2023 年 7 月 9 日

・説教 ルカの福音書7章36-50節「あなたの罪は赦された」

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2023.7.9

鴨下直樹

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 人が涙を流す時には様々な涙があります。悲しみの涙や、怒りの涙というものもあるかもしれません。惨めさを感じる時に涙を流すこともあるでしょうし、嬉しくて流す涙というのもあると思います。いずれにしても、涙が流れる時というのは、その人の中である限界を超えた時に、涙が流れるのだと思うのです。

 自分の話で恐縮なのですが、私が小学一年生の時のことです。国語の時間に「詩を書いてみよう」という時間がありました。クラスのみんなは紙にさらさらっと詩を書き始めたのですが、私は何を書いていいか、全く思い浮かべることができませんでした。

 私が何も書けないのを見た担任の先生は、「嘘でもいいから何か書け」というアドヴァイスをくれました。今思えば、先生はとにかく何か書かせることに必死だったのだと思うのですが、このアドヴァイスは私にはとても効果的でした。実際に起こったことでなくていいなら、何か書けるかもしれないと思ったのです。

 そこで私は「お母さんが泣いた」という詩を書きました。その詩は、もう手元に記録がありませんので、完全ではないのですが、大まかにいうとこんな内容の詩です。

お母さんが泣いた。
僕は、お母さんが泣いているのを見て、心配になって、お母さん大丈夫? と聞いた。
すると、お父さんが、僕に「あれは嬉し涙だよ」と言った。

 ざっくりいうとそんな内容の詩です。ちょっと凄くないですか? 小学一年生の私。この時の詩が、当時の小学校が出していた、すべての親に読まれる学校新聞の表紙を飾りました。たぶん、私の人生で、もっとも人から褒められたのは、後にも先にもこの時以外には記憶にありません。

 涙には、悲しい涙だけではなくて、嬉しい涙もあるはずだと、なぜかその時私は思って、この詩を創作したわけです。もちろんそんな事実があったわけではないのです。ただ、たぶん学校の先生をはじめ、多くの人は鴨下家の生活の一部を切り取った詩だと思ったのではないかと思うのです。近所ではずいぶん評判になって、良い証になったのだと思います。ですが、実際には当時五人の子どもを抱えていた我が家に、そんな麗しい光景はありませんでした。担任の先生のアドヴァイスによって生まれた私の想像の産物だったわけです。

 今日の聖書にも、一人の涙を流す女性が登場します。ここには名前も記されておりません。書かれているのは「その町に一人の罪深い女がいて」とあるだけです。この罪深い女の人が、主イエスと出会うまで、どんな歩みをしていたのかは、書かれていないので分かりません。想像するしかないわけですが、この「罪深い人」というのは、「遊女」などと呼ばれ、性的な罪を犯していた人だと思われます。当時のイスラエルは倫理的に非常に厳しい国で、誰かから訴えられたりすれば、石打ちの刑にされて殺されることもある時代です。私たちが今日の「娼婦」とか「売春婦」というイメージから来る、そういう仕事をしながらも逞しく生きている人とはまた少し異なるのだとも思います。今よりももっと生きにくい時代です。表立ってはいないけれども、誰もが知っているというようなことであったようです。

 そういう女性が、どこで主イエスと出会ったのかは分かりませんが、すでに主イエスの語る言葉を聞いたのか、あるいはどこかで癒やされた人なのかもしれません。その女の人が今日の箇所に登場してきます。

 主イエスはこの時、パリサイ人の家に招待されておりました。この人の名前は後で「シモン」という名であったことが記されています。シモンがどういう思いで主イエスを招いたのか、その理由もここにははっきり書かれていませんが、主イエスのことを知りたいと思ったから、主イエスを招いたのでしょう。ところが、そこに、この罪深い女がどこからともなく現れて、主イエスの足元で涙を流し始めたのです。

 この女の人はパリサイ人から招かれたわけでもないのに、主イエスがそこにおられるからと知って、主のうしろから足もとに近寄って来たわけですから、どんなに強い意志を持って来たかが分かります。主イエスはこの時、怪しんでこの女の人を退けたりはなさらないで、そのままこの人のすることを受け入れておられました。

 女の人は涙を流しながら主イエスの足をぬらし、髪の毛でその足を拭い、持って来た香油を主の足に注いでいったのです。

 この女の人の涙はどんな涙だったのでしょう。恐らく、感謝の思いがそのうちに満ち溢れていたのです。この女の人の悲しみのみなもとを、主イエスが断ち切られたからです。人々から見下されて生きてきたのに、主イエスは受け入れてくださったからなのかもしれません。あるいは、この人の病が癒やされたのかもしれません。誰かから、咎められたとしても、この香油を主に注ぎたいという思いを持っていたのです。

