2023 年 7 月 16 日

・説教 詩篇32篇「主を喜び 楽しめ」田村洸太

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2023.7.16

田村洸太神学生

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 皆さんおはようございます。今日、このようにして芥見教会の皆さんの前で福音を述べ伝えることができることを心から嬉しく思います。

 私の神学塾での学びもいよいよ最後の年となり、とても祝福された時を送らせて頂いております。

 さて、本日は詩篇32篇、特に最後の11節の言葉を引用し、「主を喜び 楽しめ」という題を付けました。というのも私自身もまた皆さんにも主を喜び、楽しむそのような素晴らしい信仰生活を送っていただきたいと願うからです。せっかくなのでぜひ、皆さんと一緒にこの11節をもう一度、お読みしたいと思います。私が「詩篇32篇11節」と言いますので、それに続いて声を合わせてお読みください。

(詩篇32篇11節)「正しい者たち を喜び 楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ。」

 「主を喜び 楽しめ」これは、32篇最初にあるように古代イスラエルの王であったダビデから、この詩篇32篇を読むすべての者に対する投げかけです。とても積極的な投げかけです。今、皆さんはダビデが言うように、「主を喜び、楽しむ」信仰生活を送っておられるでしょうか。もし、そうではないという方がこの場におられるのでしたら幸いです。なぜなら、ダビデがどのようにして「主を喜び、楽しめ」と言える信仰生活を送れるようになったか、そのことを今日は、この詩篇32篇を通してお話ししたいと思うからです。

 まず、この詩篇が書かれた背景をお話ししたいと思います。この詩篇が書かれる前、ダビデは彼の生涯の中でも最も大きな罪を犯します。部下であったウリヤの妻バテシェバと姦淫の罪を犯し、それを隠そうとしてウリヤの殺害を引き起こしてしまうのです。

 ダビデは、イスラエル軍がアンモン人と戦っている最中、部下であったウリヤの妻バテシェバが、夕暮れ時に水浴びをしている姿を、王宮の屋上から目にします。彼女がとても美しいのを見ると、ダビデは使いを送り、自分の元へと来るように言い、最終的に彼女を犯してしまいます。ウリヤが不在の機を狙った酷い裏切り行為です。しかし、ダビデの罪はここで止まることはありませんでした。

 それからしばらく経ったある日、ダビデはバテシェバがみごもったという知らせを耳にします。すると、ダビデは自分が行った姦淫の罪が明らかになることを恐れて、どのようにすれば自分の罪を隠せるだろうかと考え始めます。そして、彼が思いついたことは、「ウリヤを戦地から呼び戻せば、夫婦なのだから一緒に寝るだろう。そうすれば、自分が犯した罪を隠すことができる」ということでした。そして、ダビデはウリヤに使いを送り、彼を労わるふりをして、自分の家に帰るようにと命じるのです。

 しかし、ウリヤはその命令を聞くと、「他の兵士たちが戦いの中で自分の家に帰ることができない状況なのにも関わらず、自分一人だけが家に帰って、妻と寝ることができるでしょうか。私には、決してそのようなことはできません」とはっきり答えます。ウリヤの返答は、至って正論です。部下としても100点満点の返答ではないでしょうか。

 しかし、ダビデは違いました。自分が思い描いていたようにことが進まないことに焦り、憤って、ウリヤを戦いが最も激しいところへと誘導し、彼が敵に殺されるように仕向けろとウリヤの上司に命じるのです。一つの罪を隠すために、さらなる罪を重ねてしまうということがありますが、この時のダビデは、まさにそのようで、自分の罪をどのようにしたら隠し通せるか、そのことしか見えていなかったのです。

 結局、ウリヤはダビデの目論見通り、敵の矢に貫かれ命を落としてしまいます。当然ダビデが行ったこのことは、主のみこころを損ないました。義なる主は、このダビデが行ったことを見過ごす方ではありません。主は、預言者であるナタンをダビデの元へと遣わし、その罪を指摘しました。するとダビデは「私は主の前に罪ある者です。」と悔い改めの言葉を口にします。それに対して、預言者ナタンも「主はあなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない」と答えます。

 これが、詩篇32篇が取り扱っている背景です。皆さんはこの出来事をどう思われるでしょうか。このダビデが犯した罪を許せるでしょうか。「もっと罰してやらないとウリヤがあまりにもかわいそうではないか」そう思われる方もいるかも知れません。しかし、これこそが主の赦しの深さなのです。

 聖書がいう罪とは何でしょうか。私たちは、日々様々な犯罪を見聞きします。連日、信じられないほどショッキングなニュースが流れ、許しがたい犯罪が、今この時も起こっていることを知らされます。

