2023 年 2 月 19 日

・説教 ルカの福音書4章1-13節「誘惑の正体」

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2023.2.19

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今、私たちはルカの福音書から順にみ言葉を聞き続けておりまして、今日から第4章に入ります。ここで、いよいよ主イエスが登場してきます。ここからが、主イエスの公の生涯、公生涯の活動ということになります。そこで、このルカが記すのは主イエスの荒野の誘惑です。

 先日の祈祷会でも、ある方が「どの福音書でもそうだけれども、なぜ主イエスの生涯を書き記すにあたってこの出来事を記すのか、著者の意図が良く分からない」という質問がありました。

 どの福音書もそうですけれども、みな判をついたかのように、皆この「荒野の誘惑」の出来事を記すわけです。このことにどんな意味があるのか。そのことも頭に置きながら、このみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。

 先日の金曜日、私は名古屋の東海聖書神学塾で説教学を教えておりました。今、そこで加藤常昭先生の書かれた『説教への道』という本をテキストにしながら学びをしております。この加藤常昭先生は説教をするときに「黙想」が大切だということを教えるために、説教塾という牧師たちを対象にした説教のセミナーを開催しておられます。聖書を解釈しただけでは説教にはならない。そこから、説教の聞き手や、この時代のことを黙想しながらみ言葉を聞くことの重要性を教えておられるのです。

 この本の中で加藤先生は、宗教改革者ルターの言葉を紹介しながら、ルターは説教のために神の言葉を黙想することを「神学すること」だと言っていると書いています。そして、さらにルターは、そのことは「祈り」と深く結びついていると言いました。

 「神学する」と言いますと何か難しいことと考えられてしまいますけれども、神さまは、私たちに信仰の筋道をしっかりと聖書を通して示してくださっているということです。ちゃんと信仰に至る筋道がある。このことを神学というのですが、そのためには祈りが必要だとルターは言ったのです。そして、ルターはさらにそこには当然のこととして神からの「試練」があるということを挙げたというのです。

 そこで加藤先生は、主イエスが荒野の誘惑を受けられたことを紹介しています。主イエスは、この荒野の誘惑を受けられた時に、ここにも書かれていますように、聖霊に満ちていたのですが、この御霊に導かれて荒野に赴いて、そこで悪魔から誘惑を受けられたのです。それは、神様から試練を受けたということだと加藤先生は書いています。こういうことを黙想することで、信仰の道筋を明らかにしていくのです。加藤先生はこの本の中で「神様の言葉を聞き続けてひたすら生き抜くことに伴う試練」と言っています。

 こういうと私たちにもよく分かるのだと思います。私たちは、聖霊に導かれて、誘惑を受けるというと、神様が働いておられるのに、なぜ試練を受けるのだろうと初めは思うのです。けれども、神様と共に生きようと願うところには、試練が伴うものなのです。神の言葉を聞くことを通して、神の願っておられることが分かるからです。神の願いが分かってしまうと、その後は従うか従わないかという選択の前に立たされることになります。そして、まさにそこで誘惑が起こるのです。

 さて、では主イエスはどのような試練、誘惑を受けられたのでしょうか? この荒野の誘惑の出来事の中には3つの誘惑が記されています。最初に記されているのは、主イエスは40日間の断食でお腹が空いていたことに端を発しています。悪魔は言います。3節です。

「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」

 「あなたが神の子なら」。悪魔は、そうささやきます。悪魔はここで主イエスのうちにある根源的な力、神の力があることに注目させます。その力があるのだから、お腹が空いているのなら石をパンに変えたらよいではないかというのです。

 ひょっとすると、私たちも同じようなことを考えるかもしれません。主イエスは神の子なんだから、石をパンに変えるくらい何でもないことなんだから、奇跡を行えばいいのに。なぜ、しないのだろう? そんな疑問を持つ方があるかもしれません。

 そもそも、私たちが祈りをする時の多くは、神の奇跡を期待して祈るのではないのでしょうか? 「あなたが神の子なら、この病を癒してください」。癒すことを通して、神であることを示してください。信じていることに意味があることを証明してください。そう考えるかもしれません。

 そのように読んでいきますと、実はこの考え方こそが主イエスを誘惑することになっているだという事実に、私たちは気づくことになるのです。主イエスにパンの奇跡を期待する。自分のいのちが生かされることを願う。これこそが、この第一の誘惑の正体です。

