2023 年 3 月 5 日

・説教 ルカの福音書4章31-44節「神の言葉の力」

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2023.3.5

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 聖書を読む時に私たちは主イエスのお姿に目を留めます。主イエスのお姿に注目しながら今日の箇所を見ていきますと、私たちはここで衝撃的な印象を持つことになります。ここで描かれている主イエスのお姿というのは、りつけておられる厳しいお姿だからです。

 ガリラヤの町カペナウムに行かれた主イエスは、安息日になると会堂に入られました。すると、そこに悪霊につかれた人が出てきます。この人は主イエスに向かって「私たちを滅ぼしに来たのですか?」と語り「あなたが誰だか知っている。神の聖者だ」と言うのです。すると、主イエスは彼を叱ったと35節に書かれています。

 その後の記事でもそうです。会堂を出てシモンの家に行くと、そこでシモンの姑がひどい熱で苦しんでおり、人々は主イエスに治してくれるようお願いすると、主イエスは枕元に立って「熱を叱りつけられた」と記されています。

 「ちょっとイエス様は切れすぎなんじゃないか?」とか「カルシウム不足なんじゃないか?」とか思われても仕方がない書き方です。

 私たちは普段すぐに怒って大きな声をあげる人のことを、あまり好きにはなれないと思います。主イエスを紹介することを目的とした伝道の戦略としては、あまり賢い書き方だとも思えません。

 どうしてルカはこんなマイナスの印象を持たれてしまいがちな主イエスのお姿を、ここで描くのでしょうか。

 その他にも、今日の箇所には私たちが首を傾げたくなるようなことがいくつか記されています。例えば福音書に登場する「悪霊につかれた人」という描写を考えてみてもそうです。旧約聖書には悪霊に取りつかれた人の話はほとんどありません。ところが主イエスが登場すると、まるでそんなことは日常茶飯事でもあったかのように、頻繁に起こっているように描き出しています。これは、どういうことなのでしょうか。

 「悪霊」というのは神に敵対する霊の働きです。悪霊は神の国の支配を阻止したいと考えている、神に敵対する存在です。主イエスが活動を始めることを通して、人々は神の国のことを知るようになります。そうして人々が神に近づこうとすればするほど、悪魔の働きは活発化してくる。そんなふうに考えることができるのかもしれません。

 人々が神から離れている時は、悪魔はおとなしくしているものです。旧約聖書の場合、多くの人々は神から遠く離れたところにいましたから、それほど悪魔が働く必要がなかった。けれども、主イエスが働き始めると、いよいよ悪魔はうかうかしていられなくなって、活発に活動するようになった。そう考えることもできるのかもしれません。

 いずれにしても、ルカはこの前の出来事のような主イエスと群衆という構図ではなくて、ここでは主イエスと悪霊や病というように描き出そうとしていることが分かります。

 そして主イエスは、そういう神に敵対し人々から神さまを遠ざけようとしている存在に対して、ここで怒っておられるのだということが分かってくるのではないでしょうか。

 主イエスがここで叱っているのは、ペテロの姑に対してではなく、病に対してです。会堂に座っていた人に向かって叱ったのではなく、主イエスに近づいて主が何者なのかを人々に知らせようとしている悪霊に向かって叱っておられるのです。

 40節以降になるとこんな記事が書かれています。

日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。
イエスは一人ひとりに手を置いて癒された。

 主イエスはここで病の癒しを求める人々に、とても親切に接しておられます。病を抱えている人が主イエスのみもとに来ると、主イエスは十把一絡げで癒されたのではなくて、一人ひとりに手を置いて癒しをしておられます。

 前回の説教箇所に記されていたナザレでは、身勝手で奇跡ばかりを期待する人に対して、主イエスは癒しをなさいませんでした。しかし、このカペナウムではまるで別人のように癒しをしておられる主のお姿が目に留まります。

 私たちはこういう場面を見るとすぐに、癒してもらえるケースと、癒してもらえないケースをしっかりと分析して、正しい求め方をしたら癒してもらえるに違いない。そんな考えを抱くのかもしれません。しかし私たちが、ここで主のお姿を見て心に留めなければならないのは、残念ながらどうすれば癒してもらえるのかという方法の問題なのではないのです。

 主がここで何を大切なこととして示そうとしておられるのか、その本質に目を留めることが大切です。

 ここでまず、私たちが目を留めたいのは、主が何に対して叱っておられるのかということです。悪霊につかれた者は「あなたは神の聖者です」と34節では言いました。41節では「あなたこそ神の子です」と言いました。そのどちらの場面でも、主はそう言った悪霊を叱っておられます。何故なのでしょうか。それは、主イエスは神の力を持っておられるから奇跡を行うことが出来るのだということに、すり替えられたくないので怒っておられるのです。