 強盗、殺人、不倫、戦争、この世は犯罪で満ちています。しかし、聖書が言っている罪というのは、私たちが犯罪と呼ぶものにとどまらず、もっと深いところを指す意味の言葉です。それが、この詩篇32篇で「背きの罪」と言われている、神様に背中を向けて歩む罪です。

 聖書が示す罪という言葉には、ハマルティア=的外れという意味があります。つまり、神様に背中を向けて歩む生き方は、本来の創造主なる神様が人間に願っているような生き方から的を外しており、そのような人生を歩むことによって、そこから様々な罪が、犯罪(この32篇では咎という言葉で表されていますが)として、目に見える形となって現れてくるのです。

 ダビデが犯した姦淫と殺人の罪も、神様に背中を向け、自分主体の人生を歩む中で、自然と生まれてきてしまったものだったのです。

 この問題は、私たちにおいても他人事とは決して言えません。なぜなら、神様から目を逸らそうと働く誘惑は、私たちの側にいつもあるからです。

1幸いなことよ
その背きを赦され 罪をおおわれた人は。

2幸いなことよ
が咎をお認めにならず
その霊に欺きがない人は。

 ダビデは、ここで人間の本当の幸せとはなにかを示しています。お金がたくさんあり、欲しいものはなんでも手に入れられ、良い暮らしを送れる。一般的にはそれを「幸せ」と呼びます。しかし、それらは人間の本質的な罪の問題に触れない表面的な幸せに過ぎません。聖書が示す本当の幸せとは、背きの罪が、またそれによって引き起こされた咎が、神様によって完全に赦される。そのことにあるのだとダビデは言います。沢山のものを主に与えられ、満ち足りていたダビデがそう言っているのです。

3私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり
私は一日中うめきました。

4昼も夜も 御手が私の上に重くのしかかり
骨の髄さえ 夏の日照りで乾ききったからです。

 「クリスチャンになってから、苦しいことが増えたように感じる時がある」ある時、そのように友人が打ち明けてくれたことがあります。「主なる神様を信じる前は、罪なんて全く意識しなかったのに、信じてからは、自分の今までの生き方、すっかりこの身に染み付いてしまった自分の生き方が、いかに神様を悲しませるものであったか、わかるようになったからだ」と話してくれました。

 確かにそうだと思います。主なる神様を知らなければ、罪を犯してもそれほど痛みを感じることはないでしょう。しかし、主がどんな方か知れば、知るほど、主の願っておられるように生きられない時、それに気付かされた時に、私たちはとても苦しい気持ちになるのではないでしょうか。ダビデもそのことをこの3節、4節で打ち明けています。

 部下であったウリヤの妻バテシェバを犯し、ウリヤが殺されるように仕向けてしまったことは、ダビデの心に大きな罪の意識として残り、彼を苦しめ続けました。ダビデ自身もこの苦しみの原因が、主に背き、犯してしまった罪によるのだと気づいていたのです。

 人は、たとえ自分の犯した罪を周りの人に隠し通すことはできたとしても、主の前に隠し通すことはできません。そして、自分自身もまたその罪をいつまでも忘れることができず、永遠にその罪に苦しみ続けるです。その苦しみから解放される道は一つしかありません。

5私は自分の罪をあなたに知らせ
自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。
「私の背きをに告白しよう」と。
すると あなたは私の罪のとがめを
赦してくださいました。

 どれほどの期間、ダビデは罪の意識に苦しめ続けられたのでしょうか。しかし、ある時、とうとう自分が隠していた罪が主によって明らかにされる時がきました。預言者ナタンが主に遣わされ、やってきたからです。

 ナタンは、ダビデの罪をはっきりと指摘します。ダビデにとって自分の犯してしまった罪が公になることは一番に恐れていたことでした。しかし、ここでダビデは、自分の罪を素直に認め、主の前に告白します。それによってダビデは主の赦しがどれほど深いのかを経験するのです。

 この箇所は、驚くべき主の赦しの深さを物語っています。ダビデがまだ罪を告白する前、「私の背きの罪を主に告白しよう」と口にした時から主の赦しが始まるのです。この主の即座の赦しを見事に表現している箇所が、他の聖書箇所にあります。それが、先ほどお読みしましたルカの福音書15章11節から20節に書かれている放蕩息子の譬えです。

 ここには、ある一人の息子とその父の話が書かれています。ある時、息子は「お父さん、財産のうち、私がいただく分をください」と父に頼んで、今でいう生前分与を息子の方から願い出て、財産を分けてもらいます。すると息子は、すぐに家を飛び出して、別の国に住むようになってしまいました。そこで彼は自分の好き勝手な暮らしを送り、とうとう父から貰ったお金をつかいはたしてしまうのです。ある時、その地に大きな飢饉が訪れ、彼は食べるのにも苦労するようになります。

