・説教 ローマ人への手紙12章9-21節「愛の姿」
2022.05.22
鴨下直樹
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今日のテーマは「愛」です。
「愛には偽りがあってはなりません」と冒頭の9節に記されています。これまで、私は牧師として、結婚式の司式もしてきました。そこで、新郎と新婦に誓約をしてもらいます。「あなたは病める時も、健やかなるときも、順境の日にも、逆境の日にも、いのちの日の限り彼を、また彼女を愛し、真実と誠を尽くすことを神と証人の前で誓いますか?」と尋ねます。
結婚する時、私たちは主の御前でいのちのかぎり、真実と誠をつくす。そのように愛すると誓うわけです。
愛するというのは、とてつもなく大変なことです。その誓いをして結婚をするのです。けれども、結婚で誓った瞬間から、この約束を守ることがもう難しくなるのです。健やかなとき、順境の時、ものごとがうまくいっているときはまだ何とかなりますが、一度歯車が狂ってくると、どうしても相手を責めたくなる思いが、私たちの心の中には浮かび上がって来てしまいます。別に何か気になることが起こってその理由を知ろうとして相手を責めるのはまだ良いのです。相手を理解しようとする喧嘩はどれだけやってもいいと思います。けれども、そこに偽りが入り込んでしまうのです。隠し事が生まれるのです。問題はその時です。
パウロがここで愛には偽りがあってはならないと言います。この12章の9節以下では兄弟愛のことが語られています。けれども、この兄弟に対する愛の中には当然、夫婦の愛もその中に含まれていると考えていいと思います。パウロはここで愛について語る時に、まずは教会の中の人たちのことを語り始めました。
パウロはこのローマ書の中でこれまで愛を語るときは常に、神からの愛を語ってきました。これを「アガペー」という言葉で表現してきました。見返りを求めない愛です。相手に犠牲を払うという一方的な愛です。それが、神が私たちに示してくださった愛の姿でした。パウロはこの9節で、私たちに向かって、愛とは偽りのないものなのだとまず語りはじめます。この愛とは神が私たちに示してくださったアガペーの愛です。この愛からはじめたのです。そして、その愛を覚えながら兄弟愛のことを語りだしたのです。
もういまから20年くらい前のことでしょうか。TBSテレビで『世界遺産』という番組をやっていました。私がたまたま目にしたのはルーマニアのトランシルバニア地方にある世界遺産のビエルタン要塞教会でした。その時にとても印象深いエピソードが紹介されたので私は思わずメモを取ったほどです。このビエルタン要塞教会というのはお城なのか教会なのか、という少し変わった建物だったのですが、その放送の中でこんな話が紹介されていました。それはこの教会が行った、離婚の調停に訪れる夫婦に対してのエピソードでした。この教会では離婚の調停に訪れた夫婦は調停人と共に一つの家に住むのだそうです。そこで二週間過ごすのですが、夫婦は奥の部屋が与えられるのですが、そこでは一つのベッド、一つの机、一つの椅子、一つのスプーンで生活するというのです。それで、この教会はこれまで300年間離婚する家庭をほとんど生み出さなかったというのです。ほとんどというのは、300年の間一件だけが離婚したとも話していまして、それもまたリアルな姿を表しているとも思いました。
愛することは、犠牲を払うことです。結婚すると、どうしてもギブアンドテイクという関係になってしまいます。自分だけが犠牲を払うのは損だと考えるようになるのです。自分が何かをすれば見返りを求めるのです。けれどもそうなると、その愛は偽りの愛になっていきます。このビエルダン教会は離婚調停の期間の二週間の間、強制的にすべての持ち物を一つにすることで、もう一度愛することは犠牲を払うことなのだということを思い起こさせたのではないかと思うのです。譲り合わないと生活できないのです。
愛することというのは、実際に犠牲をお互いに払い合うことで成り立つ生活なのです。
パウロはまずそのような愛について語りながら、そこで兄弟愛を語るのです。10節です。
兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
ここでは相手が自分よりも優れている者として尊敬すること、という具体的な愛の姿を示しました。私は、これはまさに兄弟愛の秘訣だと言って良いと思います。自分にどんなメリットがあるかというような判断で人を見るのではないのです。この前の説教でも語ったように、人にはさまざまな賜物の違い、能力の違いがあります。それは優劣をつけることのできるものではありません。それぞれが、主の働きのためには必要だと、何よりも主ご自身がそのように見ていてくださるのです。だとしたら、その人には主の目から見ても、素晴らしいものがあるに違いないのですから、私たちの都合や、私たちの損得勘定で人を見るのではなく、その人には優れたところがあることを尊敬する、そういう態度がやはり必要なのです。人間関係の問題は、このことが理解できていたらほとんどのことは大丈夫になるはずなのです。
