2023 年 2 月 12 日

・説教 ルカの福音書3章15-38節「洗礼者ヨハネと主イエス」

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2023.2.12

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日は、バプテスマのヨハネと主イエスという二人の人物が、入れ替わるように出てきます。そこで、まず、ヨハネが授けていた「洗礼」、または「バプテスマ」とはどういう背景から来ているのかを考えてみるところから始めてみたいと思います。

 そこで、いきなりですが、まず「(けが)れ」と「罪」ということを聖書がどのように理解して来たのかを簡単にお話ししたいと思います。

 まず、「汚れ」というのは「罪」のことではありません。人の本質的な「罪」の問題を「汚れ」という言葉で表現しているのではなくて、「汚れ」というのは「ばい菌」がついている程度の意味です。イスラエルの民は、モーセの時代に40年間荒野を旅していました。そこでは、「ばい菌」との戦いが必須です。それは、このコロナの時代の私たちにもよく理解できることでしょう。一族の中で誰かが「菌」に冒されると、民族がそのまま滅んでしまうことになりかねません。それで、神は律法を与えて、「汚れ」についての対処の方法を教えます。

 簡単にいうとこの「汚れ」について、3つのことをレビ記では書いています。まず第一は、汚れたら「洗う」ということです。食べる前には手を洗うというようなことを徹底しました。動物の死体に触れた時とか、汚れたものを触った時、血に触れた時、人々に「洗うこと」を徹底します。そして、第二に、その「汚れ」というのは、そのままで大丈夫な「汚れ」なのか、民から隔離した方がいい「汚れ」、つまり感染拡大の恐れがあるかどうかを祭司が見て、判断します。これは、「ツァラアト」とか「重い皮膚病」という病の時の対処方法として、祭司がどう判断するかが記されています。

 そして、第三の最後に、汚れた者は「犠牲をささげること」でもう一度民の中に戻ることができるという方法について記されています。これは、神との関係をもう一度回復することと、同時に、一度汚れた人が、もう一度人々の生活の中に戻りやすくするという神の配慮の意味も込められていました。

 一度汚れてしまうと、周りの人々は変な目でみるようになります。これは、犠牲をささげて神との和解が成立したなら、もう安心できる状態になったので民の中に戻ることができるようになります。神様が受け入れられたのですから、他の誰にもそれ以上何も言わせないという効果がそこにはあったわけです。

 そういう意味では今から何千前の戒めですけれども、今の日本でもできていないような細やかな人間理解を神様はしておられるということが、分かっていただけると思います。

 さて、その次に考えてみたいのは、この時に行われた「犠牲をささげる」という祭儀の考え方についてです。汚れた者や、罪を犯した者は、神との和解をするために「犠牲をささげる」ことを神さまは要求なさいました。ここでは、「汚れ」の問題と同時に「罪」の問題が出てきます。「汚れ」は外側の問題ですが「罪」は内面の問題です。つまり、神様との関係を軽んじたために起こる様々な出来事に対しても、「犠牲」をささげることで、神様は和解することができることを示したのです。

 この時、神と和解するためには動物のいのちが代価として必要になります。例えば、神様へのささげ物をごまかしたとか、人に対して損害を与えたという場合にも、聖書は「犠牲」を要求します。その時は、「罪のきよめのささげ物」をします。自分の動物をささげることで、罪の自覚を促すことが目的となっていました。まだ子羊や子やぎで、しかも傷のない完全なものをささげます。まだ可愛い家畜を犠牲にすることで、神様はできるだけ罪を犯さないような心を育てようとなさったのです。

 ところが、この「罪」のために神と和解するために必要な犠牲という習慣も、イスラエルの長い歴史の中で習慣化されていきました。やがてこのために人々の利便性を考えて、神殿側で動物を用意するようになると、単純にお金で「罪」が解決することになってしまって、悔い改めの心が失われてしまいます。そのために、旧約聖書の後半になると、イザヤをはじめとする預言者たちは、神は悔い改めの心を求めておられるのであって、動物のいのちを殺すことではないと語りました。これは言ってみれば、神様の方が、小さな動物のいのちを犠牲にすることを可愛そうだと思われたのです。肝心なことは悔い改める心であると神様は言われたのです。神殿で、動物を殺すことではありませんでした。

 さて、そんな中で、バプテスマのヨハネが登場したのです。ヨハネは人々にこの「悔い改め」の大切さを語りました。神様の求めておられる心を告げたのです。そして、ヨハネはこの悔い改めの心を語ると同時に、神殿で動物をささげることではなくて、水で綺麗に洗うという、人が汚れた時にする実際の方法を示すことで、悔い改めの意味を明らかにしました。これが、悔い改めの時に行われた水のバプテスマです。

