・説教 ルカの福音書4章14-30節「みことばから始める歩み」
2023.2.26
鴨下直樹
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先週は、荒野の誘惑の箇所から説教しました。その説教の中で、私たちのする、奇跡を期待する祈りは主イエスを誘惑するものにもなりかねないという話をいたしました。すいぶん驚いた方があったかもしれません。その後のお祈りの中でも、たとえばロシアとの戦争が終わるように祈ることも、主を誘惑することになるのか。そんな疑問を感じられながら祈られておりました。言葉が足りなかったかなと反省しております。
その説教の中で、はじめに「神学する」という話をしました。信仰の筋道が見えて来るようになることを「神学する」と言います。そういうところからいうと、まだまだその道筋が見えていないのかもしれません。
祈りというのは、私たちの願うとおりにではなく、神の御心がなるようにと祈ります。神を自分の願いをきかせる僕(しもべ)のようにすることはできないのです。そういうところから考えれば、人々が殺し合いをするような戦いを収めてくださいという祈りは、神の御心が行われますように、御国が来ますようにという祈りを具体的に祈るということです。そういう祈りのことを「誘惑」と言っているのではないことは明らかです。ですから、主の御心を求める祈りとして、私たちはどんなことでも祈ることができることを覚えていただければと思います。
さて、とはいっても私たちは様々なところで過ちを犯してしまう弱さがあります。祈りにおいても、神を誘惑するような、まさに身勝手な祈りをしかねない者です。まさに、そのことを記したのが、今日、私たちに与えられているこの誘惑の続きが記されている4章の14節以下の箇所です。
そこでルカが記しているのは、主イエスが会堂で教えられたことから書き始めています。「イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。」と15節に記されています。その後、ルカはこう記しました。16節です。
それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
いつものように主イエスは安息日に会堂に入って、聖書を朗読して、み言葉を語り始めます。主イエスが選んだみ言葉は、イザヤ書61章の1節と2節でした。
そこにはこう記されていました。ルカの福音書の4章の18節と19節をお読みします。
主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
主の恵みの年を告げるために。
主イエスはたまたま、偶然にこのイザヤ書を開いたのではありません。主イエスは意図的にこの箇所をお選びになられました。
そのみ言葉に続いて主が語られたのはこういう内容でした。21節です。
イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
主イエスは、この貧しい人に良い知らせが告げられ、捕らわれ人が解放され、目の見えない人は目が開かれ、虐げられている人は自由となるというイザヤの語った約束の言葉は、今日このところから実現していくのだと言われました。
まさに福音がこの世界にこの時からもたらされるようになるのだと、主は宣言されたのです。
主イエスが宣教をお始めになられたのは安息日の礼拝からでした。当時、神殿は再建されておりましたが、安息日ごとに人々は神殿に行くわけではありません。このころは、各地に聖書教育のためにシナゴーグと呼ばれた会堂が造られていました。そこで、安息日ごとに聖書を朗読して、み言葉を解き明かすという習慣が始まっていました。主イエスは、このシナゴーグで行われるようになっていたみ言葉中心の礼拝を、重んじられたことが分かります。
そこで、主イエスは真っ先に、イザヤ61章の預言の成就がここから起こると宣言なさったのです。み言葉を聞くことから、歩みを始めていくことを主イエスご自身ここで望まれたのです。
今の私たちの礼拝は、神殿の犠牲の礼拝をルーツにしていません。むしろ、このシナゴーグでの礼拝、み言葉を中心とする礼拝が起源となっています。それは、主ご自身がこのみ言葉を聞く礼拝を重んじられたところから来ています。
この礼拝において、私たちはみ言葉を聞きます。神の御心を知って、まさに貧しい人に良い知らせが告げられて、虐げられている者を自由にする福音のことばを耳にするのです。そして、主の御言葉を聞いた人々は主の御名を褒めたたえ、主の恵みのことばに驚くのです。
ところが、まさにその中で、次のことばも聞こえて来るのです。
「この人はヨセフの子ではないか」
次々にいろんな声が聞こえてきます。「彼の父は大工でこのナザレに住んでいるではないか!」 「兄弟も知っているぞ、弟のヤコブはこの間、いたずらをしていたし、ユダはまだこの間まで鼻たれ小僧だったではないか!こんな偉そうなことを教える立場ではないぞ!」
そんなこと言って主イエスを非難する人々が現れたのです。
これと似たようなことを、私たちも毎週経験するのだと思います。
「日曜日に教会で説教を聞いた時はそうかと思って感心したけれども、自分の生活の中に出てみると、そんなにうまくはいかないことばかりだ。神の言葉が私の生活の何の役に立つのか?」
