・説教 ルカの福音書5章1-11節「深みへの招き」
2023.3.12
鴨下直樹
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今、私たちは受難節を過ごしております。受難節というのは、十字架に向かわれるために苦しみを受けられた主イエスのお姿を心に刻み、主の御前に悔い改める時です。それは、また自分を見つめる時でもあります。
今日のところでは、シモン・ペテロという主イエスの最初の弟子となる人が出てきます。シモンは漁師です。ペテロはここで、一日の漁を終え、網を繕いながら自分を見つめています。
一晩中漁をしたのに、その夜は何も捕れませんでした。夜通し働いたのに何の収穫もないのです。けれども、次の漁のために、網を繕わなくてはなりません。シモンは、そんな作業に明け暮れながら虚しさがあったと思います。食べていく不安があったかもしれません。苛立ちがあったかもしれません。漁師としての力のなさに打ちひしがれていたかもしれません。網を繕いながら、いろんな考えが頭をよぎったと思うのです。
みなさんも、そういう経験をしたことがこれまでの歩みの中でもあったと思います。そういう時というのはどうしても、物事を悪い方に、悪い方にと考えてしまうものです。自分の力の無さや、自分の失敗という事柄の前に、私たちは暗い気持ちに支配されることがあるのだと思うのです。
受難節というのは、ここに描かれているシモン・ペテロのように、自分を見つめる時となるのです。
そんなシモンに主イエスは声をかけられます。舟を出してくれないか、少し沖から話をしたいのだがと頼まれたのです。この前の4章で主イエスはシモンの家に来られて、シモンの姑を癒しておられますから、シモンとの面識はあったことになります。他の福音書では、シモンが弟子になった後で、シモンの家を訪れていますが、ルカの福音書は順序が逆になっていますから、ルカは時間的な順序ということをあまり気に留めていないのかもしれません。いずれにしても、ルカはここでシモンと主イエスの出会いの出来事を描き出そうとしているのです。
舟を沖に出すように頼まれたシモンは自分の舟に主イエスをお乗せし、少し沖へ漕ぎ出します。そこから群衆に向かって説教される主イエスの言葉に耳を傾けます。シモンはその時、どんな気持ちで主イエスの言葉を聞いたのでしょう。シモンからしてみれば、内心それどころではなかったかもしれません。主イエスの話を聞きたかったから協力したわけでもなさそうです。ただ、そこでじっと話を聞いたのは間違いありません。
その時に主イエスが何をお語りになられたのか、シモンがどのように説教を聞いたのか、あるいは説教を聞きに来たと記されているその群衆の反応も、ルカはここで記しておりません。ということは、ルカは主イエスの説教と、その説教に対する群衆やシモンの反応については、ここでは描こうとしていないわけです。むしろ、その後の出来事に力点を置いています。
4節にはこう記されています。
話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
この主イエスの言葉は、シモンにどのように響いたでしょう。完全にシモンの想定外の言葉だったはずです。この当時の漁師たちは、昼間は魚が捕れないという経験から、夜に舟を出して朝戻って来るのが常でした。真昼に魚など捕れるはずがないのです。それは、漁師であるシモン自身が一番よく理解していたはずです。
主イエスは何よりも、シモンの心の内にある思いをよく分かっていたと思います。自分を見つめ、自分の力や、自分の経験というものを見つめようとしているシモンに対して、主イエスはそこから抜け出すようにと、ここで語りかけておられるのです。
自分の力を信じる、自分のこれまでの経験や、一般的な常識にとらわれている考え方のままでいるのではなく、「その考え方を捨てよ! そこから抜け出せ! そして、わたしの言葉に委ねてみよ!」と主イエスはここで語りかけておられるのです。常識に逆らってでも、自分の思い込みから抜け出してみよと、主イエスは語りかけておられるのです。
神の言葉のすばらしさは、私たちの理解を超えたところにあります。そして、それは思いもよらないような出来事になるのです。
シモンは思いがけない言葉をかけられてどうしたというのでしょう。5節にこう記されています。
すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
ルカは、このシモンの言葉を信仰の決断として描き出そうとはしていません。特に主イエスの言葉を信じて、その言葉に従ったという積極的な応答の姿ではありませんでした。むしろ、不本意で、疑いながらだったようです。ただ、そこまで言われるのであれば少し試してみましょうか? それがシモンの答えでした。
ところが、シモンはそこで予想もしていない出来事に遭遇することになります。結果は、大漁です。捕れた沢山の魚はシモンの舟だけでは入りきらないので、岸辺にいたであろう友達のヨハネとヤコブを呼んで、その二人も巻き込み大漁を経験するのです。
ルカはここで、主イエスの言葉は、従うと出来事が起こるのだということを描き出しています。そして、この神の御業とは、私たちの想像をはるかに超えた出来事が起こるのだと描き出しているのです。
これが、シモンと、ヨハネとヤコブの、キリストとの出会いの出来事となったのです。それは、とても印象的な出来事だったのです。
みなさんも、さまざまなキリストとの出会いを経験されておられるのだと思います。時々、みなさんの証を聞く機会があります。そういう時にみなさんの証を聞いておりますと、みな同じように信仰に導かれる人は一人としていないということがよく分かります。思い返していただきたいのですが、みなさんがキリストと出会った時というのは、そこで全てが分かったということではなかったのだと思うのです。むしろ、その経験を通して、キリストのことをもっと知りたいと思うようになられた方が多いのではないでしょうか?
