2024 年 8 月 4 日

・説教 ルカの福音書13章10-21節「解放の主」

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2024.8.4

鴨下直樹

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 私たちは、毎週、毎週こうして礼拝に集っています。私たちは何を期待して、礼拝に集うのでしょうか。私は名古屋の東海聖書神学塾で毎週礼拝学を教えているのですが、いつもこの問いが頭に浮かんできます。何を期待して礼拝に集うのか? 私たちは神に何を期待しながら毎週こうしてみ前に集っているのでしょうか。

 今日の聖書の箇所で、18年もの間、腰が曲がってしまったまま、安息日に会堂に集い礼拝をささげていたであろう一人の女性の姿を見ることができます。果たして彼女は何を期待して礼拝に集っていたのでしょうか。

 これは、私の想像ですけれども、ひょっとすると彼女は、18年間、自分の体のことではなく、ただ神のみ言葉を聴くことを期待して、来る日も来る日も、会堂で神のみ前に集っていたのではないかと思うのです。この人は、主のみ前に出る喜びを知っていた人ではなかったか。きっとそうであったのではないかと、私には思えるのです。そして、この女の人のことを、見てきた周りの人は、彼女のことをどう思っていたのでしょうか。

 ここで彼女のことを「十八年も病の霊につかれ」と10節に書かれています。この病は、悪霊による働きだというのです。この「病」という言葉はギリシャ語で「アステネイア」という言葉なのですが、この言葉は「病」のほかに「弱さ」という意味もある言葉です。ということは、「病の霊」、というのは「弱さの霊」とも言うことができるわけです。

 そうなると、これはもう立ち所に他人事ではなくなります。自分の「弱さ」に対して悪霊がそこに付け込んでくるというのです。そうなると、私たち自身、実感があるのではないでしょうか。私たちは自分の弱い部分に気づきながらも、同じことで何度も、何度も同じ過ちを犯してしまうことがあるのです。たとえになっているかどうか分かりませんが、私の場合、車でトンネルを走っていると、気がつくといつも速度オーバーをしてしまっています。そのように、ごく日常的に、正しくないと分かっていても同じことを繰り返してしまうのです。そこに、私たちの弱さがあります。今週も愛することができなかった。振り返ってみると今週もまた、この自分の弱さが克服されていない。そんなことを繰り返しながら、礼拝に集うのです。悪に立ち向かう強さがないのです。弱さの霊に支配されているとしかいえない状況は、誰にだってあるのです。そのようにして、もう18年の間、いやそれ以上に礼拝に通い続けている。そうであるとすれば、これはもはや私たち自身の物語です。

 私ごとで恐縮ですが、私自身も腰の骨が曲がってしまっていて、来月手術することになりました。見た目は真っ直ぐに見えても、隠れたところで曲がっているわけです。見えている部分だけではないのです。体はまっすぐかもしれません。けれども、見えないところがまがっている、心が曲がっていく、ずれていってしまう。そうするとまっすぐに伸ばせなくなるのです。まっすぐがどういう状態だったかさえ分からなくなるのかもしれません。そうなると、自分の曲がってしまった弱さ、脆さに悪魔につけ込まれて、何度も同じような過ちを繰り返してしまうという経験を、私たちは繰り返してしまうのです。この、弱さのために、罪のゆえに、曲がってしまったところを持つ私たち。そのような思いを持っている私たちが、毎週礼拝に集ってくるのです。そして、そこで、主イエスは突然私たちに声をかけられる。「あなたの弱さは癒された」「あなたの病は癒された」と宣言してくださるのです。ここにこそ、礼拝に集う私たちの喜びがあるのです。

 ところがです。この主イエスのなさったことに「No!」と言う人たちがいます。「安息日は働いていけないという戒めがある。それを破ってはならん!」と言う人たちがいるのです。しかもそれを言ったのは、毎週この腰のまがった女の人を見ていたはずの会堂司だったというのです。14節にこうあります。

すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」

 「18年もの間、治っていないのだから、何もこの安息日に癒やさなくてもよいではないか。治療をするのは明日でもよいではないか。なぜ、働いてはいけないと言われたこの日に癒やしを行うのか」と言うのです。

 「安息日」というのは今でいう土曜日です。金曜の夕暮れから土曜の日が落ちるまでの時間を聖書では「安息日」と呼んでいます。この安息日は、神が人に安息を与える、憩いを、やすらぎを与える日です。私たちはこの日、労働から、さまざまな束縛から解き放たれて、人も、動物までも、神とともにあって安息することを覚えて喜ぶ日とされています。これが、安息日の心です。

 主イエスはだからこそ、この日、この安息日に癒やしを、弱さから解き放つ御業を行われたのでした。主イエスはこの会堂司に答えてこう言われました。15節、16節です。

しかし、主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」

 主イエスはここで病や弱さに働く霊、サタンから解き放つことが、安息日の神の心ではないかと言うのです。神ご自身が願っておられるのは、束縛から自由になるため、解放されるために、安息日はあるのだと言われるのです。

