2014 年 3 月 9 日

・説教 ヨハネの福音書1章19-28節 「証言者ヨハネ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:21

2014.3.9

鴨下 直樹

先日の祈祷会でこんな話がでました。礼拝の説教より聖書研究祈祷会でする私の聖書の話のほうがいい、とある方が言われました。というのは、礼拝の説教では質問できないけれども、聖書研究祈祷会ではいろいろ質問できるし、みんなの意見も聞けるのでとても具体的に聖書の言葉を理解できるというわけです。これに対してほとんど反対意見がでませんでしたので、そう思っておられる方々が多いのかもしれません。これは、牧師の私としては少し急所を突かれた思いで、その後で説教の話をいたしました。説教も本当は牧師が一方的に話しているわけではないのです。説教の勉強をしますと、そこで必ずでてくるのが、説教というのは牧師の一人しゃべりなのかという問題です。私は説教塾という加藤常昭先生が教えてくださっている説教の学びのグループに参加させていただいています。そこでは、説教は対話でなければならないということを嫌というほど学ばされます。聖書を読んで、それが、教会の礼拝に集う一人ひとりの心に届くようにするために、この説教塾では黙想ということを教えてくれます。どうしたらこの聖書がその人の心に届くのか。そのためにはやはり普段から教会の方々に耳を傾けながら、この教会にこられる方々のことを思い巡らしながら、御言葉を語る備えをする必要があるのです。ですから、私はこの講壇から確かに一人でお話をしておりますけれども、この話は、普段の対話の中から生まれたものと言えるわけです。そこで、そのときにもお話したのですけれども、説教を聞いて今日の説教は自分には良く分からなかったということがあれば、できるだけ遠慮なく私に言って欲しい。それが、説教が対話になるためのとても大事な要素なのですとお話しました。

すると、ある方が、ではと、待ち構えたように一言、言わせて欲しいと言われまして、こんなことを言われました。「私は説教というのは、人間のことはどうでもいいので、神様についてもっと聞きたい。神様がこんなお方だと分かって、心が震えるような説教を聞きたい」とおっしゃってくださいました。とても大切な指摘です。これもまた説教の急所を捕らえた指摘です。人の心に届くことばかり考えていて説教をするのではなくて、神を語ることこそ大切ではないのかという指摘です。礼拝にこのようにみなさんがお集いになられて、そこで大事なことは、何よりも神と出会うことです。神を知ることです。神さまとお会いすることができれば、そこで、私たちに何かが起こります。心打ち震えるような感動をする。神様がそのように分かってくると、自分のことが見えてきます。そして、それが、私たちの一週間の生活につながっていきます。

こういう話を祈祷会でしながら、私たちは誰もがこの主の御言葉を必要としているのだということを、改めて考えさせられます。そこに、私たちの生活がかかっているのです。

さて、今週からヨハネの福音書に入ります。すでに、昨年のアドヴェントに一章の一説からはじめておりますので、今日はその続きからということになりますが、今度は教会暦では、今週から受難節、レントと言われる主の十字架を四十日にわたって偲ぶ季節を迎えています。そういう意味では、またちょうど良いときからヨハネの福音書の御言葉を聞くことができると思っています。というのは、このレントの季節というのは、主を思うことに私たちの心を注ぐことを覚える季節だからです。十字架に向かっていかれる主を覚えながらこの時、日常の生活をおくります。その都度、その都度、思い起こして欲しいのです。主イエスはどのような思いで、十字架までの道を歩んでいかれたのかを。

そして、私たちが毎日主の苦しみを心に留めながら生活をするときに、それを導くのは何といっても聖書です。聖書を通して、主イエスを知っていくのです。

今日、私たちに与えられている聖書にはまだ主イエスは登場してきておりません。主イエスに先立って、ヨハネがその証言をしているところです。ヨハネはこの時人々に洗礼を授けていました。大勢の人々がこのヨハネのもとにやってきたようで、それで、洗礼者ヨハネなどと呼ばれるようになりました。そうしますと、イスラエルの人々はエルサレム、つまり神殿にいた宗教的な当時の指導者、サンヘドリンという議会を形成していた人たちがヨハネのところに使いを送って質問をさせます。「あなたはどなたですか。」

今日の十九節では「あなたはどなたですか」と綺麗な言葉が使われておりますけれども、実際は「お前は何者なのだ」、このあたりの言葉で言えば「お前さんは何者なんやて」というような口調であったと思います。「おまえは誰だ」と尋ねられて、私たちは何と答えるでしょうか。もちろん、「芥見三丁目に住んでいる鴨下という者です。以後お見知りおきを」というようなことを尋ねられているわけではなかったのです。サンヘドリンの議会が尋ねたかったのは、あなたはメシア、あの旧約聖書から約束させているあのメシヤなのか。それとも、メシア気取りのお騒がせ者なのか、ちゃんと理解したかったのです。

ルカの福音書の冒頭にはこのヨハネの誕生の記述が記されております。それによると、ヨハネの父ザカリヤは祭司であったと記されていますし、母のエリサベツはアロンの子孫であったと記されています。アロンというのはモーセの兄弟です。それで、神殿ではこのアロンの祭司の子孫が神殿での奉仕に携わっていました。神殿側としてはヨハネがその当時していたこと、人々を悔い改めさせて洗礼を受けさせる、そのうわさがエルサレムにまで届いていたということですから、そういう意味でも、ヨハネが何者なのかということを正確に把握したいと考えていたようです。それほどに、この時ヨハネは人々の関心をかっていたのです。