また、この言葉にはもう一つ面白い理解があります。それは注にあるのですが、「別訳、競い合って尊敬しなさい」となっています。これも、一つの翻訳の可能性として考えられていて、宗教改革者ルターなどは「先んじて」と訳しました。自分の方が相手よりも先に、相手を尊敬するのだというのです。してもらったから、自分もするというのでは、ギブアンドテイクの関係になってしまいます。愛はそうではなく、まず自分から先に相手に対して愛を示す、尊敬を示すのだという理解です。もちろん、これも心意気を表す言葉ではなく、愛の性質を示す言葉です。自分から愛を示す。それが、愛の心です。
この12章の後半は、一つひとつ金言とでも言えるような具体的な愛の言葉が記されています。どれもみんな名言ばかりです。
11節「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」
12節「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」
13節「聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。」
ここに出て来る動詞の言葉一つひとつが、みな愛の姿を示す言葉です。そして、このすべての言葉は人との関わりの中での言葉ばかりです。
愛することは与えること、愛することは人に尽くすこと、その愛は、イエス・キリストがまず、先んじて私たちに示してくださったものなのです。
14節から21節までは、兄弟愛が、教会の中ではなく、外でどのように表されるかが記されています。
14節「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。」
15節「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」
16節「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。」
教会の中だけでなく、外の人に対しても愛をもって接していくのだということが記されています。
この中で特に関心を引くのは18節のみ言葉です。
自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。
これは以前の訳とずいぶん変わりました。以前の第二版はこのようになっていました。「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」
「自分に関する限り」という言葉が今は「できる限り」という翻訳になったのです。以前の訳は「自分に関する限り」なので、自分のことに関しては人と平和を保ちなさいだったのが、今回の訳は「できるなら」という努力目標という訳になりました。これは、新改訳だけではなくて新共同訳でもそのようになっています。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」できればで良いんだけれど、できるだけそうしようねというニュアンスです。
平和を作るというのは、簡単なことではありません。私たちの側から手を差し伸べても、相手がそれを拒絶することはあり得ます。相手の気持ちもありますから、自分だけではどうすることもできない部分があるのです。また、自分の示した愛がなかなか伝わらないということもあるのです。
私が高校生の時のことです。私は高校生の時に、二度停学になったことがあります。一度目は、学校で賭け事をやったのが見つかった時です。もう一度は私が学校で禁止されていたバイクが見つかってしまった時のことです。
父は二度学校に頭をさげに来ました。一度、父が学校に来たときに、間の悪いことに、別の教会に行っていた先輩のクリスチャンが父を見かけて、呼び止めたのです。あの時の父のバツの悪そうな顔を私は忘れることができません。
悪いことをしている時というのは、自分にとっては楽しいことのようでも、家族を悲しませることになるということになかなか気づきません。それでも、子どものために頭を下げに行く親の愛があります。けれども、その親の愛もすぐに子どもの私に伝わったわけではありませんでした。後になって思い出すと、ああ、あの時自分は本当に自分のことしか考えていなかった。それなのに父はそんな私を愛していたんだということに振り返って気が付くわけです。愛が伝わるには、どうしても時間が必要なのです。
