・説教 詩篇119篇1-8節「幸いな人」
2021.01.24
鴨下 直樹
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今日から詩篇119篇のみ言葉を丁寧に聞いていきたいと願っています。この詩篇はアルファベットの詩篇となっていまして、アルファベットの頭文字が詩の冒頭に来るように作られています。ヘブル語のアルファベットは22あります。それが八節ずつの区切りで、全部で176節となっている非常に長い詩篇です。
毎回、アルファベットの一つ、つまり8節ずつを取り上げていきたいと思っていますので、単純にこの詩篇のみ言葉をすべて取り扱うには22週間かかるということになります。
今、水曜日に「ざっくり学ぶ聖書入門」という学びをオンラインで公開しています。そこでは一つの書簡を一回で取り上げていますから、同じようにすれば、一度でこの詩篇119篇を取り扱うこともできます。けれども、とても豊かな内容ですので、ぜひ、この機会に丁寧に、詩篇119篇のみ言葉の豊かさを共に味わいたいと願っています。
詩篇119篇全体のテーマは「神の言葉への愛」と言っていいと思います。
神の言葉、神の戒め、律法、色んな言い方ができると思いますが、この詩篇には、この神の言葉である律法のことを、実にさまざまな言葉で言い換えています。
今日の1節から8節の中にも、「道」、「みおしえ」、「さとし」、「戒め」、「仰せ」、「おきて」、「さばき」と七つの言葉で言い換えられていますが、そのすべては、神の言葉、直接的には律法のことを言い換えているのです。これが、この詩篇119篇の特徴です。
その一つ一つの言葉の意味は、少しずつ触れていきたいと思いますが、今日特に覚えたいのは、この最初の言葉です。
幸いなことよ
全き道を行く人々
主のみおしえに歩む人々。
この詩篇は、この冒頭の言葉が176節全体の導入になっています。この詩篇が語ろうとしているのは、詩篇冒頭の1篇の一節にも出てくる「幸いなことよ」で始まっている言葉です。直訳するとすれば「幸いな人だ」ということになります。この詩篇にかぎったことではなくて、聖書全体が人の幸いを語っていると言えます。
こういう人は幸せ者だ! と宣言するのです。それだけ力強く言いうるのは、主は人を幸いにしてくださるお方だからです。主は、私たちに幸せになって欲しいと願っておられるのです。そのお方が私たちの主なる神なのです。
その後にはこう記されています。「全き道を行く人々」と。この世界に完全な道などどこにあるというのでしょうか。私たちは今週、宣教40周年を迎えました。この40年の道のりは決して平坦な道のりではありませんでした。今尚、困難な道を歩み続けています。
けれども、私たちは知っています。自分たちが歩んできた道を振り返ることを。その時、険しかったはずの道が、これが正しい道だったのだという事を後になって私たちは気づかされるのです。私たちの歩む道というのは、何度も道が途切れそうになったり、何度も横道にそれそうになったり、右や左に大きく逸れてしまうようなこともしばしばです。そして、これから歩んでいく道のりもそれは同じことです。歩行者天国のように、整えられて、危険なものが入り込まないような道を私たちは歩んで行けるわけではありません。険しい道です。きつい坂道もあるでしょう。けれども、主が私たちに備えられる道には、その道を進むための「地図とコンパス」が与えられているのです。
それこそが、「主のみおしえ」である神の言葉がもたらすものです。
ドイツのことわざに「木を見て森を見失う」という言葉があります。目の前のものしか見ていないと、その全体像が見えなくなってしまうということです。
そして、私たちはこの森を見失ったまま、目の前の木が美しいだの、これが邪魔だと言うことばかりに思いを向けてしまいやすいのではないでしょうか。
神の言葉は、私たちの人生の指針です。主のみ教えに耳を傾けていくなら、私たちは道を見失うことなく、私たちに与えられている人生の大路を、確信をもって進んで行くことが出来るのです。
続く2節と3節にはこう書かれています。
幸いなことよ
主のさとしを守り
心を尽くして主を求める人々。
まことに 彼らは不正を行わず
主の道を歩みます。
「全き道」はここでは、「主の道」と言い換えられています。この道を歩む人は、主のさとしを守り、心を尽くして主を求めるとあります。
神のことばを自分にさとされている言葉だと受け止めて、心を尽くして主を求める。そういう生き方をする人は不正に、誤った道に走ることはないというのです。
本当に畏れるものは何かが分かる。自分を痛めつけるのでもなく、自分を甘やかすのでもなく、だれか他の人のせいにしながら生きるのでもない。自分が進むべき道は、主の道、ゴールが定まっているのです。自分の人生を主が見ておられることを知っているのです。そういう人は、不正に走るようなことはないのです。
