2023 年 2 月 5 日

・説教 ルカの福音書3章1-14節「荒野を新しい地に」

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2023.2.05

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 皆さんは、NHKの大河ドラマを見ておられるでしょうか? 私は今回の『どうする家康』をとても楽しみにしています。こういう大河ドラマなどでは、よくオープニングの曲が終わるとナレーションが入って、短く簡単に、今回のストーリーの背景を説明することがあります。今回の『どうする家康』では今のところ、あまりそういう場面がなかったと思いますが、これからそういう場面が時々出てくると思います。

 今日の聖書は、まさにこのドラマの本編が始まる前のナレーションの部分だと思っていただけると、理解しやすくなると思います。

 そこでは「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どうした」という背景となるべきことの基本が説明されます。

 「いつ」についてはかなり丁寧な記述がなされています。1節から2節までです。

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方のの領主、リサニアがアビレネの領主、
アンナスとカヤパが大祭司であったころ、

 ここまで読んできますと、これから登場するヨハネが、いつの時代の人物であったが、かなり厳密に特定できるようになります。つづく「どこで」は、ユダヤで、ヨルダン川周辺の地域でということになります。「誰が、何を、どうした」は、バプテスマのヨハネが、罪の悔い改めのバプテスマを、宣べ伝えたとなっています。

 このように、ルカはこの3章から、いよいよ主イエスの、公の生涯と言いますけれども、この公生涯を書き記すにあたって丁寧に、その備えとして場面設定を記しているわけです。主イエスの物語を書き記すのに際して、ナレーションとして書き記しているのです。

 このルカの記述のおかげで、主イエスのことは昔の伝説上の人物としてではなくて、歴史的な記録として認識されることとなりました。何でもないことのように思いますが、これはヨハネと主イエスの歴史的な記録であると、後世にしっかりと覚えられるようになったわけですから、どれだけ重要なことであったかが、お分かりいただけると思います。

 ルカのナレーションはまだ続きます。ルカは主イエスを登場させる前に、ザカリヤとエリサベツから生まれた、あの赤ちゃんがどうなったのかを書き記していきます。これから登場するヨハネは、旧約聖書のイザヤ書の預言の成就として現れたのだということを6節までのところで語っていくのです。

 ここでルカは、イザヤ書40章の3節と4節を取り上げています。このイザヤの預言で語られているのは、道がまっすぐになること、それに山や谷が真っ平な土地になることです。高慢な者は謙遜にさせられ、蔑まれていた者は引き上げられるということがイザヤによって語られたのです。

 これは、実は、部分的にはマリアの賛歌にも同じような内容がすでに語られていました。(このマリアの賛歌の部分はまだ説教ができていません。説教をする予定だったのですが、コロナになってしまったために飛ばしたままになっていますので、どこかで説教をしたいと思っています。)マリアは、このマグニフィカートと呼ばれる賛歌、ルカの福音書の1章52節でこう歌っています。

権力のある者を王位から引き降ろし、
低い者を高く引き上げられました。

 マリアが歌ったあの歌が、荒野で叫ぶ預言者の言葉となって世界に届けられたのだとルカはここで描き出しているのです。

 イザヤの言葉は6節でこう結ばれています。

こうして、すべての者が神の救いを見る。

 神の救いをこの世界のすべての者が見るために、これから記されている本編が行われていくのだと言うのです。

「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。
すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。
曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。
こうして、すべての者が神の救いを見る。』」

 預言者イザヤが、かつてイスラエルの人々に語ったこの預言の言葉は、今ヨハネの言葉を通して、再びこの世界で語られたのだと言うのです。しかも、この預言が告げられたのは「荒野」という場所でだと、ルカは記していくのです。

 「荒野」というのは、ルカがこの3章の冒頭で記してきた、この時代を代表する権力者の人々がいる世界ではありません。支配者や権力者は町の中にいるものです。人々が多く住む場所で自らの力を振るうのです。また「荒野」というのは緑豊かな土地というわけでもありません。生き生きとした実を実らせるもののない場所、命が常に脅かされる場所、それが「荒野」です。

 この命の危険と隣り合わせの場所、安心感を得ることのできない場所に、神の言葉が臨んだのです。

 イスラエルの人々は長い、神の沈黙の期間に耐えてきました。バビロンによって国が蹂躙されてからというもの、アッシリアやペルシャに侵略され、ギリシャ、ローマと続く大きな世界規模の争いの中で、神の国イスラエルは怯えるように生きてきました。ところが、不思議なことですけれども、そんな中にありながらイスラエルはこの時代、ローマによって特別な保護を受け、エルサレムの神殿は再建され、イスラエルの人々はローマの庇護のもとで安心した生活を送ることができるようになっていました。

