫婦としてのあり方を独身の時に軽んじることが、結局のところ、お互いを愛して赦して受け入れてくことによって夫婦が一つになる道を、結婚をする前から壊してしまうことになることを知らなければなりません。だから、教会では、この世の中が何と言おうとも、結婚をしていない同士が性的な関係を持つことは間違っているのだということを教え続けるのです。今学ばなければ、その後、一生、神に喜ばれる家庭を作る事が出来なくなるからです。

 

 夫を、妻を軽んじてはなりません。それは、相手を悲しませることだけでなく、神をも悲しませることです。たとえ、相手をその時理解できなくても、受け入れることが困難と思えても、その相手に心を向け続けること、それが愛することです。諦めてしまわないことです。それはとても傷つくことです。大変な長い道のりです。けれども、その道にしか、神が備えてくださった愛を理解する道もないのです。

 私たちは、その人を愛していく時に、受け入れ、赦して行く時に、主を本当に知るようになるのです。主がどれほど大きな愛で私を受け入れてくださっているか。私を赦しておられるか。ここに立つ時に、私たちは相手を愛し抜く力が与えられるのです。この主によって、二人は一体となるとの意味を知るようにされていくのです。

 

 お祈りをいたします。

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