これは、窮屈な生き方になるということとは、真逆のことです。自分が信頼されていることを知っている人は、その期待に応えようとします。そのお方に心を尽くして答えようとするのです。
先週の木曜日、この近くで依存症から立ち直るための活動をしておられるダルクという施設から二人の方が来られて、ご自分の体験を話してくださいました。そのうちの一人の方は、教会をこのように訪問している間に、主と出会って、今洗礼を受けて、教会に集うようになったという話をしてくださいました。
「依存症」というのは、現代の心の病の一つの姿です。そこから抜け出せないで、苦しんでいる方々が多くいます。証しに来られた方々は、そこから何とか脱したいと、家を出て、その施設に身を置くようになって、少しずつみんなで助け合って、依存から抜け出そうとしている方々です。
その方々のお話の後で、M長老が、自分にもそういう弱さがあったという話をされました。そして、自分の力ではなかなか脱出できないけれども、主を信頼すること、主に心を向けることで、そこから自由にされるのだという話をしてくださいました。本当に良い証しだと思います。
主を求める者は、不正を行わず、主の道を歩むというこの御言葉が、証しされていました。
あなたは戒めを仰せつけられました。
それらを堅く守るように。
続く4節にこう記されています。
私たちの人生の道標、コンパスである神の御言葉を堅く守るように。それが、幸いな人生の秘訣なのです。
この祈り手は、この5節で願いの祈りを始めて祈ります。
どうか 私の道が堅くされますように。
あなたのおきてを守るために。
ここには「道が堅くされる」という面白い表現がでてきます。ぬかるんでいる道は確かに歩きにくい。そんなことを連想します。「堅固な道」という翻訳をしているものもあります。現代の私たちは舗装されたアスファルトの道路が一般的ですから、あまりイメージしにくいかもしれません。
今から20年ほど前のことです。マレーネ先生が計画してドイツの教会学校の働きについての研修が行われました。私はその時はじめてドイツに行きました。その時は、この教会の前任の浅野先生や、妻も一緒でした。その研修は2週間のスケジュールで連日、かなりの距離を移動しました。その時、私の旅行ケースは、タイヤのついているものだったのです。ドイツの道は、古い石畳の道がいろんなところにあります。30キロ近くある重い旅行ケースを、何日も何日も石畳の道を引きずっていますので、ある時ついにタイヤが壊れてしまいました。
途中のホームステイ先で、私の壊れた旅行ケースを見た方が、それでは可哀想だと、代わりのカバンをくださったのですが、そのかばんはタイヤがついていないものでした。30キロほどの重たい荷物でしたので、その後の一週間は本当に大変な経験をしました。
もちろん、石畳の道も、堅い道ですから、あまり良いたとえではないのかもしれませんが、旧約聖書の時代の道は、石畳の道さえもほとんどなかったはずですから、柔らかな道というのは大変だったはずです。荷車を引いても、途中で止まってしまうようなこともあったかもしれません。
自分が進んで行く道は堅い道、堅固な道であるというのは、旅慣れた時代であればとても重要な意味を持ったはずです。
どうか 私の道が堅くされますように。
あなたのおきてを守るために。
しっかりとした足取りで歩めますように、主のおきてを守る、神の言葉によって生きるということは、そんな期待が込められていたのです。
そんな歩みができるならば、それは恥とはならず、神の義、神の義しさを知る時、それは心からの感謝となるのですと、続く6節と7節で語っています。それは、この時代に生きた人々の実感であったはずなのです。
そして、最後の言葉はこう結ばれています。
私はあなたのおきてを守ります。
どうか 私を見捨てないでください。
大きな森で迷い込んでしまうことがないように、道がぬかるんですすめなくなることがないように。どうか、私がその人生の道で見捨てられて右や左どこを向いても、行くべき道が分からないというようなことにならないようにと願っているのです。
大きな海を進む小さな船を想像すると、この箇所が語ろうとしていることは明確になってきます。嵐が吹いて、方向が分からなくなってしまう時、どうしたら、正しい目的地に向かうことが出来るのか。
そのために絶対に必要なのは地図とコンパスです。そのように、私たちはこの人生の大海原を、地図とコンパスなしに生き抜くことはできません。まさに、主の言葉は、私たちの道標となり、どこに向かって行くべきかを示すコンパスとなるのです。
私たちが生きていくために必要不可欠なもの、それが聖書です。神のみ言葉です。
私たちはこの神の御言葉を与えられ、この御言葉に耳を傾けて歩むときに、私たちの人生は、幸せな一生となるのです。
お祈りをいたします。