2023 年 7 月 2 日

・説教 ルカの福音書7章24-35節「神の国に生きる偉大な者として」

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2023.7.2

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、バプテスマのヨハネの質問の続きの部分です。ヨハネは主イエスが、聖書に約束された「救い主」なのかを確認したいと願っていました。この時の主イエスのお答えから、ヨハネ自身も主イエスにつまずいていた可能性が考えられます。そこで、主イエスは、ご自身のことをお語りになり、主イエスがこの世にあって何をなそうとしておられるのかは、その行いを見れば分かるでしょうとお答えになられました。すると、ヨハネの弟子たちは帰って行きました。

 今日の箇所はその後の出来事です。今日の箇所は主イエスがずっとおひとりで語り続けておられる部分です。主イエスはここで何を話しておられるのでしょうか?

 聖書の学び会で、私がいつも最初にする質問は「ここには何が書かれていますか?」という質問です。その質問をしますと、皆さん、もう一度聖書を落ち着いて読み始めます。そして、できるだけ短い言葉で、何が書かれているかを言い表そうとします。聖書を読む時には、そのように読んでいくことが大切です。まず、文脈を読み取るのです。そうすると、前に何が書かれていたのかを、もう一度考えてみる必要がある時があります。場合によっては、この後の文章に何が書かれているかにまで目を向ける必要が出て来ることもあります。いずれにしても「ここに何が書かれているか?」をしっかりと把握することで、そこに書かれている「主題」「テーマ」を見つけ出すことができます。

 ここには、「主イエスから見たバプテスマのヨハネの評価」が書かれていると言えるでしょう。そして、それと同時に人々の評価も語られていることに気が付きます。

 当時の多くの人々は荒野で悔い改めを語るバプテスマのヨハネの噂を耳にして、荒野にヨハネを見に出かけました。ところが、ヨハネの語ることを受け入れた人々もいたのですが、受け入れなかった人たちも多かったのです。

 30節でこう言っています。

ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。

 当時のイスラエルの宗教指導者たちは、ヨハネの語る言葉を聞いたのですが、受け入れなかったのです。受け入れなかったということは「神のみこころを拒んだ」ということなのだと、ここで主イエスは言っています。

 つまり、どういうことかというと、当時の人々は、ヨハネが語っている悔い改めは、神のみこころと違うことをしていると思っていたということです。

 ヨハネも異なる救い主像を持っていたのだとすれば、群衆が異なる救い主像を持っていてもおかしくはないでしょう。そして、それは、聖書に慣れ親しんでいるはずのパリサイ派の人々や、律法学者たちにまで及んでいたというのです。今日でいえば、教会の牧師たちも、聖書がちゃんと理解できていませんでしたということになるわけです。それほどのズレがあったというのです。

 「救い主」というのは、煌びやかな服を身に纏い、立派な身なりをしていると思っていたのでしょう。まるで、白馬にまたがるダビデのごとき王さまを期待していたのかもしれません。想像していた預言者のイメージは、荒野で粗布を着て、まるで家を失って着るものも持ち合わせていないような、ひどい風体のヨハネのような人物ではなくて、エリヤやエリシャや、あるいはイザヤやエレミヤのような人の姿だったのかもしれません。けれども、荒野にいたのは、イメージとは程遠いワイルドな風貌のバプテスマのヨハネだったのです。

 人々が抱いたのは「これじゃない感」です。聖書のことが分かっている人、というか、分かっていると思っている人ほど、この「これじゃない感」は大きかったのです。人々は頭の中で、素敵な救い主像を思い描いていましたから、おそらく、バプテスマのヨハネを目にしたら、実際多くの人がそう思ったのでしょう。

 昨日も、ぶどうの木句会がありまして、恵美子さんが日本には無いものが「歳時記」に載っているけれども、それは何か? という話をされました。「歳時記」というのは、俳句で使う季語辞典のようなものです。その中で「白夜」というのは日本には無い現象だけれども、海外に行った人が白夜を経験して、俳句を作ることがあるので載っているのだという話をしてくださいました。