私は名古屋の東海聖書神学塾の教務主任という働きをさせていただいております。そのために毎年、新入塾生を迎える時に、救いの証と、献身の証という文章を提出していただきます。その文章を読ませていただくのですが、みな違っていて、とてもユニークです。だれ一人同じ人はおりません。ただ、みなさん、誰かとの出会いであったり、書物であったり、あるいはテレビやラジオであったりときっかけは異なるのですが、そこで主と出会い、聖書に惹かれ、教会に集う様になっていくのです。
シモン・ペテロも同じです。このペテロの経験はもちろん、完全な信仰を得たと言えるようなものではありません。
ただこの時に言われた主イエスの言葉、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」というその言葉は、シモンのこれまでの考え方や、常識を一遍に覆したのです。
この後のシモンの言葉にはそのことがよく現れています。8節です。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
このお方は、自分とは全く異なるお方だとペテロは認識したようです。これまでは「先生」と呼んでいたのに、ここでは「主よ」という呼びかけに変わっていることも、ペテロの心境の変化をよく表しているといえます。それと同時に、ペテロはこの主イエスとの出会いを通して、「自分は罪深い人間です」と言っています。なかなか、こういう言葉にはならないと思うのですが、こういう言葉が出て来たということは、このおびただしい魚を見るまでは疑っていたということなのかもしれません。
ペテロはここで主イエスと、自分とが、いかに異なっているかということがよく分かったのです。主に対して畏れを抱いたのです。このお方は、自分とは全く異なるお方だということが分かったのです。
そして、主イエスを知った時、自分のこともまた分かったのです。主イエスは聖いお方で、自分とは全く異なるお方だと分かったのです。
この時、主はシモン・ペテロにこのように語りかけられました。10節の後半です。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
何という慰めに満ちた言葉なのでしょう。ペテロは自分と主イエスとの大きな隔たりを感じていました。だから、主と呼び、足元にひれ伏し、私は罪深い人間ですと言ったのです。ところが、主イエスの方から、「恐れることはない」と語りかけてくださるばかりか、「今から後、あなたは人間を捕る漁師になる」と言われたのです。つまり、あなたはわたしの側にいる人間になるのだと主イエスはペテロに語りかけてくださいました。わたしと一緒にあなたは働くと言われたのです。
何という慰めに満ちた言葉でしょう。何という力強い招きなのでしょう。罪深いシモン・ペテロを励まして受け入れるばかりか「今からは同労者になるのだ!」と言ってくださるのです。「一緒にわたしと生きようではないか! 今からは同じ使命に生きるのだ!」と言ってくださるのです。
この言葉は、今私たちに向けても語りかけられているのです。落胆し、気落ちし、すっかり自信をなくしているような私たちに、主は語りかけられるのです。
ペテロはこの時に全てが分かったから弟子になったわけではありません。ペテロは自分が経験した奇跡を目の当たりにして心惹かれた、それだけで、他の群衆とペテロと、何の違いがあるのかと思われる方もあるかもしれません。おそらく、この時ペテロと奇跡を目の当たりにした多くの群衆とそれほど違いはなかったかもしれません。少なくとも、まだまだペテロは未熟でした。まだまだ多くの誤解を含んでいるのです。それでもよいのです。
主イエスは弱い者を、罪深い者を、不完全な者を招いてくださるのです。「わたしの側で一緒に生きてみないか? わたしとともに人間を捕ろうではないか! そうやって、神と共に歩むということをしてみないか?」と招いてくださるのです。
間違えたと思ったら、離れるのも自由です。主イエスに招かれるというのは、主の隣で生きてみないかという招きです。そこから見えて来る景色があるのです。そうやって、共に歩んでみることを通して、今まで見えなかったものが、見えるようになるのです。
私たちの主イエスは私たちに言われるのです。「深みに漕ぎ出し、網を下ろしなさい!」と。その時、私たちは自分の全く知らなかった新しい景色を見ることができるようになるのです。
お祈りをいたします。