2010 年 6 月 6 日

・説教 「心からの言葉」 マタイの福音書5章33-37節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:53

 

鴨下直樹

 今、マタイの福音書の山上の説教から順に御言葉を聞き続けています。主イエスはここで律法学者やパリサイ人にまさる義とは何かということを六つの視点で語っておられます。そして、今日の箇所はその四番目に当たります。殺してはならない、姦淫してはならない、そして離縁に関する教えを語られ、つづいて「偽りの誓いを立ててはならない」という戒めについて語られます。姦淫と離縁というのは、いずれも誓いをするということと深く結びついています。ですから、これに続いて、主イエスがここで誓いについて話されたのは当然の順序であるといえるかもしれません。

 誓いをするということは、私たちの生活を振り返ってみますと、それほど多くないと感じているかもしれません。スポーツを行う前に選手宣誓などということをいたしますし、裁判の場所で誓約するということがすぐに頭にでてくるかもしれませんが、いずれも日常の生活では多くはないと思います。私自身のことを考えてみますと、誓いというのは、大人になってよりも子どもの頃の方がよくしたのではないかと思えるほどです。「指きりげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指きった。」などという誓いを、子どものころ遊びながらよくさせられました。みなさんもそういう経験がおありになるのではないかと思います。先週の説教でも触れましたけれども、結婚式で誓約をいたします。あるいは牧師が就任するときにも誓約をいたしますし、あるいは、会社に入社する時や、何高額な商品を買う時にも誓約書などというものを交わします。そのように考えてみますと、誓約というのは私たちの生活の様々な場面でしていると言えると思います。

 

 ところが、子どもの頃から今日に至るまでそうかもしれませんけれども、私たちは口で誓約するということをそれほど大切に考えていないと言うことができます。政治家たちがすでにそうです。国会で、証人喚問などという場面で誓約をいたしますけれども、誰も事実を証言しているなど思っていません。そのような時の誓約というのは形式上しているだけのことだとどこかで考えているのです。言ってみれば、建前でしていると考えるのです。それは子どものころからそうです。その場を取り繕って指きりをするのですが、約束した通りできるかどうかはその時になってみなければ分からないと考えているのです。

 

 そもそもなぜ誓約などという儀式が生まれたのでしょうか。それは簡単なことです。それは、普段の言葉は信じられないので、自分の言葉は本当であるということを儀式と共におこなうことによって真実味を帯びさせようとしているのです。これは今に始まったことではありませんで、聖書の時代からすでにあったのです。

 その時に持ちだされるのが神です。神に誓いをするということを通して、自分の言葉が真実であると神の名によって証明しようとしたのです。それで、聖書の中にはこの誓いについての様々な言葉が記されています。

 「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」とレビ記19章12節にあります。

 つまり、この誓いをするということは、「主の御名をみだりにとなえてはならない」という十戒の第三の戒めに深く結び付いて語られていることが分かります。そういう理由もあったからでしょうか。誓いをするために神の名を用いることは良くないと考えるようになった人々は、違う形で誓いを立てようと考えます。それで、マタイのこの箇所

に記されているように、天をさして誓う、地を指して誓いをする、あるいは神殿や自分の頭を指して誓うというようなことをする習慣が生まれるようになったのです。

 

 十戒の第三の戒めである「主の名をみだりにとなえてはならない」という戒めを与えられた神、主が願っておられることは、主の御名が崇められるようになることです。ですから、主の民が、私たちの神、主は素晴らしいお方であると主を賛美することを教えることがこの戒めの本来の意味でした。けれども、人々はこの主の意図を理解しないで、自分たちの都合のいいように神の名前を持ち出し、自分は自分の言葉に責任を持つことができないから神さまに登場していただいて、自分の言葉が真実であると保証していただこう、などと考えるようになってしまったのです。けれども、この誤りこそ、主の御名をみだりに唱えることになってしまっていることを私たちは気づかなければなりません。

 このマタイの福音書の23章の16節以下にこのような言葉があります。

 忌まわしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったのなら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』

 ここに記されているのは、当時の人々が誓いというものをどのように受け止めて用いていたのかが語られています。説明する必要もないほど明白に、人々は誓いを守るということを考えないで誓いをしていた、ということが良く分かると思います。この言葉を聞きながら、私たちがしっかりと聞き届けなければならないのは、当時の人々だけがこのようなひどい理解を持っていたということではないということです。私たちも同じなのです。

 私たちは本音と建前の言葉を使い分けているのです。言葉というものはその程度のものだと考えてしまっているのです。ドイツの宣教師が日本で働く時に読むように言われている本があるそうです。それが、カトリックの信仰を持つ作家の土居健郎の「甘えの構造」だとか「表と裏」という書物だと言います。日本人を理解するのに、本音と建前を使い分けることを理解できなければ日本人は理解できないと考えられているのです。それほどまでに、私たちは日常的に、言葉の表と裏の意味を使い分けているということなのかもしれません。そのように、自分の言葉が正直ではないことを棚に上げて、どうしても本当の事と証明したい時にだけ神さまに登場していただこうというのは、主の御名をみだりにとなえること以外の何ものでもないということを心得ておかなければならないのです。

 

 誓いをするのは、何か特別なことを約束する時です。特にそれは契約をする時に行われました。契約というのは、聖書の言葉ではもともとは遺言という意味を持っていました。遺言というのは、全く一方的な契約です。この遺言という意味が、神の契約という場合の意味の中に含まれています。つまり、神が一方的に決めて、その約束を守ってくださるのです。

