・説教 出エジプト記20章15節 「盗む心から与える心へ」
2014.2.9
鴨下 直樹
「盗んではならない」とあります。二歳になった娘の慈乃が、週に数回ですが幼稚園に通っています。ご覧になった方も多いと思いますけれども、とても食べるのが好きな子です。幼稚園の給食の時間も人一倍食べ終わるのが早いようで、どうも聞いていますと、隣のまだ食べている子どものお皿に手を伸ばしてしまうことがあるようです。私たちがまだ食べていても、私たちのお皿に手を伸ばしてきますから、そういうこともあるだろうと思うのです。いくら「それは盗みである」と教えても、「まだ食べたいんだから何が悪い」と言わんばかりに泣いて抗議します。もちろん、少しづつ学んでいくことですからそれほど心配しておりません。むしろ、そんなに食べて大丈夫かということのほうが心配なくらいです。しかし、いつかは学ばなくてはなりません。人のものを取ることがどれほど悪い事なのか。自分もそうされてみて気づいていくのでしょうか。
そのことを考えてみてもそうですけれども、「盗んではならない」という戒めを正しく理解するために必要なことは、想像力を持つことです。奪われた相手がそのことでどれほど悲しい思いをし、悔しい思いをするか、自分に当てはめてみればすぐに分かることです。ところが、なかなかいつまでたっても、新聞やニュースから盗むという事件が姿を消すことがないのです。
「盗み」と一言でいっても、そこには様々なものがあります。力をもって奪い取る、強盗、恐喝もあります。本来有料のものをお金を払わずに手に入れる、不正入所、無賃乗車、テストのカンニング、著作権の侵害、最近だと違法ダウンロードというものもあります。公のものを使用で使ってしまう私物化や、勤務時間のサボりも盗みだと言えます。その中には、人の目を盗むという性質のものもあります。一言で「盗んではならない」と言っても、この言葉の中には、実に幅広い事柄が深く関わっています。この盗むという行為は、私たちの日常の生活の中に蔓延してしまっているのです。
私たちの生活というのは多くの部分でさまざまなものを手に入れるということで成り立っている部分がありますから、当然、どうやったら効率的に入手できるかということに、人は毎日のように頭を働かせています。けれども、獲得することに没頭してしまうと、その時に盗まれた相手が、それでどのような被害をこうむることになるのかということにまで考えが及ばなくなってしまいます。しかも、私たちは正しくない方法で入手しても、それを心の中で正当化するすべを身につけてしまいます。「これはみんなやっていることだから」、「そうする以外にほかにいい方法がなかった」とか、「このくらいのことは大丈夫」といった具合でそれを自分の心の中で正当化できてしまいます。もっとそれが常習化されていくと、「見つからなければいい」、「とがめられなければいい」という、言わば開き直りの思いが心に出てきてしまうのです。悪い事をすると、誰でもそうですが、それを隠そうとします。そうやってうまく隠しとおしたと思っていることが私たちの日常の生活の中にはなんと多い事でしょうか。
「盗んではならない」。そのことは誰でも知っていることです。そして、悪いことだということも分かっているのです。分かり切っていることを、どこかで後ろめたさを感じながらも正当化する。そのような、私たちの人間性がこの戒めを考えるときに問われていることを、私たちは心に留めておく必要があります。
さて、この第八戒の「盗んではならない」という戒めは、そのように物を盗むこととまず誰もが考えてしまいますけれども、もともとも意味は少し違っているようです。ユダヤ教の聖書を解釈する戒めの本の中に「タルムード」という戒めの本があります。そこにこんな文章があるんだそうです。「われわれの師は教えた。あなたは盗んではならない。聖書はここで、誘拐について語っている」。
人の持ち物を盗むことをこの戒めが問題にしているのではなくて、人のもっている奴隷を誘拐すること、つまりこの戒めは「人を盗んではならない」という戒めだということです。なぜ、この戒めが人を盗むことを戒めているかと言うと、第十の戒めで「隣人のものを欲しがってはならない」という持ち物を盗むことが言われているからです。
ある聖書学者は、「この十戒の後半部分の第六の戒めから第十までの戒めは、イスラエルの人々の根本的な権利を確実にすることを示すことで、その根本的権利というのは、第六の戒めで始まる、彼らの生命、婚姻、自由、名誉と財産のこと」だと言っています。
この第八の戒めでいうと、ここでは「自由」についてが語られているというわけです。本来、人は自由であるべきなのに、その人の自由が奪われてしまうことが、この戒めのテーマだというのです。自由な人が誘拐されたという出来事を聖書の中で見つけようとすると、すぐに思いだすのはヤコブの十一番の息子、ヨセフです。ヨセフはヤコブの末の子として生まれます。父親は自分が年をとってから産んだ子だったので、このヨセフをことさらに可愛がりました。そのために、上の兄たちから反感を買い、ある時、兄たちはヨセフを捕らえて、エジプトに向かう商人に売り渡してしまいます。まさに、自由な人であったはずのヨセフは奴隷として、自由を奪われてしまうのです。
ここで、ヨセフの物語を詳しく話す時間はありません。また、その必要もないと思います。ただ、このヨセフがエジプトに行ったために、ヤコブの家族は、イスラエルが飢饉になった時に食べ物をもとめてエジプトを訪ね、そこでエジプトの総理大臣となったヨセフと再会して、エジプトで生活するようになったのです。そして、この十戒を与えられているイスラエルの民は、そのためにエジプトで奴隷とされ、自分たちもまた自由な民であることをエジプトによって奪われていたのです。