 ただ、問題は水で綺麗に洗うというのは、悔い改めのしるしとはなりますが、外側の「ばい菌」を落とすことがそもそもの目的ですから、人間の内面の「罪」のきよめにはなりません。ヨハネはそのこともよく理解していたようです。それで、ヨハネはこう言いました。それが今日のヨハネが語った言葉の中身です。16節をお読みします。

私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。

 このヨハネが語ったメッセージは、自らの役割と、主イエスの役割を明確に理解していたことを示しています。人の「罪」のきよめの問題というのは、悔い改めただけでは本質的な解決にならないのです。

 汚れたところを水で洗っても、またすぐに汚れてしまえば人は汚れてしまいます。それと同じように、悔い改めも、一度悔い改めても同じ過ちを犯してしまうのです。その人の心の内側が、変わらなければどうしようもないのです。けれども、ヨハネは私よりも後に来る方は、その人の外側の問題ではなくて、内側から聖霊が働いてくださって、まるで火で悪いものを燃やしてしまう様に、その人の「罪」を消し去ってくださるお方なのだと言ったのです。

 バプテスマのヨハネが行った水のバプテスマには、こういう意味があったのです。

 さて、そこで、今日の、聖書箇所を考えてみたいのですが、今日のところはルカの福音書の3章の後半部分です。少し長い箇所です。ここにはさまざまなテーマが散文的に続きます。今お読みした部分、15節から17節ではバプテスマのヨハネが語った言葉の内容が記されています。

 そして、18節から20節ではこのヨハネという人物は、ローマの総督としてユダヤを支配していたヘロデが、弟の妻を自分の妻として奪った出来事の時も、はっきりとその為政者に対して、それは悪事である、神の御前に正しくないことだと、宣言したのだということが記されています。

 まさに、ヘロデのような上に立つ者にも、はっきりと「罪」を指摘できる人物のことを、イスラエルの人々は好ましく思いました。

 15節では、人々は、「もしかするとこの方がキリストではないか、と心の中で考えていた」と記されています。

 人々が期待するメシア像と、バプテスマのヨハネの振る舞いは合致したのです。もし、メシアが来られるなら、もしキリストが来られるとしたら、きっとこのヨハネのような人物に違いない、と人々を納得させるような人物が、ヨハネだったというのです。

 ところがヨハネは、このヘロデの「罪」を指摘したことで、捕らえられてしまいまいます。そして、ルカはこのヨハネと入れ替わるように主イエスが登場したのだと、ここで描き出していきます。主イエスについては、ヨハネがすでにこのお方は私よりも、何倍も素晴らしいお方であるとすでに告げていますので、人々はこの次に登場する主イエスに期待します。

 この福音書を読む人も、みなここで期待を膨らませながら、主イエスの登場を心待ちにしたに違いないのです。

 さて、そこでルカはヨハネと入れ代わるようにして主イエスを登場させるのですが、まず、他の福音書と同じように主イエスのバプテスマについて記すことから始めました。それが、続く21節から22節です。

さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、
聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

 本来でしたら、この主イエスの洗礼の場面だけで一回の説教をしてもよいのですけれども、ルカの書き方は非常に短く書いています。しかも、これを読むと主イエスがヨハネから洗礼を受けたという直接的な言い方はしていません。それよりも、強調したいことがあるのです。それは「祈っておられると」という文章です。

 主イエスが洗礼を受けた際に、主イエスは祈っておられたのだということにルカは注目しているのです。これはルカなりの神学があるのかもしれません。他の福音書ではヨハネがバプテスマを主イエスに授けたことや、ヨハネとのやり取りを書いていますが、ルカはそれを書く代わりに、主イエスは洗礼の時に祈っていたのだということを強調しているのです。

 たとえばヨハネの誕生をザカリヤに告げたことを記している1章10節でも、その前に「大勢の民が祈っていた」とルカは記しています。主イエスが弟子たちを派遣することを記している6章12節でも、祈ってから弟子たちを派遣しています。

 ルカにとって教会の御業は祈りをもって始まるのだということ。これまでルカがパウロと共に伝道して来た時にみた教会の御業の一つ一つも、まず祈りから始まっていたのです。そういう中で、主イエスの最初の第一歩目も、ヨハネが洗礼を授けたのだというヨハネの権威を書くことよりも、主イエスの祈りによって主イエスの宣教がはじめられたのだ、ということをルカは書きたいのです。

 神の御業は祈りから始められる。これはルカがこれまで見てきて、確信をもってきた事柄でした。だから、主イエスの洗礼に際しても、主イエスもまたお祈りをしている中で、神がまるでその祈りに応えられたかのようにして、聖霊を遣わしてくださったのだと書いたのです。

 そして、これに続いて、主イエスは洗礼の際に、神によってこのように言われています。22節の後半です。

「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

 ルカは、ここで主イエスは神の御子である。神ご自身がそのように宣言されておられるのだと記しました。この神の御子であるという神ご自身の宣言に続いて、ルカは主イエスの系図を書き記していきました。この系図は23節から38節までです。

