・説教 ローマ人への手紙12章1-2節「心を新たに」
2022.05.01
鴨下直樹
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この世と調子を合わせてはいけません
この言葉を読むだけで、いろいろと頭の中で思いが浮かんできます。もちろん、パウロがここで言おうとしていることは、それほど難しいことではありません。私たちは、この世に調子を合わせることが、どれだけ信仰の歩みにとって危険を伴っているか理解しているからです。ただ、問題は程度問題です。「どこまでが良くて、どこからがダメなのか」
この基準は、みなそれぞれが心の中に持たなくてはなりません。そして、それがもっとも難しいことです。
現代社会と、聖書の時代とはかなり生活習慣が違います。何十年か前は、クリスチャンはトランプや映画もダメだと考えた時代がありました。特に、「敬虔主義」といいますが、福音派の教会のルーツには、「クリスチャンは敬虔に歩むべきだ」という考え方が強くあったのです。その中には禁酒禁煙というものも含まれています。
みなさんの中の多くの世代の方々は、何度も、その教えを耳にしたことがあると思います。そして、誰かが教会で良くないと言われている行為をすると、こぞってその人を裁くということが起こったのです。
一方で、性的な誘惑に関していうと、現代はさらに誘惑の多い時代になりました。不貞を働くことさえも、罪ではないというような世の中の流れがあるなかで、インターネットやメディアではセクシャルなテーマを扱うコンテンツはすぐに簡単に見つけ出すことができます。
あるいは、もっと進んでLGBTQと言いますがレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、Qはクイアと言って「不思議なとか、風変りな」という意味があるそうです。あるいは、クエスチョニング「性的少数者」のことを含めて、これらの頭文字でLGBTQを認めていこうという流れも出てきています。
「この世と調子をあわせてはいけません」という言葉の中に意味されるものは、実に多くのテーマが含まれています。そして、簡単に白黒つけることの難しいテーマであることを私たちは知っています。
ですから、ここでもそんなに踏み込まないでさらっと「みなさん、分かるでしょ。何がいいたいかは」と言って、次に進むことも簡単にできることですが、やはり避けて通ることのできるテーマとはしないで、考え方は理解できるようにしておくのがよいと私は思います。
私たちは、「この世」に生きています。この世界の外側から眺めているのではなくて、どっぷりとこの世界に浸かって生きています。
ここで「調子をあわせてはいけません」という言葉があります。少しこの言葉のニュアンスを他の聖書の翻訳で掴んでみたいと思います。新共同訳聖書は「この世に倣ってはなりません」となっています。「倣う」「真似をする」と訳しました。また、さらに新しくなった協会共同訳も同じ翻訳です。では岩波訳ではどうなっているかというと「あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない」としました。またカトリックのフランシスコ会訳だと「自分をこの世に同化させてはならない」となっています。
もともとの言葉は簡単に言うと「型にはまる」という意味になります。この世の型にはめられていく姿を、描き出しています。流行を追い求める。それは、現代人の一つの生活の姿です。自分なりにおしゃれをしたい、常に最先端でありたい、時代についていかないとと思っている。気が付くと、世の中の型にはめられてしまっているというのです。
いや、もう私たちはそういう最先端というものからはすでにほど遠い世界に生きているという思いもあるかもしれません。そうであったとして、この世の型というものがやはりそこにも影を落としているのです。
毎日の生活を振り返ってみると、さまざまなテーマがあることに気が付きます。どこの病院がいいのか。どんな薬がいいのか。健康食品はどれがいいのか。便利な車は何か。もう、そういうものから解放されたと思ったとしても、はやりこの世と調子を合わせている自分の姿に気づかされることになります。
問題は、それらの一つ一つは直接的に罪と結びついてはいないということです。けれども、そのようなものを、楽な生活というものを追い求めていく先にキリストの姿は見えてこないのです。
ここまで来ると、この言葉の意味するところが見えてきます。「この世」と「主イエス」を対比させているわけです。キリストのようになろうとしていくのか、この世界と一つになっていこうとしているのかということです。
私たちは、先にあげたこの世のさまざまな姿を考える時に、どこまでがセーフで、どこからがアウトかという考え方についなってしまいがちです。お酒を飲むことは罪か? LGBTQは罪か? いやそれともOKなのか? そうやって、白黒つける生き方を促そうとしているのが聖書ではないのだということを、まず理解していなければなりません。
私たちを救うために、そのいのちを私たちに差し出してくださる主イエス・キリストのように生きようとするときに、周りはどうかと、これはセーフだろうか? アウトだろうか? と考えていくのではなくて、ただひたすらに主を見上げていくことが、ここで求められているのです。
