2023 年 7 月 23 日

・説教 ルカの福音書8章1-3節「主イエスに従う女性たち」

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2023.7.23

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所はとても短いところで、主イエスに従った女性たちのことが記されていますが、歴史家と呼ばれるルカならでは、の、とても貴重な聖書箇所といえます。

 というのは、この箇所に続いて、この8章では、主イエスが種まきのたとえ話と、燭台のあかりのたとえ話をなさいます。このたとえのテーマは「隠れているものと明らかになるもの」です。

 そして、今日の箇所はこのたとえ話をする前の導入として、この1節から3節が配置されています。そこからも、ルカがどんな意図をもって、この話をここにおいたのかが見えてきます。

1節にこのようにあります。

その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。

 ルカはここで、主イエスと十二弟子との宣教がはじめられたことを書いています。私は先日の祈祷会でこの話をした時にはすっかり失念していたのですが、6章の12節以下で十二弟子のことが取り上げられていまして、弟子たちのことを「使徒」と呼んだという記録がすでに記されております。この8章では、主イエスの神の国の宣教に、この十二弟子たちを伴ったことが短く記されていますが、読んでみるとルカの関心は、十二人の弟子よりも、むしろこの後の2節と3節に記した女性の弟子たちに向けられていることが分かります。

 2節と3節にこう記されています。

また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。

 このように書かれています。この「悪霊や病気を治してもらった女たち」という言葉は、このマグダラのマリア以外にも、2節には「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。」とありますから、主イエスに仕えた女の弟子たちの多くは、主に悪霊や病気を治してもらった人たちが多かったことが分かります。

 このマグダラのマリアをはじめ、クーザの妻ヨハンナも、スザンナも、その他の主イエスに付き従った多くの女の弟子たちは、主イエスによって病気や、悪霊から解放されたという救いを経験して、主に従う者へと変えられたのです。

 特に、ここにはじめて名前が登場してきますこのマグダラのマリアというのは、一体どういう人なのでしょうか?

 この前の7章に出てきた、主イエスに香油を注いで髪で主の足を拭った女性は、このマグダラのマリアではないか、そのように考える人たちは昔からかなりたくさんいました。

 キリスト教会にはこれまでさまざま伝説や、伝承が残っていますが、これらの伝説を丁寧に調べて、まとめた人がいます。これを書いたのは13世紀のジェノバに住む、ヤコブス・デ・ウォラギネという人で、彼は、これらの伝説や伝承をまとめて、現在日本語では4巻に収められている『黄金伝説』と呼ばれる本を記しました。ここには、いわゆるカトリック教会の聖人伝説などがまとめられています。この『黄金伝説』の第二巻に「マグダラのマリア」という項があります。この本に取り上げられている人物はだいたい一人につき数ページにまとめられているのですが、マグダラのマリアは脚注も入れると30ページほどにもなる分量でまとめられています。

 しかし、聖書の中にそれほどたくさんの記録があるわけではありません。このルカの福音書の中には、この箇所と、復活の主イエスがよみがえると言っていたはずだと、弟子たちに教える場面が出てきます。他にはヨハネの福音書では、復活の主イエスとお会いした時に「ラボニ」と呼びかけたという記事があります。そのくらいです。

 聖書だけなら1ページにも満たない分量なのですが、この本には30ページもあるわけです。何がそんなに書かれているのだろうかと思って読んでみますと、興味深いことにマリアとマルタの姉妹と、その弟のラザロのことまで書かれていました。どうも、主イエスに従ったマリアとマルタの姉妹のマリアと、マグダラのマリアが混同されてしまっているようなのです。また、ルカの7節に出てきた主イエスに香油を注いで、髪でぬぐったエピソードも出てきます。

 さらに興味深いのは晩年、主によみがえらされたラザロと一緒に、当時はマッシリアと呼ばれる今のフランスのマルセイユまで伝道に行ったというようなことまで書かれています。そのあとはバプテスマのヨハネのごとく、荒野で誰とも会うことなく7年間過ごしていて、その間は毎日の七回の祈りの度に、天上に上げられてそこで天使と共に天の食べ物で養われていたというようなことまでも書かれていました。

 これほどいろんな記録があるというのは、このマグダラのマリアという人物が、生まれたばかりの教会でも特別な注目を集めていたからなのだと思います。そして、ルカはここでなぜそのような関心を生んだのか、その理由を描き出しているのです。

 マリアはかつて、「七つの悪霊に支配されていた」とあります。おそらく、生活は大変だったはずです。それまでどんな生活だったのかも、はっきりしません。ただ、ルカはこういうかつて生活することも大変だった女性たちが、主イエスとその弟子たちの宣教をサポートしていたのだということを、ここで描き出しているわけです。

 これまで、主イエスの宣教は三年ほどだったのではないかなどと考えられてきました。けれども、その主イエスの伝道するための資金はどこから出ていたのかということは、他の福音書にも全く触れられていませんでした。

 ところが、ルカはこのような女の弟子たちが主イエスと弟子たちの宣教をサポートしてきたのだということを、ここで初めて明らかにしたのです。それは、この後のたとえ話にも関わってくるのですが、見えない燭台の灯りのような働きをしていた女の弟子たちの献身的な姿を、ルカがここで見えるようにしようとしているのだということが分かるのです。