 また「オーロラ」も同じような言葉ですが、この言葉は「歳時記」には載っていないのだそうです。恵美子さんはカナダまで行って、オーロラを見て来られたのだそうです。ところが、そこで実際に目にしたオーロラは、写真なんかで見る、あの綺麗なカーテンのようなものではなくて、がっかりしたという話をしてくださいました。オーロラはカメラのレンズを通すと、私たちが知っている、あの綺麗な色鮮やかなカーテンのような帯状に広がる景色だけれども、実際に目にするとなんだかぼやけた「もわーん」としたものだったのだそうです。イメージとは、まるで違っていたということです。

 私は見たことがないので「そうなのか」という感想ですが、こういうものは沢山あるのだと思うのです。鳥取砂丘を見に行ったらとか、天橋立はとか、お寿司屋さんでトロを食べてみたけれどとか、こういうのは挙げたらキリがないのかもしれません。

 ヨハネはそういう意味でも「聖書の預言がっかり大賞」というものがあれば、必ず上位にランクインするほど、人々が思っていたのと違ったのでしょう。

 しかし、主イエスは、ここでこう言われました。27節です。

この人こそ、

『見よ、わたしはわたしの使いを
あなたの前に遣わす。
彼は、あなたの前にあなたの道を備える』

と書かれているその人です。

 主イエスは、ここでヨハネこそが、マラキ書3章1節で約束された、救い主が現れる前に起こされる、あの預言者なのだと宣言なさったのです。

 この主イエスの言葉で、ヨハネが救い主の現れる前に与えられると預言された人物だということが確定しました。もう、この言葉で確定しましたから、その後、一切の不満も文句も受け付けませんということです。

 主イエスが、ここで群衆にそのように宣言されたということは、同時に「主イエスこそが、約束の救い主なのだ」ということを、自ら明らかにされたということでもあるのです。

 誰が何と言おうと、ヨハネは本物だ!ということを、主イエスは、ここで明確になさったのです。そして、同時にそれは、わたしこそが約束の救い主そのものだということを明らかになさったということでもあるのです。

 ではなぜ、主イエスは、そのことをヨハネの弟子たちが帰ってから明らかになさったのでしょうか? それは、ヨハネの弟子たちにわざわざ言わなくても、22節で語られたように救い主のしるしを知らせれば、ヨハネには分かるはずだというヨハネに対する信頼があったからです。

 主イエスはここで、そのことまでを明らかにしておいて、群衆にひとつのたとえを話されました。それは広場で子どもたちがしている葬式ごっこ、結婚式ごっこを例に挙げて、せっかく一緒に遊ぼうと歌ったのに、誰も遊びに乗ってきてくれない子どもの嘆きが、よく理解できると言われたのです。

 そして、この葬式ごっこはヨハネの悔い改めを指していて、結婚式ごっこは主イエスとの新しい歩みとも重なっているのです。

 ところが、主イエスは続けてこう言われました。33節以下です。

バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。
しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。

 ここまで読むと、主イエスがここで群衆に何を言いたかったのかが分かってきます。それは、人々はヨハネを受け入れなかっただけでなく、主イエスも受け入れないのだということです。

 メシヤの前に備えられた約束の預言者も受け入れないし、その救い主も受け入れないということです。

 なぜか? それは、自分たちの思い描いた救い主のイメージに固執するからです。聖書が何を語ろうとしているかを、しっかりと聞き取ろうとしていないのです。ここで明らかになっているのは、人々が求めている「救い主」というのは、人が困っている時に颯爽と現れてくれる救い主であるということです。つまり、関心は「自分」にあるのです。

 けれども、神は神ご自身が示される「救い」が、本当にあなたのことを救うのだというところに目を向けさせたいのです。この発想の転換は、なかなか起こりません。この「自分」ということに囚われている人のことを、聖書は「罪」と呼んでいます。自分本位、自己中心、自分のことしか見えないのです。

 聖書が言う「救い」が分からないのは、自分が見ている世界しか頭に無いからで、神が描いている世界があることに気づかないところから来ています。神が思い描いている世界は、愛の世界です。人々が、たとえ敵であったとしても、愛して、受け入れて、理解しあって共に歩んでいこうとする世界です。そこには、人のことを裁くという概念が、そもそもありません。自分の思い描いているようなことを人にして貰いたいという考え方が無いのです。

