・説教 ルカの福音書5章12-16節「主の御手は光のごとく」
2023.3.19
鴨下直樹
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今日の聖書の中には「ツァラアトに冒された人」という言葉が出てきます。聖書を初めて読む人には何のことだか良く分からない言葉です。今は、「重い皮膚病」とか「規定の病」と訳したり、新改訳のように原文をそのままで「ツァラアト」と訳したりしています。
この「ツァラアト」というのは、これまでは「らい病」と訳してきました。この翻訳のために、「らい病」「ハンセン氏病」の人が長い間苦しめられてきました。聖書がこの病のことを神からの刑罰としての病として描いてきたからです。
たとえば、モーセの姉ミリアムも(民数記12章)この病に侵されてしまいました。エリシャの従者であったゲナジもナアマン将軍が持参した貢物に目がくらんでそれを手にした時、ツァラアトに冒されたと記されています。
レビ記14章ではこの病に冒された者は人の中を通る時には「汚れている、汚れている」と言わなければなりません。また、町の外の宿営に隔離されて生活することになります。つまり、この病は、人と一緒に生きて行くことがもはやできず、誰からも避けられて一人孤独に生活しなければならない、感染の危険のある病とされてきたのです。
そのために、人々はこの病に冒されることは、神の裁きであり、何か悪いことをして神の怒りをかった人なのだと考えるようになりました。病のために苦しむだけではなくて、誰からも理解されず、神からも見放された病。それが、このツァラアトという病でした。
今日の箇所は12節でこのように書かれています。
さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
この一節だけでも、いろいろなことが語られています。まず、「主イエスがある町におられたときに、全身ツァラアトに冒された人がいた。」と書かれていますが、このこと自体がありえない出来事です。先ほど話したように、この病の人は町の中に入れません。ということは、この人はどこかで主イエスの噂を聞いて、いてもたってもいられなくなって、その禁令を破って町の中に入って来てしまったということです。
そこで、うまい具合に主イエスと出会うことができたようです。すると、いきなり主の前にひれ伏してお願いしたとあります。この人が男性なのか、女性なのかも分かりませんが、必死さだけはこの文章からも良く分かります。しかも、「癒してください」と願ったのではありませんでした。まず、「主よ」と呼びかけていることもそうですが、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と語っています。自分の願っていることではなくて、主イエスの願ってくださることが重要なのだと、言っているのです。
ここに書かれている「お心一つで」という言葉はギリシャ語で「セロー」という言葉です。これは「願い」という意味の言葉です。この言葉の名詞形は「セレーマ」といいますが、これは「御心」と訳されています。
そして、続く13節で主イエスはこの病の人の願いを受けてこう答えてくださいます。
「わたしの心だ。きよくなれ」と。この祈り、願いは、主の御心に叶う願いであったというのです。
こういう言葉を使う時には、私も気をつけて使わなくてはなりません。私が、「この人の祈りは主の御心に叶う願いであった」と言うと、すぐにお手本にしようと私たちは考えてしまうからです。こういう祈り方をすれば、願いをかなえてもらえるんだとなると、面白いもので、それはもう主の願いではなくなってしまうのです。難しいものです。
毎週、同じ話ばかりしなくても良さそうなものですが、聖書はこのテーマを何度も何度も描き出しているのは、人の願い「セロー」と主の御心「セレーマ」には大きな隔たりがあるからです。
主は、ここで長い間この重い皮膚病に冒されていた人をご覧になり、その願いを聞かれて心を動かしてくださいました。それは、主の愛のお姿です。
主は、憐れみを求めてご自身の前に集って来る者を、憐れまずにはいられないのです。退けたりなさらないのです。主はこの人の苦しみや痛みをよくご存じです。どれほどこの病のために苦しんで来たか。どれほど痛みがあるか、孤独であるか、不安を覚え、寂しさや悲しみがあるのかを見てくださいます。
主の奇跡の御業は、病が治ったという現象を伝えようとしているのではありません。主イエスの愛のお姿がここに表されているのです。
祈り手は良く知っています。この病は、自分の願いだけではこの祈りがどうにかなるものではないことを。孤独の生活を強いられながら、この人はどれだけ病が癒されることを期待し、願い続けて来たことでしょう。きっと何度も何度も神に祈ったのだと思うのです。だからこそ、この方は「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言うことが出来たのだのだと思うのです。
主は、この病の人の姿を見て、心を動かされました。「わたしも願う。どうかあなたが癒されるように!」。主はそのように言われました。
しかも、主イエスはそう言われただけではなく「イエスは手を伸ばして彼にさわり」と書かれています。この人に手を伸ばして触れてくださったのです。