 では、主は何を見て欲しいと思っておられるのでしょうか。それは「奇跡」にではなく、「神の言葉の力」に目を留めて欲しいと願っておられるのです。

 主イエスが「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊は出て行くのです。病を叱りつけると、病はその人から出て行くのです。

 安息日に会堂で教えられることを優先されるのも、そのことが大切だからです。神の言葉が語られると、そこでは何かが起こるのです。神の言葉は出来事を引き起こすのです。

 悪霊たちは主イエスのことを「神の聖者」と言ったり、「神の子」と言ったりして、主イエスのことを奇跡行為者として印象づけようとするのです。けれども、主イエスはこの悪霊の意図に対して、これまでと同様に悪霊たちの発言権を奪うのです。確かに、主イエスの言葉には力があります。ところが、多くの場合はこの奇跡という現象だけに目を留めてしまって、本質に目を向けようとはしなくなるのです。

 「どうやったら病を癒してもらえるのか、癒して頂いたこのカペナウムの人たちのいったい何を主イエスはお認めになられたのだろう」。そんなふうにこの箇所を読もうとするなら、それはまんまと悪霊の罠にはまり込んだようなものなのです。

 主イエスのお姿をじっと見つめていると、次のような主イエスの姿が見えてきます。42節です。

朝になって、イエスは寂しいところに出て行かれた。

そう記されています。

 何のために主はそんなことをなさるのか? それはもちろん祈るためです。主は神との交わりを必要としておられます。なぜなら、主には誘惑があるのです。奇跡行為者として人気が出て来る。多くの人々が主イエスを必要し、人々は主の奇跡のみわざに喜び、顔を輝かせながら帰って行くのです。

 悪い気はしません。人生に充足感を感じるかもしれません。けれども、それは神の望まれる道ではありませんでした。

 42節のその後にはこう記されています。

群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来た。そして、イエスが自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとした。

 人々は奇跡行為者である主イエスが自分たちのもとに留まって欲しいと願います。主イエスとしてはこうなることは目に見えていました。だから祈っておられたのです。
 
 その時に、主イエスは祈りの結論として次のように言われました。それが43節です。

「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」

 この言葉こそが、主イエスがこの世に遣わされて来られた神からの使命です。人々の期待に応える救い主になるためではありませんでした。しかし、こう宣言することはとても厳しいことです。

 主イエスが語られた言葉はその通りになるからです。つまり、人々の願いを叶えるために、この世界にいるのではないということが現実となるのです。そして、そこから明らかになるのは、主イエスは「神の国の福音を宣べ伝える」ことこそが、ご自分の使命なのだと言われたということでした。

 「神の国の福音」というのは何でしょう。それは神が支配される世界が訪れるということです。人の願いが支配する世界ではなく、神が支配する世界。神の願いが支配する世界です。これこそが、福音、良い知らせだと主イエスはここで宣言なさいました。

 人の望みが叶う国。そんな国こそが理想の国だと私たちは考えるのかもしれません。誰もが自分の理想を叶えられるとしたら、そこには希望があるように思えます。けれども、誰かの願いを神が叶えれば、他の人もそれなら私もと願うでしょう。そうやって、誰もが自分のわがままを言い続けて行く世界の末路は滅びでしかありません。そんなことは目に見えています。ところが、人は他の人のことは考えません。自分の願いさえ叶えばいいと思うので、自分の願いが叶えられる世界は何の問題もない希望の世界のように思えるのです。

 けれども、もっと確かな世界があるのです。それは、愛の神の理想の世界が現実となる世界です。その世界は、お互いが相手に対する配慮を持っていて、誰もが神の思いを第一と思う世界です。神中心の世界というのは、愛に溢れ希望に溢れた、まさに平和の国です。

 主イエスはそのために来られたのです。この世界で、人々が弱い者から搾取するのではなく、弱い人の手を支え合う世界、皆が互いを思いやる親切な世界です。そういう世界を築き上げることを、主イエスは望んでおられるのです。

 そして、私たちはこの「神の国の福音」もまた、必ず実現する世界であることを知るのです。主イエスの言葉には力があるからです。

 それはカペナウムでもナザレでも、ロシアにもウクライナにも、日本にも岐阜にも、そして、この芥見にも、この世界のどこででも神の国、神の支配は訪れるのです。

 主イエスは「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません」と言われたのです。これこそが、主の心の内にある思いであり、主イエスの中にある本質なのです。

 愛の神の世界がもたらされること。それは神の力で成し遂げるのではなく、私たち一人ひとりの人の力、生き方で成し遂げられることを主は、この世界に示そうとしておられるのです。それは、神の力を行使すること、奇跡を行うことではなくて、神の言葉に期待すること、神の言葉を受け取ることによって成し遂げられるのです。ここが大切なのです。

 私たちは主のみ言葉を聞き、主のお姿をしっかりと見つめることを通して、主が示してくださる神の国を味わることができるのです。

 お祈りをいたします。

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