2014 年 3 月 16 日

・説教 ヨハネの福音書1章29-34節 「世の罪を取り除く神の小羊」

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2014.3.16

 鴨下 直樹

 

 受難節を迎えております。先日の祈祷会で、ひとつの絵を紹介いたしました。ウイリアム・ホルマン・ハントの描いた『死の影』という作品です。この絵は、ナザレの大工の仕事場を描いています。一日の仕事を終えて、働き続けていた大工の青年が起き上がって腕を伸ばしています。ちょうどそのとき、沈みかけた太陽の光が、この青年を捕らえて、背後の壁にその影を映し出します。すると、その影は十字架の形を映し出す。それで、この青年が主イエスだと分かるのです。ジェームス・スチュワートの書いた『受肉者イエス』という主イエスの生涯を記した本があります。これは、主イエスの生涯を記した数ある本の中でも私がもっとも優れた本だと思っているものです。座右の書です。このスチュワートの書いた主イエスの生涯の、主の受難の物語を書き記すための冒頭の記事で、スチュワートはこのホルマン・ハントの絵を紹介しました。先日の祈祷会で、このスチュワートの書いた文章も一緒に読みました。昔、同じ名前の俳優がいたようで、同じ人が書いたと思った方がいたようですけれども、残念ながら別人です。このスチュワートはイギリスの聖書学者です。

 スチュワートはこのホルマン・ハントの絵を紹介しながら、主イエスはその生涯の最初から、十字架に向かっていかれることを知っておられたけれども、弟子たちにはそのことが理解できず、主イエス一人で決然と十字架への道を歩んでいかれたのだと記しています。主イエスの生涯の初めから、十字架の影は、死の影は差し込んでいたのだ。イギリスの画家、ホルマン・ハントはそのように主イエスを描いたのだと紹介しているのです。

 

 今日、私たちに与えられている聖書の箇所は、いよいよ証言者ヨハネの前に、主イエスが登場するところです。ヨハネがバプテスマを授けていると、そこに主イエスがあらわれるのです。二十九節にはこう記されています。

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

ヨハネは主イエスをご覧になって、そう告白しました。主イエスを見るなり、このお方が世界の罪を取り除くために来られた犠牲の小羊となられるのだと宣言したのです。

 小羊というのは、説明が必要かもしれませんけれども、ちょうどこのレントの期間、イスラエルの人々は過ぎ越しの祭りを祝いました。これは、出エジプト記の12章21節以下に記されています。かつてイスラエルの人々がエジプトで奴隷であったときに、モーセがイスラエルの民を導いて、約束の地カナンへと向かいます。そのときに、エジプトの王パロは同時奴隷であったイスラエルの人々をエジプトから出て行かせることに同意しませんでした。労働力を失うからです。そこで、モーセは神によって十の災いをエジプトにもたらせます。その最後の出来事が、家の鴨居に小羊を屠ってその血を二本の門柱に塗っていない家は、神の怒りのためにその家の長子が死ぬというものでした。そのために、イスラエルの人々は小羊をほふり、その血を二本の門柱に塗りつけます。この門の柱に小羊の血が塗られた家は神の怒りが過ぎ越して長子の命は救われますが、門に小羊の血が塗られていなかった家、エジプトの家々はその家の長男が神に打たれて死んでしまいます。この出来事の後に、パロ王はイスラエルの人々がエジプトを去るのを認めます。それで、イスラエルの人々は、毎年このレントの季節の受難週の時に、このエジプトの奴隷であったところから救い出されたことを記念として祝うために、小羊を屠って、神に感謝する祝いをしました。

 少し説明が長くなりましたけれども、ヨハネは主イエスを見るなり、このお方こそ、世界の罪をお救いになるためにおいでになった神の小羊だと宣言をしたのです。ホルマン・ハントの描いた、まだ主イエスが大工の青年だったときから、主イエスに死の影が差していたのだということと同じことを、ここでヨハネは宣言しているのです。

 

 十字架への道は誰にも理解されない道でした。主イエスと共に歩んだ弟子たちでさえ、主イエスが十字架で殺されるまで、理解することができなかったのです。しかし、ヨハネはそうではありませんでした。このお方は、世界の罪の犠牲となるためにこの世に来られたお方なのだとはじめに宣言することができたのです。

 先ほどもイザヤ書の53章を聞きました。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

と七節にあります。その前の6節にはこう書かれています。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

このイザヤ書53章のこの部分は苦難の僕と呼ばれるようになりました。そして、ここで描かれた、主に咎を担わされた屠られる小羊と、主イエスの苦難がひとつに重なるのだと理解されてきました。

 このイザヤ書にはっきりと記されているのは、罪を犯したのは私たちであるのにもかかわらず、その責任を、すべて小羊に負わせたのだと。それこそが、神のご計画であったのだと記されているのです。人の罪を背負わされて死への道を歩まされるのに、肝心の罪を負わせた人々は、主イエスに別の期待をしていたために、主イエスの死に至るまで、主イエスが何のために来られたのか理解することができなかったのです。感謝の言葉もなかったのです。正しく理解されることもなかったのです。そのような道を歩まなければならないということが、それほど厳しいことであったのか、私たちは知らなければなりません。