それはパウロもそうでした。主イエスの愛に気づかずに、パウロは教会を迫害していたのです。そして、パウロがキリストの愛を受け止めることが出来たのは、もうすでに何人ものキリスト者を投獄した後のことです。
パウロは続けて語ります。19節。
愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。/わたしが報復する。』主はそう言われます。
私たちが何かで被害を被るとき、相手に嫌なことをされるとき、迫害されるとき、苦しめられるとき、何とか愛を示そうと思っても伝わらないまま、嫌な思いをし続けることがあります。愛には時間が必要な部分があるのです。そこで求められるのは自分で復讐しないということです。
ここで言われているのは、主にゆだねるということです。自分でやり返すという考え方を持つならば、そこに愛は生まれません。結局、ギブアンドテイクなのだと、自分で愛することをやめてしまうことになるのです。
ただ、覚えておく必要があるのは、ここで言おうとしているのは徹底的に無抵抗でいなさいということでもないのだと私は思います。キリスト教の考え方の中には「抵抗権」という言葉があります。私たちは「No」を言うことができるのです。自分でやり返すということではなく、このことは私にはできません。悪いことに加担はしません。嫌です、やめてください。そういう自分の思いをはっきりと伝えることまで、教会は禁じているのではないのです。
どうしても、愛することは犠牲を払うこと、という言葉が、愛することイコール我慢をすることという考えに結びついてしまうことがあるのです。
もうずいぶん前のことですけれども、改革派だったかの教会が子どもにアンケートを取ったら、クリスチャンホームの90パーセントの子どもがいじめを経験したことがあると答えたという報告を聞いたことがあります。
もう何十年も前の話ですから、今も同じような状態だとは思いません。けれども、クリちゃんホームの子どもたちが、はっきりとNoと言えなくて我慢を強いられているという可能性はあると思うのです。
現代は、かなりこの辺りのことは改善されてきました。学校でも定期的にアンケートが配られて、子どもたちが見聞きしたことも学校に報告できるようになっています。ただ、だから大丈夫ということではなくて、私たちがつい、クリスチャンは我慢するんだ、それが愛することだと考えているとすれば、それもまた偽りの愛の形になってしまうと思うのです。
ただ、この信頼して待つということと、我慢するということはほとんど同じことですから、そこに難しさが生じてしまうのです。ただ、覚えていただきたいのは、ただ耐えるのではなくて、Noは伝える。そして、愛が届くことを主に委ねて待つこと。ここに信仰が求められるのだと思うのです。そこで求められるのは愛を見る眼差しをもつことです。
愛することは、人との関わりの中で見えてくるものです。そして、それは神とのかかわりの中で培われていくものでもあります。私たちは、なかなか愛を受け取ることがうまくないのかもしれません。愛に気づくのには時間がかかると言いました。どうして時間がかかってしまうのかというと、自分のことでいっぱいいっぱいになってしまっているからです。
愛することは、想像力を持つことだといつもお話ししています。それは、愛を受け取る時も同じです。相手がどんなつもりでそれをしたのか、相手の立場になってみて、はじめてその人の配慮が見えることもあるのです。
神様の愛も同じです。神様が、私たちをどう愛してくださっているのか、なかなか気づかない人がいます。そういう場合は、ぜひ、想像力を働かせてみてください。私たちがあたり前になっていることの一つ一つが本当に当たり前のことなのか、を。
食事がでてくる、部屋がきれいな事、洗濯がしてあること、その当たり前のことの背後に愛があるのと同じように、私たちが生かされていること、私たちの必要が与えられていること、生活が支えられていることにまず目が留まるでしょうか。神が、罪深い私を受け入れてくださっていること、私の罪を赦してくださっていること、私にいろんな場面で助けが与えられていることはなかったでしょうか。
時間がかかっても良いのです。でも、その愛に気づくなら、それは感謝をもって受けとめたらよいのです。
神の愛は、偽りのない愛です。主イエスが示してくださった愛は、私たちに先立って示された一方的な愛です。たくさんの神様から示された愛を受け取るときに、私たちの心の中に愛が満ち溢れるようになって、愛が示されるようになっていくのです。
お祈りをいたします。