先ほども祈祷会の話をしましたけれども、この祈祷会で、先週の箇所で私たちに問われているところは、「あなたは何者なのか」ということが問われているのだという話をちょうどいたしました。私たちはふだん、あまりこういうことについて自分自身に問うということはしないのかもしれません。もちろん、そこで私たちが自分自身のことを私はメシアだ、キリストだなどと考えることはないと思います。では、私は何者なのか。

この問いかけは、ヨハネ自身にしてみれば、自分の存在意義を問われている問いであったに違いありません。そして、その問いが私たちに向けられるときも、実は、私たちも、自分とは何者なのかということについて、自分自身で答えが出せなければならないのだろうと思います。みなさんは、自分は何者だと考えておられるでしょうか。

ヨハネはここで、この問いかけに対して「私はキリストではありません」と答えます。「エリヤですか」との問いにも、「そうではありません」と答え、誰のことをさしているのかはっきりしませんけれども、「あなたは、あの預言者ですか」と聞かれても「違います」と答えています。このヨハネの答えは新解約聖書では全部違う言葉になっていますけれども、もともとの言葉では簡単に「私は・・・ではない。」と三度繰り返して答えています。

土戸清という新約学者で、ヨハネの研究をしておられる方がヨハネの解説を書いておられますが、この先生は、このヨハネの答え方は、あの十戒が与えられたときにモーセに神様がご自分を啓示されたときの言葉を思い起こすような答え方をしていると説明しています。どういうことかと言いますと、モーセのときに神は燃える芝の中からお語りになられて、「あなたはどなたですか」とモーセが尋ねますと、「わたしは、あるというものだ」とお答えになられます。よく英語で説明されるのですが「アイ・アム・ザット・アイ・アム」という言葉です。ここで、このヨハネの答えも「アイ・アム・ノット」、「アイ・アム・ノット」、「わたしは、何々ではない」「わたしは何々ではない」という言葉になっていて、神がご自分を語りになられたときの言葉をどうしても思い起こすように書かれていると説明しておりました。

これはとても大切なことなのですけれども、神がご自分のことをお語りになられたときに、「わたしは、なになにだ。」と言われます。実は、ヨハネの福音書ではこの言葉がカギになっています。この福音書の中に七回、主イエスがこの言い方を使ってご自分を紹介なさいます。「わたしは世の光です」、「わたしはいのちのパンです」、「わたしは門です」、そのように、これから七回にわたって主イエスの自己啓示の言葉がでてくるのですが、それに先立って、この福音書の冒頭で同じ言葉を使いながら「わたしは、違う」、「わたしは違う」と語っているのです。それは、つまりこれからヨハネが紹介しようとしているお方こそがそのお方なのだという、明確な意思を持っているのです。

少し説明が長くなりましたけれども、そうすると、ヨハネは自分のことをどのように考えていたかというと、自分は主イエスを紹介する者、主イエスを証するものなのだと理解していたということなのです。自分はそのために生きているのだということです。

ですから、二十二節で「あなたは自分を何だと言われるのですか。」と問われた時にヨハネはこう答えました。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」少し回りくどい答え方ですけれども、ヨハネは「私は荒野で呼ばわる者」ではないと、これについても拒絶しています。これはどういうことかと言いますと、他の福音書ではヨハネは「荒野で呼ばわる者」と言われているのです。けれどもこの福音書では、「荒野で叫ぶ者」でさえない。と、この考え方を拒否しているのです。そして自分は、その「荒野で叫ぶ者」の「声」なのだと言っています。この「声」という言葉は「ポネー」という言葉です。これは、この箇所以外で使われるときは、主イエスの声か、神ご自身の声という意味でしか使われない限定された言葉です。

そうすると、ヨハネの言葉は神や、主イエスと同じ言葉ということになってしまいますが、十九節で「ヨハネの証言は、こうである。」と書かれています。そして、二十節では「彼は告白して否まず、」「言明した。」という動詞が使われています。この二十節の「告白」と「言明」というのは同じ言葉です。ここで、「証言」という言葉と、「告白」という言葉を使っています。特にこの「証言」という言葉は、たとえばヨハネの黙示録などでも何度も出てきますけれども、「殉教する」という意味を持つようになります。つまり、ヨハネはこの神の言葉を自ら命がけで、証しする者として自分を理解しているのだということなのです。

宗教改革者カルヴァンはキリスト教綱要という神学体系をまとめた本を書いていますけれども、その冒頭で「神への瞑想に思いをむけないかぎりは、誰一人として自分自身について考察することはできない」と書きました。神を知ることなしに、自分を知ることはできないのだと。だから、神学の学びをするということは、神を知ることに心を注いで、神を発見していくことによって、新しく自分を発見するのだと書いています。

考えてみますと、私たちが何者なのかというこの大切な問いも、ヨハネと同じように答えることができます。私もまたキリストを証しする者だと。神の言葉を聞いて、新しい自分を発見する。自分にはこんなに喜んで生きることができようになったのだということをこの世界に証しすることができることこそが、神が私たちに望んでおられることに違いないのです。

先週の水曜日からレント、主イエスが十字架にかけられるまでの苦しみを思い起こす季節を迎えます。主イエスはどのようなお方であったのか。そのことを知るために、心を注いでいくときに、私たちもまたヨハネと同じようにこの主イエスを知り、出会い、このお方のことをより深く受け止めることができるようになります。そして、それと同時に、自分が神の前にどのように受け入れられているのかを知ることにもなるはずです。どれほど主イエスに愛されているのか。どれほど私たちの罪が大きいのか。どれほど神を悲しませているのか。何が主イエスを苦しめたのか。そのことに心を向ければ向けるほど、私たちは主イエスの深い愛に触れられていくのです。そして、そのようにして愛してくださった主を、私たちも心から愛したいと思うようになるし、この主を私たちも他の人に証したいと願うようになってくるのではないでしょうか。

お祈りをいたします。

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