・説教 ルカの福音書8章4-15節「神の言葉をどう聞くか?」
2023.7.30
鴨下直樹
⇒ 説教音声のみの再生はこちら
昔、「のらくろ」という漫画がありました。ご存知ない方も多いと思いますが、犬たちを主人公にした、戦争をテーマに扱った少しユーモラスな漫画です。この「のらくろ」の作者は田河水泡さんといいますが、この方はキリスト者です。この田河水泡さんが晩年、「のらくろ」を書くのをやめたあと、キリスト教をユーモアで紹介したいと『人生おもしろ説法』という本を書かれました。
その本の中に「名画の切り売り」という話があります。
「画商さん、この額に入っているセザンヌの静物だがね、こんな大きな絵は私の部屋には大きすぎるので、はじっこの果物一個だけ、切り取って売ってもらえないかね」
そんな会話からはじまります。もちろん無理な注文です。作品を一部だけ切り取ってしまっては絵全体の構図がだめになって、作品としての価値がなくなってしまいます。
そこで、こんな話を書いています。あるところに、クリスチャンとして非の打ちどころのない人がいました。でも、その人は形式というものが嫌いで、洗礼だけは受けなかった。洗礼は形式だけだからそんなのはいらないと言っていたというのです。
でも、田河さんは、これはセザンヌの絵を一部だけ切り売りして欲しいというようなものではないかと書いています。自分の都合しか考えない身勝手な要求で、そんなことをすればそのものの価値を失ってしまうことになるというのです。
今日の説教題を、「神の言葉をどう聞くか?」としました。この箇所でも、同じようなことが言えるのかもしれません。私たちは、聖書から、神の言葉を聞くのですが、そこで自分の気に入ったところだけ切り売りするかのように、部分的にしか聞き取っていないと、同じことになりかねないのではないでしょうか。
今日の聖書箇所は主イエスのなさった譬え話です。「種まきのたとえ」とか「四つの土地のたとえ」などと言われる譬え話です。実は、この譬え話は、譬えなだけにいろいろな解釈が存在します。み言葉をどう聞くか? というのがテーマの箇所でありながら、一部だけを切り取るようなさまざまな解釈が出てくるのです。
というのは、種のたとえなのか、土地のたとえなのか、種を蒔く人のたとえなのかで、読み方は全然変わってくるのです。それこそ、その中にはみ言葉を聞いた時の受け取り方のタイプとして四つあるというような話をすることが多いと思います。そうすると、自分は「良い地」なのか、それとも「いばらタイプ」なのか、「岩地タイプ」なのか「道端のカラスタイプ」なのかを考えて、自分はこのタイプだから、私はどうもダメみたいという話になってしまいます。
このような読み方は、一般的でよく耳にすることがあると思うのですが、そのように読んでしまうと、結局私はダメで、実を実らせることのできないダメなクリスチャンだという話になってしまいます。
あるいは、こういう解釈もあります。この土地は私たちの心の中の姿で、み言葉を受け入れる準備のできている「良い土地」の部分と、耕されていない道端や、岩地や、いばらの生えた「悪い土地」の部分とがあるのではないかという解釈をする場合もあります。人の心の中に、み言葉を受け入れやすい場所や、頑なな部分があるのではないかと読むこともできるのです。私自身も、そのように解釈して話したこともあります。
ただ、そのように読むと、私たちの心を少しずつ良い地として耕していきましょうという話になってしまうこともあります。そうなると、もはや福音ですらなくなってしまいます。頑張って心を耕しましょうという努力目標になってしまうからです。
聖書を読む時に私たちは分かりやすく聖書の言葉を受け取ろうとするのですが、話を単純化してしまうと、この箇所が語ろうとしていることがつかめなくなってしまいます。この譬え話はルカだけでなく、マルコの福音書にも載っています。マタイの福音書にも載っています。けれども、どの福音書も同じ譬え話を、同じように語っているわけではないので、それぞれの文脈を注意深く見極めて聖書の言葉を受け取る必要があります。
この種は明らかに「神の言葉」のことを語っています。これは、聖書の言葉と言ってもいいし、説教のことと言ってもいいものです。
私たちは説教を聞く時に、そこで何が起こるでしょうか?