 神が、安息日の戒めを与えられたのはモーセに与えられた十戒の時です。さらに、最初にこのことが記されているのは、神がこの天地を創造された時にまで遡ります。神はこの天地を創造された時、七日目に休まれました。神は六日間働かれてお休みになられましたが、六日目の最後に創造された人間が、最初にしたのは安息することからはじめたのです。仕事の疲れは人間にはありません。神はここで人にまずはじめに、神と共にくつろいで、神に憩うことを教えられてから、仕事をすることを望まれたわけです。

 まず、神と共に過ごして安息する。さまざまなものから解き放たれて、神と共にあることの喜びを感じる。ここからあなたがたの生活ははじめられる。これが礼拝の心だと言うことができるのです。

 さて、そこで主イエスは18節から神の国の譬え話をなさいました。18節以下です。

そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」

 有名な「からし種のたとえ」です。からし種というのは、漢字で書くと「芥子」、芥の子とも書きます。「芥見教会にいる神の子どもたち」みたいな気がして、私には親近感があるのですが、聖書は残念ながらひらがな表記です。

 この譬え話がこの文脈で描かれているのはどういうことなのでしょうか。私たちは「神の国」と聞くと、どんなイメージを持つでしょうか。英語では「the Kingdom of God」(キングダム・オブ・ゴッド)と書きます。最近、「キングダム」という映画をやっています。先日、家族で見に行ったばかりです。その映画は中国を統一した秦の始皇帝の出来事を舞台にした物語です。「キングダム」というとわたしたちはこのような壮大な「王国」をイメージします。

 これは聖書の時代の人々も同様でした。「神の王国」と言うと、神が支配される壮大な国をイメージしたはずなのです。それなのに、その神の王国は、芥子種、芥の子のような、まさにチリ・アクタに等しい、小さなものにたとえられたのです。神の王国というのは、そんな小さな、からし種のような小さな種のようなところからはじまるというのです。こんな小さな種なのに、それが、どんどん生長し、大きな木になり、空の鳥が枝に巣をつくるほどになる。

 つまり、毎週、毎週、みことばを聞きにくる腰のまがった女性のような、誰の目にもとめられていなかったと思えるような人から、神の国は始められるのだと主イエスは言われたのです。心が弱くて、罪を繰り返してしまうような私たちたちから、神の王国は作り上げられていくのだと、主イエスは言っておられるのです。

 そして、さらに20節と21節では、もう一つの譬え話をなさいました。3サトンの粉に、パン種、イースト菌を入れるとそれが膨れ上がって、パンが焼ける。サトンという単位は13リットルとあります。3サトンは約40リットルのパンです。一体何人ぶんのパンが焼けただろうかと思います。

 昨日も子ども食堂がありまして、メニューに「冷麦」がありました。昨日の人数はいつもより少し少なくて70名弱だったようですが、70名分の冷麦を準備するだけでも置き場がなくて大変でした。昨日、空いている部屋は牧師室くらいしかなくて、牧師室のテーブルの上に冷麦の入った器が並んでいました。パンの話を、冷麦で例えるのには無理がありそうですが、わずかなパン種が働くだけで、莫大な量の人々がその食事にあずかれるのだという話を主イエスはなさったのです。

 小さなものであっても、その影響力は果てしないというわけです。そして、ここで主イエスが言われる、からし種は、まさに「芥見教会に集う神の子どもたち」からはじまって、莫大な影響力を、この地に与えるようになるということです。

 子ども食堂の働きをはじめて半年ほどたちます。プレの食堂も合わせれば昨日でちょうど6回、半年が経ちました。教会の方は10名ほどでしょうか。いつも来られるそれ以外の90名程の参加者は地域の人たちです。広げればまだどれだけでも広げられそうですが、教会の小さな台所のガス台ではこれ以上の食事の提供はできません。はじめはここまでなるとは思ってもみませんでしたが、まさに大きな働きになりました。

 小さな影響力しかない、それも弱さの霊に支配されて、罪を犯してしまう私たちですが、神は、そのような私たちをも用いてくださいます。

 それらはすべて、この礼拝からはじめられるのです。ここでみ言葉に耳を傾け、神の思いを受け止め、神の礼拝を捧げる。祈りを捧げ、賛美を捧げ、神のみ前に感謝を捧げる。そうして、神と共にあることを喜び、憩うことを通して、私たちはこの世界を豊かにするパン種のような役割を果たしているのだと、主イエスは言ってくださるのです。

 それは毎週の礼拝で起こるのです。腰の曲がった人、心の弱さのある人、罪を繰り返しおかしてしまう人、そんな人たちが礼拝に集められてきます。そして、主はそんなからし種のような小さな一人一人に何かを行われる、主の御業を行われる。そして、主は一人を呼んで言われる。「あなたは病から解放されました」「あなたは弱さから解放されました」と。

 主イエスは言われます。「神の王国は、小さな腰の曲がった、心の曲がった弱さのあるあなたから始まるのだ」と。そういう私たちのうちに、主の御業が起こるのです。私たちの主は解放の主です。弱さを解き放つ主、病の霊、弱さの霊から私たちを自由にするのです。そして、さらに言われるのです。「そのあなたから、神の王国は築き上げられるのだ」と。

 お祈りをいたします。

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