 それに対して、主イエスは言われました。4節です。

「イエスは悪魔に答えられた。『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」

 これは、主イエスがこれから伝道を始めるにあたって、明確に宣言しておられることが分かります。パンによって人は生かされているのではない。命が守られることが最も重要なことではないのだという、主イエスの宣言です。

 なぜ、これが主イエスに対する誘惑になるのでしょうか? それは、パンを期待する人にとって躓きとなることが分かっているからです。主イエスを信じることで、ご利益があることを期待する人に対して、主イエスはパンを求めること、いのちを求めることよりももっと大切なことがあると、ここで宣言しておられるのです。そう言ってしまうと実に多くの人は躓いてしまうのです。多くの人が宗教と呼んでいるものの大部分は、まさにこのことを神に期待しています。けれども、主イエスは最初からそれは違うと言っておられるのです。

 みなさんは大丈夫でしょうか? 躓かないでいられるでしょうか? 人々が期待するメシア像、神に伴うイメージを、主イエスは最初から拒絶しておられるのです。このことは、主イエスを誘惑することになるのです。

 さて、続いて主イエスを襲った二つ目の誘惑は何でしょう。5節から7節です。

すると悪魔はイエスを高い所に連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、
こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。
だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」

 子どもに将来大人になったらなりたい職業は何かと尋ねると、いろんな答えがありますが、男の子の場合、サッカー選手、会社員、ユーチューバーというのが、上位3つに入ります。女の子の場合は、パティシエ、医師、看護師、幼稚園の先生というのが上位を占めます。別の調べだと、アニメーターとか漫画家が上位に入るものもあるようです。これが、高校生くらいになりますと、会社員、公務員、プログラマーと、かなり現実的な路線になるようです。

 ただ、私はぶっちゃけて聞いてみると、きっと違う答えが今だと返って来るのではないかと思っています。それは「働きたくない」というもう一つの答えです。なりたいものを聞くアンケートですから、「なりたくない」とう答えは出てきません。けれども、出来たら仕事をしないで遊んで暮らしたい。そんな願望を持っている学生たちは少なくないと思います。

 そんな若者を、山の高い所に連れて行って、私を拝むならこの世界を全部差し上げようと言ったら、とても簡単に「OK!」という返事が返って来るだろうと思うのです。ところが、相手は主イエスです。こんな質問、何の誘惑になるのだろうと思わなくもありません。問いかけとしてはとても稚拙という印象を持つのではないでしょうか?

 ところが、この問いも主イエスを誘惑する決定的な魅力を秘めた誘惑だったに違いないのです。よく考えてみたいのです。今週の水曜日から、教会の暦ではレント、受難節に入ります。そこで、私たちが心に留めるのは、主イエスが十字架にかけられる直前に、ゲツセマネの園で祈られた祈りです。

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」

 主はそのように祈られました。主イエスは喜んで苦しみを受けられたのではありません。ご自身が苦難を受ける意味は十分分かっておられるはずなのです。けれども、できればこの杯は飲みたくないと主イエスは思っておられたのです。それほどに、十字架にかけられるということは、主イエスにとって厳しいことでした。なぜなら、神から完全に見捨てられることになるからです。ところが、この悪魔の誘惑は楽をして、この世界の人々を手に入れられるというのです。これは、主にとって魅力的な提案であったに違いありません。

 悪魔は言うのです。「神の願っておられることは、神の国をもたらすためでしょ。そのために協力するから、代わりに私を拝んだらそれで、手助けをしてやるよ」と悪魔はささやくのです。

 今日は礼拝の日、神様の御心はよく分かっている。けれども、今日は気になるテレビがある。イベントがある。ちょっと、目をつぶっていただけませんか? そんな風に私たちも考えるのかもしれません。楽ができる道があるのであれば、ちょっと神様、目をつぶっていてください。そんな思いは私たちもよく分かることです。

 主は、その時も答えられました。8節です。

『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』

と。

 このように理解していくと、主の答えは私たちに向けられているのではないかとさえ思えて来るような気持ちになります。

 ここまで、主イエスは主イエスを誘惑する悪魔に対して、聖書の言葉で答えてこられました。聖書には答えがあるということをこうして示しておられるのです。

 すると今度は、悪魔は主イエスに対してこう試みます。9節以下です。

また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。
『神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』
と書いてあるから。」

