2024 年 8 月 11 日

・説教 マルコの福音書2章18-22節「新しい皮袋に」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:56

2024.8.11

内山光生


序論

 7月末から8月1日(木)にかけて、私たち家族は大阪に行きました。一番の目的はUSJに行くことでした。当初から、夏は暑いので覚悟が必要だと思っていましたが、やはり暑かったです。例えば、アトラクションで順番待ちをしている時は、まさに我慢大会のような苦しさがありました。一緒に並んでいる人の顔色を見ると、たいていの人が疲れ果てた雰囲気を醸し出していて、それを見ると更に疲れが出てくるのでした。しかしそれでも、順番がまわってくると、その暑さがいっきにふきとび、思う存分、楽しむことができました。

 いわゆるインバウンドで、大阪の道頓堀周辺は外国人観光客でにぎわっていました。昔、20代の頃、道頓堀を散策した事がありましたが、これほどまでに多くの人が集まっているのは初めての体験でした。

 普段、芥見周辺で過ごしている私にとっては、かなり刺激のある夏季休暇となりました。

I 断食についての質問(18節)

 18節から順番に見ていきます。

 旧約聖書の時代では、しばしばイスラエルの民は断食をしていました。なんのために断食をしたのかというと、「贖罪の日」とよばれている日に、罪を悔い改める行為として、民全体で断食を行ったのです。

 また、イエス様の生きている時代においては、それ以外に、パリサイ人たちや宗教熱心な人々は、週に二度、月曜日と木曜日に断食を行っていました。

 さらにまた、バプテスマのヨハネやその弟子たちは、神のさばきを免れるために断食をして神に祈っていたのです。

 断食をすることは、決して悪いことではありません。しかし、何の目的で断食をするのか、そこはよく考えた方が良いと思うのです。

 バプテスマのヨハネやその弟子たちは、決して、イエス様に敵対している立場ではありませんでした。けれども、イエス様とその弟子たちが取税人たちと一緒に飲み食いしているのを知って、疑問に感じたのです。

 バプテスマのヨハネやその弟子たちは、自分たちが、一生懸命断食をしながら罪のさばきから逃れるために神に祈りをささげていました。一方、イエス様とその弟子たちは、自分たちの行いとは正反対の事をしていました。果たして、イエスというお方は、本当に救い主なのだろうか。そのような疑問が出てきたのです。

 また、イスラエルの人々は、パリサイ人と呼ばれる律法の指導者たちから、週に二度、断食するようにと言われていました。そして、実際にパリサイ人たちは忠実に断食をしていたのです。

 見た目だけで判断すれば、バプテスマのヨハネやその弟子たちやパリサイ人たちの方が、明らかに宗教熱心だと言えるでしょう。

 イエス様の良い評判は、かなり広い地域まで広まっていました。しかし、イエス様とその弟子たちの行動を見て、疑問に思う人たちが現れ、イエス様に直接質問したのです。

 「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」

II 必要な時は断食をするが、今はできない(19~20節)

 19~20節に進みます。

 イエス様は、花婿に付き添う友人によるたとえで説明をしました。当時のユダヤの習慣では、結婚するにあたり、花婿に付き添う友人たちが、花嫁を迎えに行くこととなっていました。そして、花婿と付き添いの友人が一緒にいる間は、花嫁と対面する前のしあわせの時であり、楽しいひと時だったのです。そんな時に、断食をする友人がいたとしたら、それは場違いな事をしていることになります。ですから、ユダヤの結婚式を知っている人にとっては、花婿に付き添う友人たちと花婿が一緒にいる間は、決して、悲しい雰囲気にしてはならないという事は、誰でも理解できたのです。

 ここでのたとえの「花婿」は、イエス様の事を指しています。そして、「友人たち」は弟子たちのことを指しています。つまり、花婿であるイエス様が地上世界で宣教活動をしている今のこの時は、楽しみの時であって、決して、悲しみの象徴である断食をする時ではないと言おうとしているのです。

 しかしながら、断食をすることを完全に否定している訳ではありません。花婿と花婿の友人が離れ離れになれば、友人たちは悲しい気持ちになります。つまり、花婿であるイエス様が十字架の上で死なれ、弟子たちと離ればなれになる時、弟子たちは、自然と悲しい気持ちになり断食をするというのです。

 つまり、イエス様は、決して、断食することを否定しているのではありません。そうではなく、人々が悲しみや苦しみの中にある時、自然に断食するようになると言っているのです。

 私は皆様に断食をしましょうとは言いません。私自身、定期的な断食をしている訳でもありません。しかしそれでも、自分や自分の周りで、とても辛い試練が押し寄せた時などは、自然と食欲がなくなり、結果的には断食のようになってしまうことがあります。あまりにも大きな出来事が起こると、悲しみのあまり食欲がなくなる、そして、精神的にも極限状態に追いやられる。しかし、そういう時にこそ祈れる祈りというものがあるのです。普段の祈りでは、決して出てこないような魂の叫びが出てきて、神様に対していつも以上に熱心に祈る、そしてその後、神が守って下さるという平安で満たされる、そういうことを経験するのです。

III 布切れのたとえ(21節)

 続いて21節に進みます。

 イエス様は、断食についての応答をしつつ、更に、大切なことを二つのたとえで伝えていきます。一つ目は「真新しい布切れと古い衣」のたとえです。

 もう10年以上前の事ですが、当時、自分のはいていたジーンズの膝が破れてしまいました。私は多少の破れなど気にせずに、はき続けていたのですが、私の家内が親切にも、破れている部分に布をあてて直してくれたのです。その時、私は感謝な気持ちがでてきたのですが、同時に、いや、これはもしかして聖書に出てくるあのたとえのようにならないか、と心配したのです。その悪い予感が的中し、せっかく直してもらったジーンズでしたが、またすぐに膝の部分が破れてしまったのです。