 聖書的に見れば、この場面は印象的で、とても美しい場面と見ることができると思います。けれども、この時代の人々、特にこの場に居合わせた人たちはそのようには思いませんでした。

 39節にこう記されています。

イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。

 私たちは、誰もがこのパリサイ人の気持ちがよく理解できると思います。実際に目の前でこの光景を見たら、ほとんどの人は同じように考えるでしょう。

 その時、私たちが心の中で考える思いはこうです。「罪深い人と関わらない方がよい、自分まで汚れてしまうし、自分も仲間だと思われてしまう」。あるいは、「こんな女と関わるなんて穢らわしい」と考えるのです。

 子どもの時から私たちは大人から、「悪い人とは関わらないように」とか、「つきあう友達は選びましょう」とか、「自分にとって悪い影響を与える人とは関わっちゃだめ」などと教えられるのです。教えとしては間違っていないと思います。悪い場所には近寄らないのが正解です。パリサイ人というのはそうやって自分を守って、自分を聖く整えて来た人です。一般的に見れば、このようなパリサイ人の判断は正解です。この判断が正しいのです。

 ただ、私たちはここで知る必要があるのは、主イエスはどう思っておられたかということです。主イエスは、この世界の常識、この世界の価値観を、どのように思っておられるのでしょうか。

 40節から、主イエスがこのパリサイ人のシモンに語りかけていきます。まず語られたのは、41節と42節の短いたとえ話です。

 あるお金持ちが500デナリと50デナリを二人の人に貸していました。1デナリは、大人の一日の労働賃金です。単純に1デナリ1万円と考えると分かりやすいと思います。500万円借りていた人と、50万円借りていた人がいて、その借金を許してくれた。より感謝するのは、どちらだと思いますか? と主イエスは尋ねました。

 難しい質問ではありません。たくさん許してもらった人の方が、感謝が大きいにきまっています。

 その後で、主イエスはこんなことを言われました。44節から46節です。

この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

 シモンがしなかったことと、罪深い女がしたことを例にあげて語りかけたのです。どちらに、私に対する感謝の思い、信頼、愛が多く示されているかは一目瞭然だと言われたのです。

 これは、シモンに対する明らかな「嫌味」です。この姿を見てみなさんは愛の人であるイエスさまらしくない振る舞いだと感じるでしょうか。それとも、ここまで言わせないと理解できない鈍い人の心を主イエスは問題にしておられると読むでしょうか。

 このパリサイ人のシモンは、主イエスを家に招きました。遠くから見て、批判だけしている仲間のパリサイ人から比べれば、主イエスにかなり好意的だと言っていいと思います。けれども、そのシモンも、目の前で罪深い女が主イエスの足を涙でぬらし、香油を注いでいる光景を見ては、不快としか思えなかったはずです。罪深い者と関わるなど、自分を下げる行いでしかないのです。そんなことをしたら、自分に悪い噂が立てられてしまうのです。

 けれども、そこから分かるように、シモンに代表される常識的な行為を要求する人がする、人を見下げる、あるいは人を裁くという行為は、「自分を守るため」でしかないのです。もっといえば、そこに愛は存在しないのです。

 そして、この行為がいくら一般的な振る舞いで、誰もが共感する思いであったとしても、それは、主イエスからしてみれば愛することをやめている罪深い人の思いでしかないのです。主イエスはここでこのことを明確にしておられ、ここで私たちに気づきを求めておられるのです。

 47節で主イエスはこう言われました。

ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。

 多く赦されたことを知る者は、多く愛するのです。けれども、赦されることの少ない者、つまり、自分は正しいと思っている人、人を裁く人は、愛することも少ない、愛することを知らないのだと、ここで主イエスは言われるのです。

 この主イエスの言葉は、福音であり、裁きの言葉でもあります。赦されることの少ない者、自分は普通というところに身を置いているパリサイ人に代表される私たちは、自分の何が問題で、どこに問題があるのかに気がつけないのです。しかし、気づかなければ、人を愛することができません。

 よく、「罪が分かりません」という言葉を聞くことがあります。これは、なかなかその人に分からせることの難しい問題です。「あれが罪です」「これも罪です」と罪のリストをあげて知らせることに、あまり意味はありません。また、他の人と比較して気づけることでもありません。「普通」とか「みんな」という一般化してものごとを考えている間は、主イエスが問題としているところに目を向けることができません。

 そこで問われることは、自分を知ることです。自分を見つけることです。そこで「自分に絶望する」「自分の限界を知る」「自分の無力さに気づく」ということなしに、神の愛は分からないのです。多く赦されることなしに、愛は分からないからです。