 この系図はマタイの福音書と少し異なっています。また、ヨセフからさかのぼって、アダムそして、神に至るというところまで記しています。

 ここでもいろんな解釈ができるのですが大事なことはまず、ここでルカは主イエスのことをヨセフの子であるということよりも、その前に記した神の御子であるということを強調しています。そして、人間的にみれば、この系図にあるように、主イエスは人としての系図もお持ちであるということを記しているのです。

 ルカは主イエスの宣教を記すにあたって、主イエスの神性と、人性を記そうとしていることが分かります。主イエスは神の御子であり、人として歩まれたお方であるということをここで記したのです。12歳の時の主イエスの記録を記したのもそうです。

 ルカがパウロと共に伝道していた時代というのは、今では異端と呼ばれる考え方が出て来た時代でした。この異端と呼ばれた人々は、「主イエスは、洗礼を受けたその時から神様の霊を頂いて、神様として歩んだけれども、本当はただの人間でしかない。主イエスは神様の霊を頂いて、凄い力を得たので、私たちも神様から力を頂いたら、誰もがその力、知恵によって大きな力を持つことができる」と考えました。

 けれども、ルカは12歳の時の主イエスを描いたことで、主イエスは子どもの頃から神の子としての自覚を持っておられ、神ご自身もこのことを宣言しておられるのだということを、ここで明確にしようとしたわけです。

 実は、この「二性一人格」を否定することが、異端の考え方のベースになっていました。主イエスは神様としての「神性」を持ちながら、人としての性質「人性」を持っておられる。この二性一人格の否定というのは、今でもキリスト教の異端と呼ばれる多くのグループの中にある考え方です。

 主イエスは、神であられ、人であられる。このことをルカはこの中で記しているのです。このお方が、私たちに与えられた主キリストなのです。この主を通して、ヨハネが示そうとした悔い改めの本当の意味-私たちの内面の「罪」を変えていただくためには、主イエス・キリストが必要なのだということをここから示そうとしているのです。主は、私たちの心の中にある「罪」の問題を、完全に解決することのできるお方なのです。

 前回の説教の冒頭で、この3章は主イエスの宣教に先立つ物語のナレーションのような位置付けだという話をしました。これは、今日のところにも引き継がれています。

 異なるさまざまなテーマを、ルカはここで散文的に記しているように感じます。しかし、ルカはバプテスマのヨハネの役割を明確にして、そのヨハネと入れ替わるように主イエスが登場してきたのだということを明らかにしています。そして、この主イエスが、人々の目にどう映っていくのかを書き記す前に、主イエスは神の子であり、人として歩まれたお方であるという、この「二性一人格」と言われるようになったお姿があるのだと記したのです。

 また、それと同時に、ルカはここでヨハネのことを「動」の人、そして主イエスのことを「静」のお方として描いているとも言えます。この対比もとても見事です。

 ヨハネは力強く語り、人々を集め、為政者にも勇敢に立ち向かい、逮捕されるのです。しかし、ヨハネよりも偉大な方として紹介された主イエスはまるで誰にも気づかれないかのように、静かに洗礼を受けられた。しかもその時主イエスは祈っておられたのだと、「静か」な主イエスの姿を描き出したのです。

 そして、ここから私たちはこの静かな主イエスの動きに、目を見張るようになっていくのです。ヨハネのような派手さはありません。けれども、人の心をとらえるこのお方の中に何があるのか、どうしても、私たちの興味は主イエスに引き付けられていくことになるのです。

 そこから見えてくるのは、神が願っておられる神との生活の姿です。人に寄り添って共に歩もうとされる、まさに先週お話ししました「共生」、「共に生きる」ということの難しさを実践される主のお姿を見ることになるのです。

 共に生きるというのは、今の世界でなされているような大騒ぎをするような、誰かが誰かを傷つけたとか、ああいう言い方は良くないとか、理想を押し付ける生き方をすることではありません。静かに、傷ついた人、痛んだ者の傍らで、自らを犠牲にしながらその人を受け入れて歩もうとされる姿の中に示されるのです。この静かな主イエスのお姿を、私たちはこのルカの福音書を通して知ることができるのです。

 私たちは、根深い「罪」の問題に苦しんでいます。心の中の問題ですから、簡単には解決していきません。主は静かなお方です。私たちの傍らにいてくださるお方で、私たちと共に歩んでくださるお方です。この主イエスだからこそ、私たち人間の苦しみを十分分かってくださるのです。そして、神であるがゆえにその明確な解決の道をも示すことがおできになるのです。主は、私たちの「罪」、心の中にある醜い思いを完全に断ち切らせることがおできになるのです。この主イエスを知ること、この主を仰ぎ見続けること、ここに私たちの救いの道が示されるのです。

 お祈りをいたします。

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