2015 年 12 月 13 日

・説教 ルカの福音書2章1-7節「クリスマスのしるし」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:54

 

2015.12.13

鴨下 直樹

 
 昨日、私たちの教会では二つのクリスマス会が行われました。午前には子どもたちのクリスマス会です。近隣の小学校に案内を配布したこともありまして大勢の子どもたちが集まってくれましたし、教会でやっているハレルヤちびっこクラブという未就園児の子どもたちとそのご両親にも案内をいたしましたので、小さな子どもたちも、親と一緒に教会に集いまして、一緒に楽しい祝いの時を持つことができました。また、午後からは私は行くことができませんでしたけれども、マレーネ先生のお宅でもクリスマスの祝いの時を持ちました。たくさんの讃美歌を歌い、一緒に楽しい時間を持ったのだと思います。そのように、クリスマスには色々な方々をお招きして、一緒にクリスマスの喜びをお祝いいたします。それは、まさに、クリスマスが、神が私たちのところに降りてきてくださって、一緒に生きてくださる、共に歩んでくださることになった記念だからです。ですから、私たちも多くの方々を教会にお招きしまして、できるだけ多くの人たちと一緒に、このクリスマスの本当の意味を味わいながら、一緒に喜ぼうとしているのです。

 けれども、今日の聖書の箇所はルカの福音書の2章1節から7節までのところですけれども、ここに書かれている出来事はクリスマスの物語の一部ですが、ここからあまり嬉しい記事を見つけることはできません。書かれているのは当時のローマ皇帝の命令によって住民登録をするようにという勅令が出たこと、そして、その命令に従って人々はそれぞれ自分の生まれた町に戻るため、住民登録をする旅をしなければならなかったこと、そして、その中で、マリヤとヨセフという夫婦も命令に従いベツレヘムという町まで来たけれども、その旅先で子供が生まれたという出来事が記されています。けれども、その生まれたとき、宿屋には場所がなかったために、飼い葉桶にその子どもを寝かせたと記されています。 物語としてはとてもドラマチックですけれども、現実的に考えてみますととても厳しい出来事が記されています。

 この福音書を記したルカは医者をしていた人物です。ですから、いい加減な記録ではなくて、できるだけ厳密にこの主イエスの出来事を書こうとして、この福音書を書いたとされています。そのルカがここで書いているのは、ローマ皇帝の命令の支配下にあった、一組の夫婦の出来事です。大きな力を持っていたわけではないその夫婦、しかも、妻は出産間近でした。もちろん、今でも出産のために里帰りするということはあります。少し気になってホームページを見てみたのですが、飛行機で帰省する場合、妊婦はJALですと予定日の7日以内の場合は、医師の同伴が必要なのだそうです。ANAの場合は二週間前から医師の同伴が必要と書いてありました。
 もちろん、マリヤとヨセフは飛行機で帰省したわけではありません。陸地を徒歩で、おそらくロバに揺られながら行ったのだろうと考えられます。この当時、ガリラヤのナザレからユダヤのベルレヘムまで、正確に何キロかは分かりませんけれども、地図で直線でも約100キロあります。だいたい4日間くらいの日程だっただろうと考えられているようですけれども、もう、数日後に生まれそうな妊婦であれば、普通連れて行かないだろうと思うのです。いくら相手がローマ帝国であろうと、子どもが生まれそうなので、妻は連れてこられませんでしたと言えば事情を汲んでくれたと思うのです。多くの人が想像するようにおそらくロバに揺られながらの旅です。飛行機とロバの旅と比べる意味はありませんけれども、きっと現代であれば医者を同伴したいようなことであったでしょう。普通に考えれば一緒にはいかないのです。けれども、ヨセフは連れて行った。つまり、妊婦だろうが行かなければならないというほどの拘束力をもった命令であったということになります。今お腹に赤ちゃんのいる方にしてみれば、それだけでもう気分が悪くなってしまうような話です。

 ここに出てきているマリヤとヨセフの夫婦はそのくらい小さな存在であったということを、ルカは書こうとしているわけです。あえてこういう言い方をすることがゆるされるとすれば、「普通の人」だったということなのです。しかも、子どもが生まれそうな時に、部屋にも入れてもらえないくらいの状況がそこにはあったのです。
 今も、東日本大震災で被害にあわれた方で、避難所に生活しておられる方々があります。今年の夏も、私たちの親しくしているS先生ご夫妻は九州の口永良部島の火山の噴火のために一時避難所で生活しておられました。もう、こういう避難しているような状況の時になりますと、どこにももはや場所がないために体育館で子供を産んだというようなニュースが伝えられることがあります。このマリヤとヨセフの赤ちゃんが誕生する瞬間も、まさに、そのような状況だったと想像してくださると、きっと一番しっくりくるのだと思います。泊まれるところにはみんな人がごったがえしていて、子どもを産むためにはさすがに、人の沢山いるところではよくないだろうということで、家畜のいるところにこの二人を案内した。そして、そこで、その夜この夫婦から子どもが生まれたのです。これが、クリスマスの姿です。