そこでは色んな言葉が聞こえて来るのです。
「それは、出来すぎた話だ」「現実にはそんなにうまくいくはずがない!」
そして、思うのです。「聖書に書いてあるように、私たちの生活でもそのようになったら良いのに」と。
主イエスはそこで答えられました。23節以下です。
そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」
そして、こう言いわれた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」
まだ続きますが、まず23節と24節をお読みしました。そこで言われた主のことばはこういう意味です。
「あなたがたは奇跡を見せてくれと言うのでしょう。預言者たちは自分たちのために奇跡をしないものだ。だから、預言者たちは郷里では歓迎されないのだ。しかし、エリヤの時もエリシャの時も、預言者たちは本当に必要な時にだけ奇跡をおこなったが、それはその人たちに気に入られるためにではなかった。そうではなく、神の御前で謙遜に、神の御救いを必要とした者だけに、奇跡は示されたのだ」と主は言われたのです。
エリヤの時、ツァレファテのやもめは残された最後の油と粉をエリヤに差し出して、後のことは神にお任せしますと、その信仰を示した時に御業が起こりました。
エリシャの時、イスラエル人ではなかったナアマン将軍は、金銀財宝で癒しをえることはできず、エリシャのことばに従って、謙遜にその身を七回ヨルダン川に沈めた時に、病が癒されたのです。
主イエスが言われるのはこういうことです。主の御救いの御業は、主を恐れ、主の御救いを必要とする者のところに実現するのであって、自分本位で身勝手な傲慢な者たちを満足させるためではないということです。
さて、この主イエスの言葉を聞いた時、何が起こったでしょうか。この言葉を当時の人々は受け入れたのでしょうか?28節と29節にこう記されています。
これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。
まさに、荒野の誘惑で起こったことと同じ出来事がここで起こっているのだということを、ルカは描き出しているのです。人々が求めているのは自分の願いをかなえてくれる救世主の出現なのです。そして、それをかなえてくれるどころか、自分たちを侮辱するようなら消えて欲しいと思ったのです。これが、群衆の心、人々の心です。
傲慢で、自己中心な人々の思いは、神の奇跡も自分に都合の良い出来事としかとらえていないのです。そして、この人々は主イエスの語っている福音の知らせをその耳で聞き取ることはできないのです。この主イエスと人々との対立は、はじめから明確に示されているのです。
主イエスの語る福音ははじめから明確に示されています。貧しい人に良い知らせを伝え、捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを、虐げられている人には自由を与えると主は語っておられるのです。
主イエスは奇跡の御業を否定してはおりません。むしろ、ここで語られているのは神の奇跡の御業そのものです。そこで、求められているのは「主よ、私を憐れんでください」という心なのです。
この言葉を、ラテン語で「キリエ・エレイソン」と言います。主にあわれみを求める心こそが、信仰者の心です。それこそが神の御前にあるべき信仰者の姿です。そして、この姿こそ、ツァレファテのやもめの心の中にも、ナアマン将軍の中にも見出されたものだったのです。
私たちが、主に祈るのであれば、そこで私たちに求められているのはまさにこの「主よ、憐れんでください」と求める心なのです。神が、主なのであって、私たちは主のしもべです。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と私たちも祈るべきなのです。ルカはこの福音書の冒頭に描いたマリアの中に見られた信仰の姿勢こそが、私たちのあるべき姿なのだと言っているのです。
私たちは、毎週主の日に、主の御前に招かれて礼拝をささげます。礼拝の最初に私たちに求められている心は、主に憐れみを求める心です。罪の告白し、主に憐れみを求めることから、礼拝は始まります。そして、主を褒めたたえ、主の御前に立たされていることを覚えながら、主の御言葉を聞くのです。
私たちは主のことばを聞くことから歩みを始めます。神の御心を知ることを通して、私たち自身が誤った道を進みそうになっているその道を軌道修正していただくのです。ですから、み言葉を聞いた者の心の内には悔い改めの心が与えられ、また神への感謝の思いが生まれるのです。これが、私たちの礼拝を、み言葉を中心とするキリスト者の歩みです。
聖書は、この信仰の歩みの道筋を丁寧に私たちに示してくれています。自分を捨てて、自分の願いを捨てて、神の御思いの中に生きる、神の御心を求めて生きる。これが私たちの信仰の道です。この信仰の道は、いつも主の御言葉を聞くところから始まるのです。礼拝の民とされている私たちは、謙遜な思いを持ちながら、主の御言葉に耳を傾け、この主と共に歩んでまいりたいのです。
お祈りをいたします。