 すると彼は我に帰って、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」と父に言おうと決め、故郷へと帰っていくのです。しかし、まだ家までかなり距離があるにも関わらず、父は息子を見つけ可哀想に思い、走り出して、彼を抱きしめ、口付けするのです。

 なんという憐れみ深い父の姿でしょうか。父はいなくなってしまった息子をいつも心配し、見ていたのです。この譬えで語られている父は主なる神様、息子は私たち人間を表しています。ですから、主は私たちをこの放蕩息子の譬えの父のように、いつも見ておられるのです。私たちが主に背を向け、歩むような時でさえも、主は私たちから目を逸らさず、見つめ続けておられるのです。

 なぜ主は私たち人間が背く時さえも見つめ続けてくださるのでしょうか。それは待っておられるからです。主に背を向け、歩んでいる者たちが、悔い改め、主に向き直ることを。主は、私たちの背きの罪を赦そうと待ち続けておられるのです。

 この赦しの恵みの主なる方こそ、私たちの神、主です。ダビデは、罪を告白する前、「昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり」そう4節で語っています。主の御手が自分を苦しめるものであるように感じていたのです。しかし、6節、7節。

6それゆえ 敬虔な人はみな祈ります。
あなたに向かって あなたがおられるうちに。
大水は濁流となっても 彼のところには届きません。

7あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り 
救いの歓声で 私を囲んでくださいます。

 自分が犯してしまった致命的な罪さえも主は赦してくださった。その驚きと喜びの中で、ダビデの考えは180度変えられ、主を「私の隠れ場、苦しみから守ってくださる方」であったと思い出し、主を賛美するのです。

8私は あなたが行く道で
あなたを教え あなたを諭そう。
あなたに目を留め 助言を与えよう。

 いつも主の目に正しい道を歩み続けてきたわけではない、時に主に背をむけて歩んだ故に大きな罪を犯してしまうところまで離れて行ってしまった。しかし、そんな罪深い私を主は赦してくださった。それを知っているダビデだからこそ、私たちこの詩篇を読むすべての者たちに対してもそのように勧めるのです。

9あなたがたは
分別のない馬やらばのようであってはならない。
くつわや手綱 そうした馬具で強いるのでなければ
それらは あなたの近くには来ない。

 ダビデは、強制され、無理矢理にでも連れて来られないと主の近くに来ない、そのような者であってはいけないと忠告します。主を絶えず見つめ、歩むことは、決して不自由な制限の中を歩むような生き方ではなく、罪赦され、本当の自由を得る生き方であるとダビデは語るのです。

10悪しき者は心の痛みが多い。
しかし に信頼する者は
恵みがその人を囲んでいる。

 悪しき者とは、一体、誰でしょうか。それは、私たちすべての人間のことです。主に背を向け、神様を見上げない、そんな自分主体で生きてしまう、そのような時の私たちのことなのです。神様に背を向けて生きる時、私たちの心には多くの痛みがあります。ダビデが、「私の骨は疲れきり、一日中うめいた。」と告白するように。

 しかし、自分が罪を犯したと認める時、それを悔い改めて、告白することにも大きな勇気がいるように思えます。それは、日々の生活の中で、許すことの難しさを私たち自身が身をもって経験しているからです。心に余裕がある時は、一度や、二度の失敗であれば、相手を快く許せることもあるでしょう。しかし、それが何度も続けば、続くうちに、相手を許すことは次第に難しくなっていきます。

 ですから、私たちも信仰生活の歩みの中で、主を裏切ってしまう、そのようなことを、何度も、何度も経験するうちに、主の前に自分の罪を認め、悔い改め、罪を告白することが次第に怖くなっていってしまうのではないでしょうか。振り返り、主の顔を見上げることが怖くなってしまうのではないでしょうか。それは、主の心の苦しみが想像できるからです。

 しかし、背きの罪の中にある私たちを見つめる主の眼差しは、決して私たちへの怒りの眼差しではありません。いつだって私たちを赦そうと待ち続ける憐れみ深い眼差しなのです。私たちが罪を犯してしまった時、主が私たちに求めておられることは、たった一つです。罪を認め、悔い改め、主の前に告白することです。なぜなら、主は私たちの罪を赦そうといつまでも待っておられる方だからです。主の憐れみ深さ、赦しの深さは私たちの想像を遥かに超えているのです。これが私たちの信じる主の姿です。主は、私たちのいかなる罪をも赦してくださる方、憐れみ深いお方なのです。

11正しい者たち を喜び 楽しめ。
すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ。

 この主を信じていることこそが、私たちの喜びです。私たちの人生の楽しみです。この赦しの恵みが私たち主を信じるすべての者に、あなたに与えられています。この祝福の中を歩んでいくことができますように。あなたの信仰生活が主を喜び、楽しむ歩みとなりますように。

 お祈りいたします。

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