・説教 ルカの福音書5章17-26節「天井を突き抜けた救い」
2023.3.26
鴨下直樹
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先週、WBC、野球のワールドカップが終わりました。とてもドラマチックな展開で、日本が見事優勝しました。私も、普段はそれほど野球を見ないのですが、今回は夜に再放送をしたこともあって、何度かゲームを見ました。一か月間続いたゲームが無くなって刺激がなくなったという方も少なくないのだと思います。
私たちは普段、毎日同じことの繰り返しの生活を退屈に感じるかもしれません。時々、私たちの生活を刺激してくれるWBCのような非日常の体験というのは、私たちに刺激を与えてくれます。普段は退屈な毎日とは思っていなくても、何か大きな出来事が終わってしまうと、自分たちの普段の生活がとても退屈なものに見えてしまう。そんな経験をすることがあるのかもしれません。それは、たとえクリスチャンであったとしても、信仰を持っていたとしても同じようなことが起こるわけです。
私自身もそんな思いになることに、今さらながら驚きを覚えます。聖書を読んで、お祈りすれば神様との豊かな交わりの中にいるのだから、退屈さなんてないのではないかと思うのかもしれません。なぜそう思うのだろうかと、私自身考えてみると、一つ見えてくることがあります。それは、「答えが見えて来る」「先が読めて来る」という経験です。
聖書を読んでいても、本当は分からないことばかりなのですが、いつのまにかすっかり聖書が分かったような気持ちになってしまうことがあるわけです。聖書の学びを皆さんとしているときも、何か質問があるとつい、分かっている気になって話してしまいます。そういう思いというものを持つと、いつしか足もとがぐらつくことにもなりかねないのです。もう、何もかも、分かっている。神様が何と言われるか分かっている。そういう思いによって日常が造り上げられていくときに、私たちの生活はたちどころに退屈なものとなってしまうのではないでしょうか。
先日も、今日の聖書箇所を祈祷会でみんなと学びました。とても刺激的で楽しい時間でした。というのは、皆さんから予想もしない答えが出てくるからです。私は普段、自分一人で聖書を読んで、聖書の解説を読んでいます。そんなことをずっと続けていますから、この箇所はこうやって解釈するというのは当たり前になってしまいます。そうすると、何だかわかったような気になって、聖書を読むことすら退屈になってしまうということが起こり得るわけです。
けれども、先日もみなさんと話していますと実に様々な意見が飛び交いました。それは私にとって、非常に刺激的な聖書の学びの時となした。
今日の聖書は、「また」と言ってもいいかもしれません。癒しの奇跡の御業が記されているところです。「中風の患者の癒し」と呼ばれています。中風というのはギリシャ語では「片方がゆがむ」という意味の言葉です。例えば脳梗塞などの病のために体が麻痺してしまう状態にある人のことをいいます。聖書の注のところにも、「からだが麻痺した状態の人」と記されています。
ツァラアトの病の人に続いて、中風の人が出て来るのも、人が一度病になってしまうと、そんなに簡単に癒されることがない病として記されていることが分かります。そういう病に陥った時に、その病をどのように受け止めていくのかという、人の姿がここには描き出されています。
もちろん、それは病の場合に限りません。病というのはその人の生活が困難な状況におかれてしまいますので、その病を抱えながらとても厳しい生活をしなければなりません。毎日、その厳しい現実を目の当たりにしながら、どこかで今の自分の身に起こっている状況が改善することを人は求めるのです。それは、病だけではなくて、人との関係の中でも起こることです。あるいは、経済的な困窮という場合もあるでしょうし、受け入れがたい日常が続くなかで、多くの人がどうしたらそこから抜け出すことが出来るのかを求めているのだと思います。
そういう生活の中で、信仰が何の助けにもならないように感じてしまう場合もあると思います。今の自分の置かれている状況が変わるとは思えないので、その中でもがき苦しむということもあるのだと思うのです。そんな変わらない現状に苦しんでいるのが、今日出て来る中風を患っている人です。
私たちは今日、この病の人に目を留めることになるのですが、今日の所にはそれ以外の人々も登場してきます。特に今日聖書に出て来る登場人物の中には、新しい人たちが姿を現します。それが「パリサイ人たちと律法の教師たち」です。
今日の箇所から6章の前半までに4つの物語が記されています。この4つの物語に共通して登場するのが、このパリサイ人たちと律法学者たちです。彼らは、主イエスが人々の病を癒し、聖書を解き明かしているという噂を聞きつけて、至る所から集まって来たようです。最近噂になっているイエスとはいったい何者なのか、興味を持っていたのです。