 昔の時代からの人々の知恵「真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません」は本当の事なのです。では、このたとえから、イエス様は何を言わんとしているのでしょうか。

 イエス様の時代においては、宗教熱心かどうかを表すためのバロメーターが「断食をしているかどうか」でした。そして、実際、最初の頃のクリスチャンたちも、断食をするという習慣が身についていましたので、クリスチャンになった後も断食をしていたと言われています。

 しかしながら、イエス様が地上世界に来て下さり、十字架の福音が広められた後では、もはや断食をするかどうかなどの見た目によって、宗教熱心かどうかは判断ができないということを言おうとしているのです。イエス様は、断食、それ自体を否定している訳ではありません。しかし、断食をしなければいけない、とも言われず、むしろ、悲しみの時がおとずれたならば、自然と断食をするようになると言っているのです。

 イエス様の教えは「真新しい布切れ」です。だから、「古い衣」である旧約時代の価値観とは調和することができないのです。もしも無理やり調和させようとすれば、余計におかしくなってしまいます。

 旧約時代の教えを大切にしてきた人々は、断食以外にも様々なルールを作り、そして、それを守ってきました。そうすることによって、自分たちが神様に対して忠実であるという事を示そうとしたのです。けれども、イエス様の十字架の福音が伝えられている今は、もはや、そのような行いは必要がなくなりました。ただイエス様を信じる信仰があれば良いのです。その二つの考え方を調和させようとしても、結局は、本来の福音とは異なるものとなってしまう危険があるのです。

Ⅳ皮袋のたとえ(22節)
 続いて22節に進みます。

 二つ目のたとえは「新しいぶどう酒と古い皮袋」です。このたとえも、かなり有名ですのでクリスチャンでない方でも聞いたことがあるかもしれません。

 イエス様の時代においては、ぶどう酒を貯蔵するために皮袋を用いたようです。新しいぶどう酒ができたら、必ず新しい皮袋に入れるのが常識となっていました。どうやら、古い皮袋は柔軟性がなくなっていて、新しいぶどう酒を入れたとしても、そのぶどう酒の発酵する力に耐えることができずに、破裂してしまうというのです。

 説明を聞けば、なるほどそういうことかと納得できる事でしょう。問題なのは、このたとえからイエス様が私たちに何を伝えようとしているかです。

 私たちがイエス・キリストを自分の救い主だと信じる時に、私たちのうちに新しいいのちが与えられます。新しいいのちが与えられたその人は、もはや、古い生き方ができなくなります。イエス様の十字架の贖いによって罪が赦されるだけでなく、罪が清められていくからです。

 いきなり古い生き方が完全に新しい生き方に変わる、そういう事ではありません。みことばと聖霊の助けによって、私たちの心が作り変えられ、行いに変化が起こり始めるという意味です。そのために、私たち自身が神を愛し続ける事が必要なのです。

 ですから、私たちに与えられる「新しいいのち」と「古い生き方」は性質が異なっているゆえに、新しいいのちを与えられた私たちが、古い生き方を続けようとすることは良くないということを言おうとしているのです。

 旧約時代の人々は、断食をすることによって自分が神の前でへりくだっていることを示そうとしました。しかし、新約時代に生きる私たちは、そのような行動によってではなく、イエス様の十字架の贖いのゆえに罪が赦されている事に、感謝をささげることが大切なのです。

 クリスチャンでありながら、何らかの罪を犯す時、その罪意識から逃れようと必死になって償いをしようとする人がおられます。しかし、たとえ何らかの良い行いをしたとしても、その行いがゆえに罪が赦されるということはないのです。古い生き方をしている人間は、そのような過ちをしてしまうのです。

 私たちは皆罪人です。そして、その罪を自分の努力によって解決できる人はどこにも存在しません。だからこそ、イエス様の十字架を仰ぎ見ることが大切なのです。イエス様の十字架を思い描き、この十字架によって自分の罪が赦されていることに確信を持てば良いのです。だから、罪が赦されるために何かの行いをしなければいけない、と思う必要がないのです。また、罪が赦されるためにと、断食をする必要はないのです。断食ではなく十字架によって罪が赦されるからです。
 

まとめ

 今日の箇所は、イエス様を心に迎え入れた時に、新しい生き方が始まることを教えています。私たちがイエス様を信じ受け入れる時、考え方や行動に変化が起こり始めるのです。いきなり、極端に変わるということではありません。もちろん、中にはイエス様を信じた瞬間に、悪い習慣から解放されたという方もおられます。けれども、多くの人々は、毎週毎週の礼拝を通して、あるいは日々の祈りや聖書を読むことを通して、心と行いに変化が起こっていくのです。そして、それは生涯続いていくのです。

 私自身のことを証ししますと、イエス様をはっきりと信じた時から、礼拝のメッセージが心に響くようになりました。それまでは、大人の話として受け止めていたのが、子どもの自分にも語られているということが分かるようになりました。

 また、賛美をささげると、心が喜びで満たされるという感覚がはっきりと分かるようになりました。更には、祈りをささげると、心に平安が与えれるということも味わうようになりました。

 更には、同じクリスチャンの仲間と神様の話をすることが楽しいことだと感じるようになりました。

 これらの変化は、一度に起こったことではなく、色々な段階を経て起こったことです。だから、こうならなければならない、と言っているのではありません。

 新しい生き方というのは、誰かクリスチャンの真似をして外見だけ整えることではありません。新しい生き方は、あくまでも、私たちがイエス様を信じた時に始まる現象であって、神から与えられる恵みなのです。

 お祈りしましょう。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.162 sec. Powered by WordPress ME