 これは、決して小さなことではありません。一粒の種が地に蒔かれて、30倍、60倍、100倍の実を実らせるために、このマグダラのマリアや、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナや、スザンナといった人たちが、その心の中に蒔かれた小さな種を受け取って、やがて大きな教会を生み出していく、そんな爆発的な伝道の源は、ここなのだということを、わずか3節で描いてみせたのです。

 ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナも、ここに名前がでてくるだけで、これ以上詳しいことは分かりません。けれども、この時代にユダヤ地方を支配していたヘロデの執事をしていた人物の妻ですから、それなりの地位のある女性だということは分かります。そういう言ってみれば身分の高い女性も、七つの悪霊につかれて、生活に困難を覚えていたはずのマリアも、同じように主に仕えたのです。

 まだできたばかりの教会、主イエスの周りにいた人々は、こういった様々な立場の人たちが最初から自由に働いていたのです。女性というだけで、差別されていたこの時代にあって、教会だけは、その女性たちの活躍によって成長したのです。

 十二弟子たちの働きがクローズアップされがちなのですが、ルカはあまり注目されてこなかった女の弟子たちが、実は十二弟子たちと全く同じように重要な存在であったのだということを、ここで描き出しているのです。

 そして、これこそがまさにここで語ろうとしている福音そのものなのです。福音とは、使徒と呼ばれた十二弟子たちであろうと、かつて悪霊につかれていたり、病におかされていた人であろうと、全くなんの関係もなく、共に神の国の福音を宣べ伝える伝道の役割を果たしてきたのだということなのです。

 主イエスは、男も女も何の違いもなくお用いになられるお方です。身分の高い低い、健康や、病の差に関係なく用いられたのです。

 「彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。」とあります。「ああなんだ、献金の話かぁ」と思わないでいただきたいのです。もちろんこの時代、たくさん献金できた人もいたでしょう。けれども、誰もがみんな同じようにできたわけではなかったはずです。その一つの応答の姿が、ここでは「財産をもって仕えた」ということであって、その前に書かれていた罪深い女は、主に文字通りひれ伏して、足を洗いきよめ、油を注ぐという具体的な奉仕をしました。

 マリアとマルタといった姉妹は、一人は給仕をすることで仕えていましたし、マリアの方は、み言葉に耳を傾けるという仕え方をしました。それぞれ違った仕え方があり、その仕え方を主イエスはとても喜ばれたはずです。

 Aという奉仕は良い奉仕だけれども、BとかCという奉仕は少しランクが下がりますというようなことではありませんでした。

 ペテロやヨハネのような仕え方もあり、マリアやヨハンナのような仕え方もあったのです。そうやって、自分の心の中にみ言葉の種をいただいた人は、誰にも気づかれないようなささやかな仕え方をしてきたけれども、それらのわざは明るみに出され、やがて100倍の実を結ぶのだと主イエスは言われるのです。

 私の書斎に一冊、少し違う視点から書かれた聖書の註解書があります。『共観福音書の社会科学的注解』というタイトルが付けられています。これは、いわゆる聖書学者がギリシャ語の意味を明らかにしていくというような種類の解説ではなくて、社会科学者が、当時の社会状況の中でここに書かれているのはどういう意味を持っていたかという解説を試みているものです。

 その解説によると、当時病を癒やされた女性たちは自分の癒やされたことに対する負債を返すために、家族や共同体を出て、新しい家族や共同体に加わったと説明されています。そうすると、家族を離れて、別の人たちと家族のような生活をしていたわけですから、それは性的行為の疑いがかけられることにもなったのだそうです。そうならないために、自分の家族に戻ることもできるのですが、癒してもらった負債を返済するために、代替家族の繋がりを優先させるということがあったのだと書かれています。

 もし、この註解書が書いているようなことだとすると、この女の弟子たちは周りから軽蔑されながらも、主に従っていくことを選び取ったという可能性もあるわけです。

 ちょっとなまなましい解説で、こうなると綺麗事ではなくなります。どれだけのリスクを冒して主に従ったのだろうかということが、いろいろ想像できるわけです。そこで、もっとも大切なのは、主に救われたという事実に対する感謝がどれほど大きいかということに気付かされるわけです。

 まさに、自分の人生をそのあとは主のために使っていくというような覚悟がそこから見えてくるのです。

 私たちは、みな同じように福音を受け取って、それはからし種ほどの大きさしかなかったとしても、それがどう大きく育つかはまさに、その種の中にどれほどのいのちが含まれているかです。どこまで受け取るかで、私たちのその後の応答は変わってくるのです。

 そして、主はその応答を私たちに完全に託しておられます。「このくらいの奉仕を期待してるからね」というようなことは言わないのです。たとえば応答の基準として献金の場合は十分の一というようなことはあったとしても、それ以外の私たちの応答は、それぞれまったく、完全に私たちの自由です。

 これを、「このくらいは・・・」と言ってしまうと、そのままカルト宗教ということにもなりかねないのです。どんなにそれをいうことが親切であるかのように思えても、それは強制されるものでなく、私たちが自分の気持ちで応えていくものです。

 それはまた、人と比較することでもないのです。そして、どんな応答でも、主は喜んで受け入れてくださるのです。

 主は、どんな小さな働きも、それこそ目に留まらない働きも、弟子たちのような目覚ましい活躍も、同じように喜んで受け止めてくださるお方です。そして、私たちは、誰もが主に仕える者とされているのです。そのような私たちの応答を、主は見ていてくださって、喜んで受け取ってくださるお方なのです。

 お祈りをいたします。

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