ルカはここでこのユダヤ人の宗教指導者たちが主イエスの働きを見て、何を感じたのかということを、描き出していこうとしています。その最初の出来事として、この中風の患者の癒しの出来事を、パリサイ人たちや律法学者たちが見たのだと記録していったのです。
今日の物語は、このパリサイ派たちに代表されるユダヤ人の宗教指導者たちの視点、そして、中風の患者とその友達の視点、また主イエスの視点と3つの視点で見てみる必要があります。
そこではじめに中風を患っている人と、その友達について考えてみたいと思います。
中風の患者を連れて男たちが主イエスのもとにやって来ます。すると、あまりにも大勢の人であったために、主イエスの近くに行くことが出来ませんでした。それで、屋上に上って、屋根をはがして、そこから病人をつり下ろしたと書かれています。
とんでもないことです。先日の祈祷会でも、「なぜ順番が来るまで待たなかったのか?」という疑問が出ていました。この意見は、私には意外な言葉だったのですが、私たちの毎日の生活を振り返ってみればごく当たり前な意見なのだと思うのです。
私たちもそうですけれども、病気になると病院を訪れます。特に初診の時というのは病院の待合室で、いつも長く待たされるわけです。けれども、時間はかかりますが待合室で待っていれば必ず順番は回ってきます。
けれども、ここに出てくる人たちは待たないで、家の屋根に上って屋根をはがし始めてしまうわけです。どうしてこんなことをするのか? という疑問を持つのは当然のことです。そうすると、想像するしかないわけですが、彼らは恐らく、待っていても自分たちの順番が回ってくるとは思えないほど大勢の人が来ていたということなのかもしれません。それで、このままではこの友達は癒されることのないまま、主イエスがどこかに去ってしまわれるかもしれない。そのまえに何とか癒してもらえる方法を考えたということなのかもしれません。
この聖書の場面はいろんな事を考え始めると、様々な疑問が出てきます。屋根をはがしてしまって、大人の男が何人も屋根にいて、釣り下ろすとなると屋根の強度は大丈夫だったのかとか、その家の人は怒らなかったのかとか、いろいろ考えることはできますが、書かれていない以上何とも仕方がありません。ただ、明らかなことは、普通に考えればこの人たちのやったことはやってはいけないことです。他人の家の屋根をはがすなど、もっての外です。それが、常識というものです。
ところが、20節にこう記されています。
イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
主イエスは彼らの信仰を見て、「友よ」と声をかけられたのだというのです。この突拍子もないアイデアをご覧になって、主イエスは彼らのことを「わたしの友である」と言われたのです。そして、そればかりか、「あなたの罪は赦された」と宣言なさいました。
主イエスの目には、この友人たちのした行為は「信仰」なのだと見られたのです。どういうことなのでしょうか? 順番を無視して、人の家の屋根をはがして病人をつり下ろすなどというのは、言語道断で、身勝手な振舞だと叱られるのが普通です。しかし、主の目にはこの人々は好ましく映ったのです。
そこから見えてくるのは、信仰というのは、常識を覆すことだということが見えてくるのではないでしょうか。
主イエスというお方は、分かり切った事柄、先が読めるようなことのなかに身を置いてはおられません。主がおられ、主の言葉が語られるところでは、常識を覆すような出来事が起こるのです。主は、これを信仰と見ておられるというのです。
このことに、私たちは驚きを覚えるのです。これは、この昔の時代だったから許されたということではなかったはずです。当時の人から見ても、非常識な振舞であったに違いないのです。けれども、主はこの人たちの振舞の中に信仰を見出されたのです。つまり、そこでいう信仰というのは、常識を覆すことです。こうすれば、主はこの中風の友人を癒してくださるに違いないと信じたのです。
分かり切った答えを求めるのではなくて、こんなことをしてはいけないという常識を超えて、主イエスに期待することの中に、主は信仰を見てくださったのです。そして、この姿こそが、私の友の姿だと言われたのです。
さて、ではこの場面を見ていた律法学者たちやパリサイ人たちはこの出来事をどのように見たのでしょうか。21節に次のように記されています。
ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒涜を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