 これは、神と私たちの関係だけに限りません。人との関係でも同じです。愛を誰かに感じてもらおうとするなら、多くを赦すことです。多くの犠牲を払うことです。愛に気づく人は、そこで自分の無力さや、弱さを知って、それが覆われること、赦されることで、愛を受け止めていくのです。

 子どもで考えてみれば分かることです。子どもに完璧を求めるのではなく、どんなに不完全であっても、できないことがたくさんあったとしても、無条件に子どもの存在そのものを受け入れる時に、そこで愛が伝わるのです。子どもに良かれと思って、厳しく教えたり、叱ることは、たとえ愛が動機であっても、なかなか子どもにその愛は伝わらないのです。それよりも、子どもが弱っている時、苦しんでいる時、困っている時、失敗した時は、その子どもを受け入れることです。そこで、親の愛を感じるのです。

 聖書が語る愛も同じです。聖書が語るのは、ただひたすらに赦すことなのであって、人を裁くことではないのです。私自身、こうやって説教の準備をしながら、どうしても頭の片隅に浮かぶのは、「人を裁く人はよくないのだ」と頭の中で考えるわけですが、その時、私もその人のことを赦していないのだということに絶望するのです。

 私たちは、「キリステ」教の信者ではありません。人を「切り捨て」るのではなくて、人を受け入れ、愛する「キリスト」に倣って生きる者とされているのです。

 主イエスは言われました。「あなたの罪は赦された」と。人から後ろ指を差され、人目を避けて生きて来たこの女の人は、主イエスからここで明確な罪の赦しの宣言を耳にします。人から後ろ指を差されるとき、自分の行って来たこれまでの罪の数々を指摘されるたびに、女の人はこれまでのことを思い起こしながら自分を責め、また自己正当化をしながらこれまで生きて来たはずなのです。

 けれども、主イエスと出会った時に、この人は自分のような者であっても、このお方は受け入れてくださるに違いないということを知りました。だから、人々の好奇の目に晒されながら、主イエスの御もとに跪き、涙を流しつつ足をぬらし、香油を注いだのです。そこまでしたいと思えるほど、この人は、主イエスから愛を受け取っていたのです。

 しかし、ここで主イエスはさらに明確に「あなたの罪は赦された」と宣言なさいました。あなたの罪を問わないと言われたのです。この言葉はどれほどこの人を救ったことでしょう。どれほど生きる確信と勇気を与えた言葉となったでしょう。この時から、この人は自分という存在を肯定することができるようになったのです。誰が自分のことを悪く言っても構わない。私のことを、あなたの罪は赦されたと言ってくださる方がある。それだけで十分と言えるほどの自由をこの人は得ることができたはずなのです。

 けれども、これを見ていた人々は「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」と思ったと、49節に記されています。人々には、主イエスが罪を赦す権威をお持ちの方だということは分かりませんから、無理もありません。この女の人だって、主イエスが神の御子ということまで分かったかどうかは定かではありません。

 この主イエスの赦しの宣言を聞いた人々の反応の言葉が、主イエスに向けられた悪意なのかどうかまでは、まだここでは読み取れません。その判断はもっと先でなされることになるのです。

 ですが、主イエスは罪深い女に最後にこう言われました。50節です。

「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。」

 主イエスはここで、この女の人の表した行為を、「信仰」と呼び、「罪が赦された」という宣言と共に、明確に「あなたを救った」という宣言もしてくださいました。

 この時、主イエスが語られた「あなたは救われた」とはどういうことでしょうか? この人がこの後、人から蔑まれることがなくなった、完全にそういうところから自由になったというわけでありません。この後も、この人はなおもこれまでのような生活が続くはずです。

 そうすると、「救われた」というのは、他者からの蔑みから救われたということではないことが分かります。救いというのは、目に見えて生活状況が改善するということでもありません。そういう意味では、私たちが思い描きやすい、「困難な状況からの救い」のことを、ここで救いと呼んでいるわけではないことが分かって来ます。この人が、ここから変わるのは何かというと、主に赦されて、平安に生きることができるようになったということが、ここで主イエスが語られている救いの中身です。

 救いを得てもその人が置かれている生活そのものは、変わりません。けれども、確実に変わったのは、神が共にいてくださり、私のことを主が受け入れてくださっているという主から来る平安です。

 つまり、それこそが主イエスが語る「神の国」の福音なのです。主が一緒にいてくださるという平安、主が私を受け入れてくださっているという喜びです。主が共にいてくださることで、主の愛を毎日の生活で知ることこそが、「神の国」に生きることなのです。

 主は、私たちにあなたの罪は赦されたと語りかけてくださり、私たちが毎日主の愛を感じながら、平安の中で歩むことができるように、私たちと共に歩んでくださるお方なのです。

 お祈りをいたします。

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