 人々はそんな生活を続けながら、ローマの支配のもとで生き延びることを受け入れつつあったのです。そんな中で、ヨハネは荒野で人々を悔い改めに導くバプテスマを宣べ伝え始めたのです。

 神の言葉は、荒野から響き出したのです。命を脅かされる世界から、いのちの言葉が、人のいのちを生かし、支える言葉が響き出すのです。

 さて、ではヨハネが語った神の言葉とは、どんな内容だったのでしょうか? それが7節から10節に記されています。まず、冒頭の言葉に衝撃を受けます。7節をお読みします。

「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。」

 強烈な第一声です。ここには、まるで忖度という考え方はありません。聞く人の気持ちを考えるなどという優しい配慮はないのです。この美濃の国を支配した斎藤道三のことを「まむし」と呼びました。まむしというのは、一度目を付けた獲物は必ず仕留めるというような狡猾さのある生き物です。聖書の中で蛇に例えられているものは、蛇は地を這うばかりで神を崇めることがないところから来ています。イスラエルにいた権力者たち、あるいは宗教指導者たちもその中に含まれています。「自分たちの利益のことばかり考えて、天を仰ぎ見ることのない者たち。そうでありながら狡猾でずる賢く生きるあなたがたは、神の裁きを逃れられるとでも思っているのか!」という断罪の言葉です。

 ヨハネの言葉は続きます。もし、神の裁きを逃れたいと思うなら、悔い改めなさい。見せかけの悔い改めではなく、それがちゃんと実を実らせるように、結果で証明しなさい、と続くのです。

 ヨハネの厳しい言葉は、これで終わりません。自分たちはイスラエル人だ。アブラハムの子孫だから、神の約束の民だから大丈夫と思っているかもしれないが、アブラハムの子孫など、神は石ころからでも起こせる。そこに価値なんかないし、意味なんかないのだとでも言うかのような語り口です。アブラハムに与えられた神の約束はどうなってしまったのでしょうと思うわけですが、この時代、あなたは洗礼を受けているから大丈夫ですよと言えるような生活ぶりではなかったということです。それほどに、神の約束の民であるイスラエルの人々は、神の思いから遠く離れた歩みをしていたというのです。

 しかも、9節では「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」とまで言われています。もう、待ったなしの状況だと言うのです。

 「すべての谷は埋められ、/すべての山や丘は低くなる」と語ったイザヤの預言は、こういうことだと、バプテスマのヨハネは語ったのです。何という厳しい言葉でしょう。3節にあるヨハネが語った「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」というのは、ここで語られているような厳しい裁きの言葉を告げることを指していたのです。

 厳しい言葉を言われること、叱られることは、私たちは誰もがそうですが、あまり好きではありません。褒められて、認められる時に、私たちは受け入れられていると感じるものです。けれども、福音と呼ばれる良い知らせは、私たちに耳触りの良い言葉を告げることではありません。私たちの耳には優しくなくても、語る必要があるのであれば語るのです。

 親が子どもを叱るのは、子どもを叱りたいからではなくて、このことを厳しく教えることで、どうしても理解して欲しいと願うからで、その背後には子への深い愛があります。愛がなければ、無視しておけばよいのです。よくられた経験のある人は、分かることだと思うのです。

 叱ることができるのは、その人への愛があるのです。ヨハネは、いのちを脅かされるような荒野の真っただ中で、あなたは悔い改める必要がある。生き方を変える必要がある。そうでないなら、この荒野の中で、あなたのいのちが飲み込まれてしまうことになると告げたのです。取税人にも、兵士にも、イスラエルの指導的な立場にいる人々から普通の人々に至るまで、あなたがた一人ひとり、皆今のままではいけない。変わる必要があると語りました。そうでないなら、神の約束も、アブラハムの子孫という立場も、すべて断ち切られてしまう。でも、斧は用意されているけれども、今ならまだ間に合うと説いたのです。

 このヨハネの言葉を聞いた人々はどう反応したのでしょう。10節にこうあります。

群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」

 このバプテスマのヨハネの言葉は人々の心に届いたのでした。皆がヨハネの言葉を受け取って、変わりたいと願ったのです。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」人々はヨハネにそう問いました。ヨハネは一人ひとりに丁寧に答えていきます。