主イエスの語る言葉を聞き、行うわざを見たパリサイ派や律法学者たちの最初の反応です。最初から、敵対視していることがここから見て取れます。この後の主イエスの言葉を見ると、彼らは口先だけでなら何とでも言えると考えていたことが分かります。「あなたの罪は赦された」という言葉を語っても、ここで癒しの御業はまだ起こっていません。それで、この宗教指導者たちは、口先だけなら、何だって言えると考えたのです。
それで、主イエスは彼らの心の中を見抜いてこう言われました。22節と23節です。
イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために――。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
主は、今度はユダヤ人の宗教指導者たちの心をご覧になられました。彼らの心は、主イエスがそこに信仰を見出したようには見ることはできませんでした。パリサイ人たちは、「罪を赦す」と言われた主を見て、これは神への冒涜だと考えたのです。
非常識なことをしている人に対して、主イエスもまた非常識なことを言っている。罪を赦すなどというが、病が癒されるわけではないし、口先だけなら何とでも言えるとしか考えられなかったのです。
これが、常識的な人の反応です。私たちはパリサイ人が聖書に登場してくると、すぐに敵(かたき)のようにして見てしまいますが、この人たちはごく真面目な人たちです。聖書のことばを大切にして、先祖から教えられた聖書の教えに忠実に生きようとした人ということができるでしょう。
ただ、残念なことにこのパリサイ人たちは聖書の言葉に縛られてしまって、神の心に目を向けることが出来ませんでした。そのために、主イエスのしていることも、神が喜ばれることだとは思えず、かえって神を悲しませていると考えたのです。この人たちの心にあるのは正義感です。だから、自分たちの考えていることが間違っているなどということを考えることができませんでした。
そして、目の前にいるイエスという男は、罪を赦すと宣言しながら中風の人を癒すことのできない嘘つきだと思ったのです。こんなことは、神を冒涜することだと思ったのです。
しかし、次の瞬間彼らは全く予想していない出来事を目の当たりにするのです。主イエスが「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」と言われたのです。
すると、どうでしょう。この、先ほどまで体が麻痺して動かなかった人が立ち上がって、神をあがめながら家に帰って行ったのです。
26節にこう記されています。
人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」
人々は目の前で起こった出来事に驚いたのです。主イエスの言葉の力を目の当たりにします。そこで、人々は神をあがめたのです。
確かに、これはメシアのしるしに違いないのです。詩篇の103篇でも、「主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる」と書かれている通りです。聖書はそのようにメシアのことを記しています。
人々の反応はしごく真っ当な反応です。目の前で体が動かなかった人が立ち上がって歩いて帰っていったのです。人が病気になると、きっと何か悪いことをしたからだと考えられていた世界の中にあって、この癒しの出来事はまさに罪が赦されたしるしでした。もう、人から後ろ指を指されることは無くなるのです。
しかし、私たちはこの出来事を正しく見る必要があります。人々はここで起こった現象に目を留めます。しかし、大切なことは主イエスがここで何をしておられるのかです。主イエスが見ておられるのは何かということです。
主イエスが見ておられるのは、友人たちの信仰です。彼らはあたりまえの考えに支配されないで、主イエスには何かがおできになると期待し、天井をはがしたのです。一体、誰がそんな突拍子もないことを考えるのでしょう。しかし彼らは、主イエスにはおできになると信じた。この、主イエスを信じるというこの心に、主は目を留められたのです。
私たちは、どこかで限界を決めてしまいます。そうして当たり前の枠の中で物事を考えます。聖書を読む時も、ついそうなってしまいます。
私たちの主は、私たちが作り出した天井を突き破るような信仰を喜んでくださるお方です。主は、この世界の限界を超えて働くことのおできになるお方です。そして、限界を突破されるのが、私たちの主なのです。
私たちはこの主イエスのお姿を心に刻むのです。私たちの上に広がっている天も、この天地を創造された神の御手にあるのです。私たちの主は、どこからでも手を差し伸べることがおできになります。どうか、この主を知ってください。そして、主に期待する心を持ってください。自分のためにではありません。自分が何かを得るためにではなく、この神の御業が行われることに期待するのです。その時、神は働かれ、私たちはこの主の栄光を見ることになるのです。
私たちの主には不可能なことは何もないのです。
お祈りをいたします。