さまざまな価値観を示そうとするこの世に飲み込まれてしまわないためには、キリストを見上げ続けていくことがどうしても必要なのです。
「むしろ心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」と続いて記されています。
「心を新しくする」、以前の翻訳では「心の一新によって自分を変えなさい」となっていました。それが、今度の翻訳では「自分を変えていただきなさい」となりました。
この「心を新たにする」というのはどういうことかというと、続く文章のことを指しています。
そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
神の御心が何かを知って、判断することができるようになるために、心を新たにするのだというのです。けれども、この文章は少しひっかかりを覚えます。「自分を変えていただきなさい」は、前回の訳から大きく変わりました。自分の力で考え方を変えるのではなくて、神が変えてくださるという意味です。ところが、その前の部分の「心を新たにする」のは誰がするのか、という部分がはっきりしてこないのです。
この「心」という言葉は「理性」をも意味する言葉です。岩波訳ではここの部分は「むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって」となっていまして、この刷新するのは「自ら」だと訳を補っています。つまり、私たちを変えてくださるのは主の御業なのですが、心を新たにするのは私たちにかかっているということを、この翻訳は明らかにしようとしているのです。
何が神の御心なのか、何をすると神が喜ばれるのか、完全であることができるのかを、私たち自身で見分ける必要があるというのです。
キリスト者になる前の私たちの歩みというのは、その心はこの世に向いています。今それこそ何が流行っているのか。人々はどんなものに関心があるのか。そういう人々が求めるものを自分も追い求めることで、何か幸せが見つかるのではないか。みんなやっていることに何かあるはずだと思って生きて来たわけです。
ところが、主イエスと出会って、私たちは新しい存在に造り替えられます。いろいろなところに向けられていた心が、一点に定まるようになります。キリストを見上げるようになるのです。それは、神が私たちを造り変えてくださるので、そこは神様にお任せしている部分なのですが、新しくなっても、私たちの心、理性は、私たちがかじ取りをする必要があります。その時に、これまでと同じように人が何をやっているのか、この世の流れに目を向け続けていくと、私たちはさほど変わらない生活を送ることになってしまうのです。
そこで、その心を変える必要が出てくるのです。
神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ここにあるように、そのためには神の御心を知らなければなりません。
かつてアンセルムスという中世の神学者は「信じたのち、知ろうと努めない者は、なまけもののそしりを免れない」と言いました。
神の御心を知るということは、神を知ることと同義です。
そして、宗教改革者カルヴァンは「神を知ることは人間を知ることである。人間を知ることは、神を知ることである。この二つは互いに関連していて切り離すことはできない。どちらが先とも言えないが、しいて言えば、神を知ることから人間を知ることがはじまる」と言いました。
私たちの心と体を神に向けて生きる時、私たちはこの世界の考えに、闇に飲み込まれていくところから、私たち自身を救い出し、神へと、光へと向かう道を進むことになるのです。神を知るためには、み言葉に耳を傾けることです。そして、神に祈ることです。
私たちが変えられていくのは、聖霊によって自動的に、機械的にすべてのことが起こるということではありません。私たちは自ら主を求め、自らみ言葉に耳を傾け、自ら気づき、自ら悔い改め、自ら新しく歩み始めなければならないのです。
自分で理解しなければ、自分で気づかなければ私たち自身の行動は変わらないのです。
ローマ書12章からのテーマは「倫理」だと言います。「倫理」と言われると何のことだか分からなくなるかもしれません。どう生きるのかということです。キリスト者はどう生きるのか。何をどう考えて、どう決断していくのか。そのことを現しているのが、この12章から最後までのところです。
生き方が変わるのは、私たちの価値基準が新しくなるからです。これまで、この世界のニーズを基準に生きて来た私たちは、主イエスと出会って、主の願っておられる価値基準を少しずつ理解していくようになります。そうすると、当然、私たちの生き方は変わっていくのです。
これまで自分の心を満たすために生きて来た人生が、これからは神の必要を満たすために生きるように変わっていくのです。これは、まさに人生180度の大転換です。それこそ、向いていた方向が全く変わります。この世界に生きながら、この世界の人々に神の思いを知らせるために生きるようになるのです。そのためには、私たちは新しい生き方に変わっていくのです。
主によって変えられた私たちは、この世の中にありながら神に向かって、キリストを目指して生きるようになるのです。そして、ここに、私たちキリスト者の生きる理由もあるのです。
お祈りをいたします。