「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」

 取税人には「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」と語り、兵士には「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

 こうして、ヨハネは一人ひとりに具体的に語っていきました。

 私は説教する時に、時々こんな質問をされることがあります。「先生の説教を聞いている時に、ではどうしたらいいか、もっと具体的なことを教えて欲しいと思うんですが、どうしてそれは話されないのですか。」と。こんなことを言われることがあります。神学塾で説教学を教える時にも、そんな質問がなされることがあります。

 その時私は、それは私が教えることではなくて、一人ひとりが自分で考えて欲しいからですと答えます。み言葉を聞いたら、私たちはそのみ言葉に、一人ひとりが応答していく責任があります。それは、一人ひとりの応答ですから、私がこうすると良いですよと言わないように気をつけています。

 ここではヨハネは実に具体的に教えています。これは、どう応えてよいかまだ分からないからです。悔い改めるということが、実際にはどうすることなのかをここでまず、それぞれの立場や、生活の中で見えるようにしてあげたのです。

 この答えの中から見えてくるのは、自分のことばかりを考えるのではなくて、隣人のことを大切にするということです。自分本位な考え方が、罪の姿だと言えます。

 例えばですが、荒野で生活をする者にとって日中は温かくても、夜になると寒くなります。二枚下着を持っているなら下着を重ねて着ることもできます。けれども、その下着を人にあげてしまうとどうなるでしょうか。自分は寒い思いをするということです。けれども、そうすることで、下着を貰った人が少しでも温かさを覚えることができるようになる。これが隣人を愛するということだと言うのです。

 二十数年前のことですが、ある牧師が私に「共生」と「共存」というテーマの話をしてくださいました。少し前のことですけれども、20世紀の後半から「共生」共に生きるということが言われるようになりました。これは、これまでいろんな差別や偏見があったけれども、そういう人たちのことを認めて一緒に生きていこうという投げかけでした。

 そこで、何が起こったのでしょうか。それは今も起こっていることですけれども、人種の違いもあれば、最近よく語られるようになった性的指向の問題や、食べる物の嗜好の違いという問題もあります。そういう中で、この世界にはいろんな人がいるということを理解するようになりました。そういう人たちの違いを認めていこうという流れになってきました。こうやって「共存」することができるように変わってきたというのです。「共存」というのは、それぞれに存在の違いを認めていくということです。

 その牧師はこう言いました。ここまでは、できるようになったというのです。けれども、「共生」となると皆足が止まってしまうというのです。「共生」というのは、一緒に生きているわけですから、相手の痛みを自分が担うことになります。一緒に生きるのであれば、それを受け入れなくてはなりませんが、それができなくて足踏みしているのだと言われました。20年以上前の言葉ですが、今も何も変わっていないのです。

 今日、ヨハネが語ったことで言えば、共に生きるということは、下着を一枚あげる行為をそれぞれがしていくということです。自分を犠牲にして、相手にも心地よく過ごしてもらうということです。ところが、この「共生」をしようと思うと、本当に愛するということが問われるのです。自分の食べ物を与える、下着を与える。そうすると、自分が半分失ってしまうことになります。それで、多くの場合、そこまではできないと考えるのです。ここに、人の限界があるように思います。共存する、相手の存在を認めるところまではできるのです。それでは違いを認め合いましょうと「共存」ということまでは言えるのですが、「共生」とまでは言えないのです。それで、思い返してみれば、「共生」と言う言葉が次第に使われなくなくなってきているのです。

 これは、まさに福音のなせるわざです。高い山は削られて、深い谷は埋め立てられて、フラットにしましょう。それが、神が望んでおられる新しい世界なのですよと、ヨハネはこの時から語り始めたのです。荒野が新しい地になる。この希望を、ヨハネはここから語り始めました。これが、神がこの世界に望んでおられる世界だと言っているのです。

 そこではお互いに、今あるものを失っていくということです。新しい世界に生きるということは、それぞれが今の在り方を変えていくということです。両者の犠牲のもとに、新しい愛の世界は造り上げられていくのです。

 この新しい世界を今のの世界にもたらすこと、これを神の国と呼ぶのです。ヨハネはこの新しい世界を、今のの世界に示すために、自ら荒野から神の言葉を語り始めたのです。この神の国、新しい地にこの世界が変わるために、必要なのは悔い改めです。私たちが変わることです。神の語られる新しい地に、私たちが皆で希望を見出すこと。まず、そこから。これが、聖書が示す最初のステップなのです。

 お祈りをいたします。

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