 そして、これが、神が思い描いておられる「知恵」ある生き方でもあるのです。

 私が牧師として願っているのは、教会に集って来られる皆さんが、自分で聖書を読み取ることができるようになることです。そうしたら、聖書の中には、すべての問題の答えが書かれていますから、ここから、まさに神の知恵を、どれだけでも自分の生活に取り入れることができるようになります。それによって、人に対しても適切な助言をすることができるようになりますし、何よりも、確信を持って生きることができるようになります。

 主イエスは最後に言っておられます。35節です。

しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。

 主イエスは、この世界に神の知恵をもたらすために来てくださいましたから、ここにそのことがすべて書き記されています。

 ここに何が書かれていますか? と自問しながら聖書を読む時に、私たちはこの箇所の全体像を掴むことができます。そこで、次の問いをするのです。それは、ここに記されている「福音」とは何か? です。

 「福音」とは、喜びの知らせです。この福音というのは必ず「宣言の言葉」として聞く必要があります。神がここで何を言っておられるか、宣言しておられるかです。

 たとえば、今日の箇所だと宣言の言葉になっているのは28節の「神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」という言葉です。

 ここで、少しだけ頭を使う必要があります。「彼より偉大」というのは「ヨハネより偉大」ということです。すると、「どうしてなんだろう?」という疑問が生まれます。

 どうしてでしょう? どうもヨハネは神の国の一員としてカウントされていないようです。なぜなら、ヨハネは主イエスよりも前の人だからです。つまり、主イエスによって示された神の心をヨハネはまだ知りません。それこそ、ヨハネの弟子たちが見たり聞いたりしたことを、これから帰って伝えるわけですから、ヨハネはまだ神の国のメッセージを知らないのです。

 では「神の国のメッセージ」とは何ですか? 先日もある方に聞かれましたが、「神の国のメッセージ」というは「人が死んだら天国に入れますよ」ということではありません。そうではなくて「主イエスと共に歩むということは、もう神さまの御国で生きているのと同じことですよ」ということです。主イエスと出会って、神の愛の心を知った人たちは、主イエスと共に歩むようになります。それが、そのまま聖書が語る救いです。死んでから救われるのではなくて、主イエスと共に歩み始めたら、もう救われているので、生きている間に、もうすでに神様と一緒に生きているのです。つまり、創世記のエデンの園の時と同じです。もう、神と一緒に生きているので、その生活は天国そのもの、地上に生きていながら、神と一緒に生きています、それが聖書の語る救いです。

 「主イエスと一緒に生きている人は誰でも、もうすでに偉大な者なのです」というのが、ここで語られている福音の宣言です。

 そして、もう一つ。「知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」という35節の言葉も宣言の言葉ですから、ここにも福音が語られています。これは、先ほど既に話しましたが、神の知恵は、主イエスがこの世界で示してくださった生き方そのものです。つまり、人を愛して生きることです。人のことを病気だとか、職業とか、生まれだとかで裁くのではなく、見下すのではなく、その人のことを愛して、受け入れて一緒に歩んでいくことです。この神の知恵に生きる人たち、つまり私たちクリスチャンによって、この神の愛の世界は証明されていきますと宣言しておられるのです。つまり、私たちの生き方そのものが、福音そのものなのですと宣言しておられるのです。私たちの生き方は神の愛そのものなのです。

 これは、どういうことかというと、主イエスの方が、私たちのことを信じてくださっているということです。私たちに期待してくださっているのです。言ってみれば私たちが神の国の広報担当係なのです。

 ちょっと荷が重いでしょうか? それとも、ちょっとやる気になるでしょうか? これにどう応えるかは、私たちにかかっています。

 私たちは理解しているようにしか生きることができません。ですから、皆さんがこの神の国の福音を理解できるようになることを願っています。自分で聖書を読んで、この神の知恵を吸収して、神の愛に生きる者となれるように、主と共に歩んでいただきたいのです。

お祈りをいたします。

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