 「宿屋には彼らのいる場所はなかった」と短く伝えられているこの聖書の言葉には、人の想像力の余地が沢山残っています。多くの画家たちがキリストの誕生を描いてきました。グリューネヴァルトが描いた、今はフランスのコールマールにありますイーゼンハイムの祭壇画に記されたキリストの降誕の絵は、非常に想像力豊かな絵です。Isenheim Altarpiece (Second view)  Matthias Grünewald マリヤの胸元にいだかれるキリストが右半分に描かれています。背景には町の絵が描かれています。ところが、その残り半分の左側は、そこはまるで王宮かのような華麗な屋敷に天使たちがオーケストラのように楽器を奏でながらその誕生の喜びをほめたたえている絵を描きました。ひょっとするとこのルカの福音書の後半に出てきます、野原で夜番をしていた羊飼いたちに天使たちが現れまして「天には栄光、地に平和」と賛美したその賛美をこの絵のなかで表現しようとしているのかもしれません。グリューネヴァルトの想像はとても豊かです。このお方は本当ならば天においては高らかにほめたたえられるべきお方だと言っているかのようです。

 クリスマスにお生まれになられた御子キリストは、天においては高らかに讃えられるお方です。王宮に生まれて、オーケストラの奏でる音色でおやすみになってもゆるされるようなお方、そのお方が、神の御子です。

しかし、ルカは伝えているのです。「宿屋には彼らのいる場所はなかった」と。一般的に考えても妊婦が長旅をして間もなく子どもが生まれそうだというような状況であれば、誰か親切な人が気付いて場所をつくったでしょう。まして、神の御子がお生まれになるのです。神の御子が、あろうことか、その自分の身分をかなぐり捨てて、人となられた。この神のへりくだった姿が記されているところで、当の人間の世界ではそれどころではなかった。今は忙しくてそれどころではないのですよ、神様だろうが、王様だろうが、そんななりふり構ってなどいられない、今は忙しいのだからと、誰も気にかけることもなく、人知れず神の御子が飼い葉桶に寝かせられている。

 けれども、これこそが、クリスマスのしるしです。飼い葉桶に寝かされている神の御子キリスト、これこそが福音なのです。ここに、神のなりふり構わぬ愛の姿があるのです。なぜ、世界中でこのクリスマスは愛されているのでしょうか。意味の分からない人であったとしても、クリスマスには何かが起こるという小さな期待を持っています。それは、サンタクロースがプレゼントを運んでくるからなのでしょうか。もちろん、そこにもこのクリスマスの福音の一部が反映されています。クリスマスは美味しいケーキが食べられるからでしょうか。クリスマスは街中の飾りが華やかになるからでしょうか。

 聖書のしらせ、飼い葉桶の赤ちゃんというそのクリスマスのしるしは、誰一人としてこのクリスマスを祝う資格がないとは言わないのです。家畜小屋に入るのに誰も入場制限をしないのと同じように、飼い葉桶に寝かされたキリストは、誰をも受け入れてくださるのです。クリスマスにお生まれになられた神の御子キリストは、普通の人として、いや、普通よりも貧しく、誰も拒まないお方としてこの世界にお生まれになられたのです。これこそが、クリスマスのしるしなのです。

 ピーテル・ブリューゲルは「ベツレヘムの人口調査」という絵を描きました。The Census at Bethlehem; Pieter Bruegelこのブリューゲルの描いた絵は、よく見ないとどこにマリヤとヨセフが描かれているのか分からないほど、その時の人々の中に溶け込んで旅をするマリヤとヨセフを描きました。きっと、はじめはそうであったに違いないという思いがこの絵から伝わってきます。ブリューゲルの絵はいつもそうですけれども、どこかにいそうな誰かの姿が描かれています。まるで、自分の町でもあるかのような素朴さがあります。実際、ブリューゲルの生きた町であるネーデルランド、今のベルギーですが、この自分の町を背景にこの出来事を描いています。

 あなたの傍らで、あなたの生活しているその町に、神の御子は生まれてくださった。そのお方は、今、家畜小屋の飼い葉桶に寝ておられる。「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」。
 このお方は、天にお持ちの全てのものを持って、私たちの傍らで生まれてくださったのです。それは、あなたに、わたしたちに、心から祝ってもらいたいからです。ですから、心から喜んだらいいのです。心から、このクリスマスを楽しんだらいいのです。神の御子が、天のみ救いを携えて、私たちのところにきてくださったのですから。

 お祈りをいたしましょう。

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