さまざまなものが邪魔をして、受け取ったはずのみ言葉が、福音の種が、実りをもたらすことを邪魔してしまうことがあるでしょう。
主イエスはこの8節でこう言っています。
また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。
神の言葉は良い土地に落ち、成長して百倍の実を結ぶのだと言っておられます。そして、これこそが、ここで語られている福音そのものです。
冒頭でお話ししたセザンヌの絵の切り抜きのように、部分的に切り取ってその部分だけで最初に語っている部分を持ち帰るのは、神のみ言葉を聞いたことにはならないのです。
しかし、このことだけでもまだこの聖書を聞き取ったということにはなりません。特にここまでではこの譬え話のまだ半分のことしか語っていないのです。
弟子たちがこの譬え話を聞いた時に、主イエスにこれはどういう意味なのかと尋ねます。すると10節で主はこのように答えています。
イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。
『彼らが見ていても見ることがなく、
聞いていても悟ることがないように』
するためです。」
こう言われてから、譬え話の意味を語り始めます。
この10節を読むとどういう意味なのかと少し分からなくなる方があるかもしれません。ここでは「ほかの人たちは神の国の奥義を知ることができない」ということが言われているのです。
これは、他の福音書とルカでは書き方が違いますので注意深く読む必要があります。主イエスの周りにはいつもたくさんの人々が集まっていました。そして、この人々は主イエスの語る言葉を聞き、主イエスのなさる御業を目の当たりにしてきたのです。
私たちはよく考えることがあります。今もし主イエスが現代に現れて主イエスの行われる奇跡を見たら、たくさんの人が主イエスを信じるだろうと。けれども、当時の人々は主イエスの周りにやってきて、奇跡を目の当たりにし、直接主イエスの話を聞いてきたのに、主イエスが十字架にかけられる時には殆ど誰も残りませんでした。
つまり、「神の国の奥義」のメッセージ、譬え話をこの時聞いていたはずの弟子たちさえ、この神の国の奥義を主イエスの受難の時までは悟らなかったということになるのです。
つまり、聞いたら誰でも分かるというような簡単な話ではないのです。けれども、ここでなされる主イエスの譬え話の解説を聞くと、それほど難しい話かな? と思えるほどの内容です。主イエスの説明を聞けば何のことかは比較的簡単に理解できます。
ただ、この「分かる」というのは「分かったつもりになる」というのとかなりの開きがあるのです。
私たち自身、この譬え話の説明を聞けば、主イエスが言いたいことは概ね理解できると思います。み言葉を聞いても、みんながそれを受け取れるわけではなく、「道端のカラス」のように種はすぐにどこかに持ち去られてしまって、何を聞いたか忘れてしまうことがあります。あるいは、「岩地の種」のように根が張らずに枯れてしまう時もあるのです。あるいは、「いばら」が邪魔をして、枯れてしまう。そういう、福音が実らないさまざまな状況があるということは私たちにも理解できますし、日常的に同じような経験をすることもあると思うのです。先週聞いた話をもう覚えていないなんていうことは、割と当たり前になっているかもしれません。
主イエスがここでいちばんの問題にしているのはどこでしょうか?
それは最後の15節です。
しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。
ここで主イエスが語っておられることは何でしょうか?