 受難節に私たちがすべきは、主イエスをより深く知るということです。自分の願い事を捨てて、主を知ることに心を向けることを主は願っておられます。こうしていただきたい、こうなったら幸せになれるという自分の願望が、主を正しく知ることを妨げるのです。ということは、このレントの季節に私たちがすべきことは、自分の願い事を捨て去るということでもあります。そして、そこに、つまずきの石があるのです。私たちは、自分の願いが大きければ大きいほど神への期待も高まります。何とかして欲しいと願うのです。自分の願い事は、神の御心であるはずだと信じています。主イエスの弟子たちは、イスラエルがローマの手から開放されることこそが救いと考えていました。イスラエルが復興することこそが、神の御心と考えていました。決して自分かってなことを願っていたわけではなかったのです。それこそが神の御心であると考えても、間違いではなかったはずです。そして、そのために、目の前に来られた救い主を正しく知ることができなかったのです。主イエスが何度も語られたのです。何度も、教えられたのです。けれども、彼らは、自分たちの願いを捨て去ることができませんでした。そのために、目の前におられる主イエスを、色眼鏡をかけてみてしまったのです。自分の都合の良いように解釈したのです。

 

 今日のところで、ヨハネは二度にわたって「知りませんでした」と言っています。31節と33節です。ヨハネの福音書の中で、この「知る」という言葉は一つのキーワードのようにして使われています。ここで難しい説明はしないでおこうと思いますけれども、ヨハネの福音書で、主イエスを知ることができるのは、聖霊が与えられてはじめて主イエスを知ることができると書いています。あなたがたのところに、まったく未知な方、誰も知らない「新しいお方」がおいでになる。言葉が人となられたお方がおいでになられる。そして、そのお方はあなたがたに新しさをもたらせてくださるのだと、ヨハネの福音書は洗礼者ヨハネに語らせるのです。ところが、ヨハネはその新しい方を自分は「知りませんでした」と言います。私も知らないし、この世界の人々も当然知らないのです。神がこの世界にもたらそうとしている新しいことをまだ知らない。なぜかというと、この世界は自分の色眼鏡で見ようとするからです。自分の願望を優先させようとするからです。

 私たちは自分たちが知っていること、知っているものを求めてしまいます。思い描けることの中に、救いを、幸せを、慰めを見出そうとします。きっとこうなれば幸せになれるに違いないと。けれども、主イエスは私たちにまったく未知のものをもたらすことのおできになるお方なのです。それは、洗礼者ヨハネもまた知らないことなのです。しかし、このお方は来られ、このヨハネから洗礼をお受けになられます。そして、ここでヨハネは主イエスに洗礼を授けると、

「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。

と、32節に記されています。ここに記されているように、聖霊がもたらされることこそが、この主イエスを通して示された新しさでした。

 何にも先立って、まず主イエスが聖霊をお受けになられます。古い人、ヨハネを通して、ここから、新しいときが始まることを示されたのです。時々、主イエスはなぜ、ヨハネの洗礼をお受けになる必要があったのかという疑問を持つ方がおられます。ここで、古い時から、新しい時へとヨハネを通して橋渡しがなされているのです。ヨハネは人を水で清めます。それが、ヨハネのバプテスマでした。しかし、主イエスは新しい救いを、人がまだ誰も体験したことのない新しい救いをお示しになられるのです。そして、それこそが、聖霊をお受けになることだったのです。

 

 朝日新聞社が題している『アエラ』という雑誌があります。この雑誌の企画、『アエラムック』のシリーズで『新約聖書がわかる』という本がもうずいぶん前にだされました。その本の中に、ヨハネの福音書の研究者である土戸清という方が、主イエスはなぜ洗礼を受けなければならなかったのかということについて書いています。そこでは、「神からのものはすべて受け入れることの必要性を、民衆に自ら示した」と書いておられます。私たちが神から受けるものを、まず主イエスがお受けになることによって、聖霊を受けることを私たちに示してくださったのだと説明しているのです。主イエスが聖霊を受けられたのだから、私たちも聖霊を受ける必要があるというわけです。

 ヨハネの福音書の中に「知る」という言葉が何度も使われていますけれども、この「知る」も、同じように、聖霊が与えられることによって、神を知る、本当の救いを知ることができるという意味で使われていきます。

 聖霊が与えられる。それこそが新しいことです。まだ誰も経験したことのないことです。そして、まず誰よりも先立って主イエスに聖霊が注がれます。そして、主に与えられた神の霊は、私たちにも与えられるのです。これこそが私たちに与えられる神の救いです。これまで世界の誰も味わったことのない新しい出来事なのです。そして、この新しい出来事をこの世界にもたらすために、主イエスはこの世に来てくださったのです。けれども、そのために、主イエスは屠られた小羊として生涯を歩まなければなりません。というのは、この私たちに新しい神の御業がもたらされるためにどうしても必要なことは、私たちの罪が、神の御前に赦されなければならないからです。主イエスがこの世界にもたらした新しさ、それこそは、罪の赦しなのです。それを、ヨハネはこの福音書の冒頭で宣言しているのです。罪が赦された者として顔を上げて、自信を持って生きることができるようになる、それが、神に受けいれられるということです。たとえ、困難な中にいようとも、病を抱えていたとしても、人から受け入れられない、理解されないという厳しい状況におかれていたとしても、私たちは神に受け入れられていることが確かなときに、上を向いて生きることができるようになるのです。

 人間のことをギリシャ語で「上を向く者」と書きます。これこそが、本来の人の姿です。自分の願い事に心を向けて生きるのではなく、神を仰ぎ見て生きる。そこに、私たちに与えられる新しい道があるのです。私たちの願いがかなえられることが救いではないのです。罪が赦され、神に受け入れられること、これこそが神が私たちに与えられる新しい出来事なのです。

 

お祈りをいたします。

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