ここに、主の愛のお姿が描き出されています。この病は、触れたら汚れるのです。汚れると、感染すると考えられていました。ツァラアトに感染する。それは、人とは一緒に生きて行くことができなくなるということです。だから、これまで誰も、この人に触れることはなかったのです。
私は思うのです。この人は、主イエスに触れられた時、どれほど嬉しかったかと。どれほど愛されているということが分かったことでしょう。それは、この人にしか分からないような、主の愛のお姿だったに違いないのです。そういうこともあって、私も手術の前や、病気の人のためにお祈りすることがありますが、その時はできるだけ、その人の体に触れて祈るように心がけています。主がなさったようにしたいと思うからです。
私たちのところでも、長い間世界を恐れさせてきたコロナウィルスの脅威が、少しずつではありますが、その脅威が減りつつあります。先日も、新聞でなぜこの時期にマスクを取ることを推奨するのかという理由として「薬がどこででも処方できるようになったからだ」とある医師の方が書いておられました。もちろん、それでも不安のある方もあると思います。やっと、マスクを外せると思っておられる方も少なくないと思います。
実に、長い間私たちもコロナウィルスという病の感染を恐れてきました。しかし、ツァラアトはこれの比ではありません。社会的に抹殺されてしまう病です。しかし、主はその人に手を伸ばされるのです。コロナを経験した私たちも、この主の御手を伸ばされる姿の意味を少しは理解できると思うのです。主は、その病の人に向かって「わたしはあなたの病を恐れてはいない。あなたの苦しみを知っている。今、わたしは願う。あなたから、この病がいやされるように!」主はそのように祈ってくださるのです。
主イエスの奇跡は、ただ病気が治ったというだけなのではありません。人々から罪人扱いされることからの自由がそこにはあります。この人が癒されるということは、神との関係の回復と、人々との関係の修復がそこにはあるのです。主は、この人がその人生で失ったすべてのものを回復させたいと願って、手をおいて、癒してくださったのです。
この物語は、ここで終わればまさにハッピーエンドの物語です。しかし、ルカはここで話を終わらせていません。この続きに何と書かれているのでしょうか。14節です。
イエスは彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
主はこの人に、主が癒したことを話さないようにお命じになられました。ただ、人々の中で生活を再開できるように戒めの手続きの通りに行いなさいと言われました。主は、この人が神の戒めの中に生きることを通して、もう一度新しい人生を再開できる道をお示しになられました。
しかし、そこでもう一つのことを願われました。「だれにも話してはいけない。」と。
主イエスは、この人が癒されたことで、自分に注目を集めたいということは少しも願われませんでした。癒しがなされたことが広がれば、主イエスのもとにはますます癒しを期待する人が群がってきます。主イエスの人気はうなぎのぼりに上昇します。
15節を読むと、案の定そうなったことが記されています。その結果どうなったのか。16節にこう記されています。
だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。
すばらしい癒しの奇跡物語のエンディングとしては、実に残念な終わりです。ルカは、医者です。人が癒されて嬉しい思いを持つことは誰よりもよく理解できる人物です。そのルカが、絶望的な病、ツァラアトの人の癒しを物語るのに、最後に描く主イエスのお姿は実に寂しいお姿を描き出しています。
なぜ、このようにルカは描いたのでしょう。この病の人を癒すことは主の御心にかなったはずなのです。けれども、主イエスは嬉しそうではないのです。私たちは、このお姿を心に留める必要があります。
主が願っておられるのは、苦しんでいる人、困難な中を歩んでいる人が、神の御手の中で平安に生きることができるようになることです。
レンブラントというオランダの画家が描いた『病人たちを癒すキリスト』という絵があります。これは版画の作品で、白黒で描かれているのですが、主イエスの周りに大勢の病人たちが描かれております。主イエスの周りの癒された人たちは光の中に包み込まれています。この光はどこから出ているかというと、主イエスご自身が光の源となっています。主イエスに触れられると、闇の中を歩んでいた人が、光に包み込まれるのです。
主は、闇の中を歩んでいる人を光の中へと招きたいと願っておられます。その光というのは、主イエスご自身です。光の主であるお方に留まっているなら、私たちは光の中に留まることになるのです。
自分自身の中にとどまっていても、光の支配の中に身を置くことができません。たとえ自分の願う様に病気が癒されたとしても、主と共に歩むことができなければ闇の支配のままです。たとえ癒されてもやはり死の支配の中にとどまったままです。それゆえに、主イエスは苦しんでおられるのです。そのために主はここで祈っておられるのです。この光の主イエスは、病の者を憐れんでくださるお方です。そして、主はその人が、病が癒されるだけではなく、光の中を、主の愛の御手の中にとどまって欲しいと願っておられるのです。
私たちはこの主の光の中に、いつまでも留まっていたいのです。
お祈りをいたします。