「立派な良い心」という言葉があります。私には少しひっかかりを覚える言葉です。この「立派な」というのは「正しい」とか「美しい」と訳される言葉です。「美しい良い心」とも訳せます。そうなるとかなり印象は変わります。「立派な心」と言ってもどんな心の状態なのか、どうしても律法的な響きを私は感じてしまいます。しかし、「美しい畑」であれば、雑草が引き抜かれて、よく耕された、種を蒔く準備のできた畑だと連想することができるでしょう。そのような、心の中にみ言葉の種が蒔かれるのだということです。
よく整えられた畑に種を蒔いてもすぐに実は実りません。そもそも、譬え話にもありますが、どこに種を蒔いてもいいわけでもありません。ちゃんと種を育てるための準備が必要です。そこに種が蒔かれるのです。蒔かれても、すぐに芽はでません。何日も待たなければなりません。その間も、水をやり、雑草を取り除いて、さまざまな準備が必要です。
ここには「みことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して」とあります。
ここの「しっかり守り」という言葉も私にはとても違和感を覚える翻訳です。「立派」とか「しっかり」というのは誰目線なのか、抽象的すぎるのです。他の訳では「これを堅く保ち」などとも訳されています。み言葉が実を実らせるためにそこにとどまらせるのです。
そして、そこに「忍耐」という言葉が加えられているのです。
み言葉を聞いて、それで終わりではないのです。聞いたら、その聞いた言葉が実を実らせるために、自分の中で時間をかけて育てていくのです。この「忍耐」がないとみ言葉は実を実らせることができないのです。「えっそうなの?」と思われる方もあるかもしれません。
というのは悪魔が来て持っていってしまうこともあるし、試練が来ることもあるし、思い煩いや、富や快楽でみ言葉がふさがれてしまうこともあると主イエスはここで言っているのです。100倍の実を実らせるのには、インスタント食品のような簡単にお湯を注いで3分でというわけにはいかないのです。
かならず、種を埋めればそれを育むための時間が必要です。そして、そのような手間暇をかけることのなかに、収穫の醍醐味があるのです。
教団の牧師たちの中には、最近いろいろな趣味のグループが出来つつあるようで「登山部」なるものがあって山登りに行く先生たちがあります。他にも畑仕事の大好きな牧師たちがおりまして、同盟福音「農業部」という交わりができそうなくらい、その牧師たちは顔を合わせるたびに、顔を輝かせながら、上手く育てるコツを伝授しあっています。それはとても楽しそうで、見ているこちらも、朗らかな気持ちにさせられます。顔を合わせると野菜を交換したり、今は何を植えたりしているという話をしておられます。聞いているとずいぶん手間をかけるようで、「間引きした?」とか「肥料はどうしている?」という話が上がっているのを耳にすることがあります。
実際に、この時にみ言葉の種を蒔かれた弟子たちに、この蒔かれた種が実りを迎えたのは、主イエスの十字架と復活を経て、ペンテコステ以降まで待たなければなりませんでした。そこまで、主が弟子たちに蒔かれた福音の種は、忍耐を経て、育む時間を経て実を実らせていったのです。
何度も、何度も試練を経験し、挫折を味わいながらも、その種がやがて芽を出し、成長し、やがては豊かな実を実らせるのです。この育つまでの時間が肝心です。
「私は道端のカラスだから」とか「私はいばらタイプだから」とか簡単に自分のタイプを決めつけて、種を育てることを放棄したりしないでしっかり育てて欲しいのです。
その種の中には、まさに神の国の秘密が隠されているのです。福音は、私たちが思っているよりも大きく、そして実り豊かな実りをもたらすのです。
先週から信徒交流会が始まりました。水曜日はFさんが、木曜日はOさんが証してくださいました。どちらもとても豊かな内容でした。Fさんの証はこれまでの自分の人生の中で与えられたみ言葉と共に、これまでの歩みのなかでそのみ言葉がどんなに意味深い響きをもっていたかということを、ご自分の人生を通して受け取っているという証でした。とても興味深い証で、本にしたらいいのにと思えるような内容でした。
又、Oさんは7年ほど前から毎朝聖書の暗誦をはじめるようになってからというもの、自分の人生に神が共におられるという平安を体験できるようになっているという証でした。覚えたみ言葉をひとつずつ暗唱してくださいました。
特に私にとって印象的だったのは、少し前のことですが朴先生と星野先生が北朝鮮の伝道のために働いてこられて、その時の報告で説教してくださったイザヤ書のみ言葉を、 Oさんはずっと暗唱してきて、どういう意味だろうと思っていたことが今日分かったと言って、涙を流して喜んでおられた姿が、私の目には焼きついています。
この姿も、み言葉を育んで実らせる歩みだなと思わされています。
主は私たちにみ言葉を通して語りかけてくださいます。いつも、神からの語りかけは聖書を通してです。それ以外にはないのです。神のみ言葉は、誰でも受け取ることができるわけではありません。ここで言われているように、隠されているのです。見てはいても見えず、聞いているようでも悟ることができないのです。そこに、聖霊の働きがなければ、このみ言葉は私たちの中で実を実らせることがないのです。この聖霊は、ゆっくりと時間をかけて働きます。インスタントのように、簡単にはいきません。私たちの中でゆっくりと育んでいくものなのです。
しかし、それはやがて実を実らせ100倍の実りをもたらすのです。この収穫の喜びを主は私たちに備えて、私たちに今日も語りかけてくださっているのです。
お祈りをいたしましょう。