この第八の戒めは、そのようなイスラエルの人々は他の誰でもその人の持つ自由を侵してはならないというのが、この戒めのそもそもの趣旨なのです。人を盗む、人の自由を奪うということは、人を愛することの反対の行為です。人を自分のために、自分の目的、自分の手段のために、人に与えられている自由を奪うのです。ですから、十戒のこの直ぐ後の二十一章十六節で「人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手元に置いていても、かならず殺されなければならない。」と記されています。人そのものを売り買いして、自分の利益にすることは認められていないのです。何故かと言うと、本当は人は誰のものでもない、神のもの、神の所有なのだという理解がその背後にあるのです。十戒の冒頭でも主は語られました。「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」主は、あなたはわたしのものなのだ。だから、人を自分のものにすることができると思うな。自分の利益のために人の持つ自由を奪うなということをここで戒めておられると同時に、「あなたは、わたしのものなのだ」だから、恐れなくても良い、エジプトにまた連れていかれたらどうしようなどということも考えなくてもよい、わたしのもとに留まり、平安に生きなさいと、主は平安と自由の約束を宣言してくださるのです。
盗むであれ、誘拐であれ、人の自由を奪うことであれ、そこで問われているのはその人の持つ自由を奪うことです。そのことは突き詰めていくと、神に対する不満足の現われということになります。自分の与えられているものに満足できないのです。もっと欲しい、もっと必要だ、もっと、もっと、こういう生活がしたい。そのように、自分が得ることに心を注いでしまう結果が、この罪に現われているのです。
パウロはガラテヤ人への手紙の五章一節でこのように語りました。
キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
神は、私たちを罪の奴隷から解放して自由を得させてくださいました。それは、私の人生は私のものと考えることを捨てて、私はもはやキリストのものと考えるようになるということです。自分のものを自分の好きなようにして何が悪いと考えてしまうところに、この罪の根があります。しかし、キリストは、この自分に固執するところから私たちを贖いだして、主のものとしてくださったのです。そして、この主のもとには自由があり、平安があります。足りないということに心を奪われることはなくなるということです。だから、また再び物に支配され、自分の欲に支配されて、沢山のものを手にいれることに満足する生活を捨てて、そこから自由にされた生き方を私たちはすることができるのです。
ハイデルベルク信仰問答の中に、この十戒を教えている部分があります。その問いの110と111のところでにこう書かれています。
問い110「神は第八戒において何を命じておられるのですか。」
答え 「神は、ただに官憲の利息、その他、神に禁じられている方法によって、暴力によるにせよ、権利を装うにせよ、隣人のものを、自分のものにしようとする、一切の悪いこと、企てをも盗みと呼ばれるのであります。なお、これらに、すべての貪欲、自分に与えられたものの、不必要な浪費をも、加えるべきであります。」
問い111「それなら、この戒めにおいては神は何を命じておられるのですか。」
答え 「わたしができる限り、また許される範囲において、わたしの隣人のために、益を計り、彼に対して、自分が他人にしてほしいようにつくし、真実に努力して、困って助けを求めている人々を、助けることができるようになることであります」。と言っています。
このハイデルベルクではこの戒めが人を盗むことだという理解はされていませんけれども、人を盗むにしても、物を盗むにしても、ここではその本質として、人のもつ自由を奪い、自分のものとすることが罪だと考えられています。そして、問い110では浪費することも盗むことだと教えています。
そして、つづく問い111でこの戒めの積極的な意味を記しています。それは、自分ができる限りでいいから、相手に対して助けることができるようになることだと言っているのです。盗まないということに心を留めるだけではなくて、その人にしてあげられることを自分のできる範囲内でしていくこと、これこそが、この戒めの意味、つまり相手の持つ自由が尊重されることなのです。
初めに言いました。盗んではならないというこの戒めは、何よりも私たちの持つ想像力が問われる戒めです。自分の心を治めてそれで良いとするのは、消極的にすぎません。けれども、相手にしてあげられること、相手がより自由を感じることができること、そこに生きることこそが、神のものとされている者としての相応しい生き方なのです。
はじめに娘が人の食べ物を欲しがるという話をしました。その話だけして終わると何だか可哀そうな気がするので、少し別のことも話す必要があると思うのですが。先日、私がご飯を食べ終わりますと、娘が私の顔を覗き込んで「お父さんもう食べた?」と聞いて来るのです。もっと食べなくていいのかという意味なのでしょう。先日も、教会で娘にそう言われた方が、「この子は牧師夫人の賜物がある。私にまでそんな配慮ができるんだから。」と言っておられました。幼いながらも相手のことを考える想像力を持ち合わせているのです。
自分がという気持ちと、相手がという気持ち、そのどちらもが、私たちには小さい時から存在しています。そして、この世界の流れに身を置き続けていくうちに、私が、私が、もっと、もっとと言うことばかりに気を取られてしまいます。周りも、みんながそう生きていると、自分も自分で守らなければ生きていかれないという悲しい心持になってしまうのです。
けれども、私たちは一人では生きていかれません。その時に、誰かが声をかけてくれる。「○○さん、もう食べた?」こんな小さな言葉でも、人はそれだけであたたかい気持ちになれるのです。
そのように、私たちが相手を思いやっていく時に、私たちの周りに、神の与えてくださる平安の世界がつくりあげられていくのです。
お祈りをいたします。