 聖書に書いてあるというのなら、聖書にあなたのことを守ると書いてあるから、飛び降りてみたらよいと悪魔は言うのです。

 聖書に書いてある神の約束の言葉です。この言葉が本当かどうか、証明してみせてくださいというのです。

 これは、私たちにもよく分かることです。聖書の中には沢山の約束の言葉があります。その約束が本当かどうか見せて欲しい。あなたは神の子なのだからできるはずだというわけです。私たちも、同じようなことを期待する心があるかもしれません。聖書の言葉を自分の都合のよいように読むのです。そして、その通りにならないと、神様どうしてですかと訴える。ここには、私たちの心の中にある潜在的な神への期待が描かれているとさえ、言えるのかもしれません。

 けれども、この三度目の問いかけも、主イエスは見事に論破されます。

「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」

と主は答えられました。

 「自分のために神を利用することを神は認めてはおられない」と主イエスはここでお答えにならました。それがいくら聖書に書かれていたことだとしても、神は身勝手な都合で奇跡をなさりはしないのだと主は言われたのです。ここでも主ははっきりと、神の力を自分の都合のために利用することを断られます。

 ここから、分かってくることがあります。それは、この誘惑の出来事は、これからはじまる主イエスの生涯の中で、ずっと付きまとうことになる人々の願いだということです。神の奇跡を期待する心というのは、主イエスを誘惑するものであって、けれども、主はその人々の期待する思いに応えるつもりはないのだということを、最初に明確に宣言しておられることになるのです。

 この後、主イエスはご自分の町であるナザレに行かれます。そこでは人々に期待されていない姿が描かれています。ところが、主イエスに奇跡を行う力があることが分かると、その噂が瞬く間に広がって、人々が主イエスのもとに集まってくるようになるのです。けれども、主はそのような人々を避けるように、次の町へと移って行かれるのです。

 主イエスの周りに集まる人々は、主イエスの奇跡の力に期待する人々です。パンを求める人々であり、この世界で成功を収めることを望む人々です。ところが、主イエスは「私は罪人を招いて悔い改めさせるために来たのだ」と語り続けられるのです。

 主イエスの周りには、常に多くの人々がいます。けれども、主イエスはずっと孤独のままです。誰も、主が示そうとしておられるものに期待しないからです。人が求めているのは、目に見える幸せばかりです。けれども、その幸せがなぜ訪れないのか、その本質に目を留めようとしない人ばかりなのです。

 つまり、人々はずっとこの時から、主イエスを誘惑し続けているのです。自分たちの期待に応えて欲しい。そういう神様が私たちは欲しいのだ。そのような願いばかりを主の前に持ってくるのです。

 そうすると、当然のこととして私たちの心には疑問が浮かんできます。私たちもお祈りをするときに、神様に癒しを求めます。病の人のために執り成しの祈りをします。この祈りは、神様を誘惑するような祈りなのだろうかという疑問です。

 もちろん、私たちも病の人のために執り成しの祈りをします。病気になれば癒しを期待します。このことはいつも紙一重です。大切なのはそのことをいつも覚えていることです。何よりも私たちが求めるべきものは、神の国と神の義なのです。病の中にあったとしても、神が支配してくださることを求めるのです。主イエスご自身そうされたように、神の御心を求めるのです。神を求めないで、神の恵みばかり期待する心は罪です。その思いこそが、神を、そして、主イエスを苦しめ続けることになるのです。

 主イエスが受けておられる誘惑の正体。それは、自分勝手な私たちの願いです。神の思いを無視して、自分の願望を押し付けることです。そして、主イエスは、最初からこの自分本位に願い事に対して、「NO!」と言い続けておられるのです。

 私たちはパンを求めます。けれども、主は私たちに与えられている神と共にあるいのちの豊かさを求めて欲しいと思っておられるのです。

 私たちは、自分の願いが叶うことを求めます。願いを聞いてもらえるのであれば、どんな神だって拝んでも構わないと考えるのかもしれません。けれども、主イエスは私たちに、何よりも神ともにある生活の喜びを知って欲しいと願っておられます。

 私たちは、聖書を利用してでも神の奇跡を期待します。けれども、主は私たちに、神の言葉が私たちを本当に生かす指針となることを知って欲しいのです。

 神の奇跡を求めるのではなく、神ご自身を求めることを主は願っておられるのです。神ご自身が私たちには必要なことを、主は知って欲しいと願っておられるのです。目先の欲望に目を留めるべきではないのです。主は、神と共に歩むことの中にこそ、私たちの願うことよりもさらに豊かな喜びと平安があることを示したいと願っておられるのです。

 私たちは何よりも、私たち自身が主イエスを誘惑する者となるのではなく、主の足をひっぱる者となるのではなく、主と共に歩む平安と喜びを知るものとなり、この主イエスをこの世に指し示す者となりたいからです。

 お祈りをいたします。

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