 ところが、誓いというのはその反対でおこなわれる場合があるのです。特に、神の名を持ちだす誓いというのは、人間が勝手に決めて、その責任を神に押しつけようとしてしまうのです。これこそ主の御名をみだりに唱えることなのです。

 主イエスはここで「天をさして誓ってはいけません。」、「地をさして誓ってもいけません。」、「頭をさして誓ってもいけません。」と言っておられます。けれども、主イエスは誓うこと自体がいけないことだと言っておられると理解してしまうと、私たちはここで主イエスが語ろうとしておられることを聴き逃してしまうことになります。確かに、これまでそのように理解して、誓うことすべてを禁止するという信仰のかたちが生まれたことがありました。けれども、誓うこと自体がいけないのではなく、私たちの語る言葉が真実な言葉、心からの言葉にならないような言葉を語ることを戒めておられるのです。

 

 ですから、主イエスはこう言われます。「だから、あなたがたは『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」心からの言葉を語りなさい。いつも自分の語る言葉に誠実でありなさいと言っておられるのです。

 ある牧師はこのところの解説としてこういうことを言いました。私たちは、自分にとって都合のよいことを言う時に、それを誇張して「みんな」「いつも」「誰もが」「絶対」「当たり前」という言葉を使ったりしているのではないか。それも同じことではないかと書いておられます。そのような嘘を語るつもりはなくても、誰もがそのようにしていると語ることによって、自分の意見を正当化しようとする言葉の不誠実さがあるのではないか。それも同じことではないかと問うています。私たちはこのことを自分のこととして、しっかり聴き取らなければならないと思うのです。そのような日常の小さな言葉でさえ、真実ではないのです。日常の会話と言い換えてもいいかもしれません。日常の言葉において、真実であるようにする。毎日、正しい言葉を使って生きる。それが、私たちが真実に生きるということです。

 

 昨日もここでぶどうの木という俳句の句会が行われました。そこで私は短い話をするのですけれども、昨日は加藤常昭先生が書かれた「文学としての説教」という書物の中の言葉から少し紹介いたしました。この書物は牧師にとって大変厳しい問いの前に立たされる書物です。この本で加藤先生が問題にしていることは、言葉が届かないということです。今の社会というのは真実の言葉、心からの言葉が届かないというのです。加藤先生はこの書物の中で、あるドイツ人の説教者の言葉を紹介しながらこう語っています。真実の言葉である神の言葉が、人の心に届くまでの間に深い裂け目があるというのです。そして、人間が、この嘘の言葉に支配された人が、真の言葉である神の言葉を正しく語り得るのか、と真剣に問うているのです。この深淵の裂け目に橋を架けることができるのかと。そこで、このドイツの説教者は、自分にはできないということをわきまえていながらも、神にはできると信じるところにのみ、その道は開かれると語っています。そこに、言葉が届く道が開かれるというのです。

 主イエスはご自分の言葉が真実な言葉となるために、神が語られた約束、遺言の言葉をすべて果たしてくださいました。一方的に、この神の約束が果たされるようにと、その言葉のとおり生きて下さいました。そして、その先に、死と復活があったのです。だとすれば、私たちはどれほど自らの言葉に真実でなければならないかということになります。

 

  けれども、主イエスがここで語ろうとしておられるのは、どうもそういうことだけではないようなのです。先ほどの加藤常昭先生がこの聖書のところから説教しておられるのですが、そこでパウロがこの言葉をどう理解していたかがカギなのではないかと言ってパウロの言葉を紹介しています。パウロの誓い言葉です。コリント人への手紙第二の1章でマケドニヤを通ってからコリントを訪れたいと願っていたのだけれども、訪れることが出来なかった時のことをこう述べています。

 そういうわけですから、この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう。それとも、私の計画は人間的な計画であって、私にとっては『しかり、しかり。』は同時に、『否、否。』なのでしょうか。  (17節)

と17節で語っています。パウロはこのコリントの教会とこの手紙を書いた時に、少し難しい関係になっていたようです。その理由の一つは、コリントに寄ると言いながら訪れることができなかったからです。コリントの人々はパウロは「行く、行く」と言いながらちっとも来ないじゃないかと避難されたのです。そんな軽率な言葉を語るような者のことは当てになどできん、というのです。そこで加藤先生はこう語っています。こういう苦しさは私たちも良く分かるのではないかと。始めはお互いに何の悪意もない。ただちょっとした油断、疲れ、病気などから約束を守れない事が起こる。その人にしてあげるべきことをおろそかにしてしまう。そして、誤解が生じ和解の道が狭くなってしまう。夫婦の愛が崩れるのもたいていそういう経路を辿る。友情もまたそのようにして壊れる。そして、一度誤解が生まれるとそれは解きようがなくなる。それぞれ自分の方が正当だという思いがあるからなおさらで、そのためにいつまでも辛い思いをすることになるのではないか、とこの牧師は語ります。

 けれども、パウロがここで語っているのは、自分の言葉は常に真実だとパウロは理解しているというのです。それが、ここでパウロが続けて語った言葉にあらわされています。

 しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私のことばは、『しかり。』と言って、同時に『否。』と言うようなものではありません。 (18節)

と18節で語っています。パウロはここで誓っています。「神の真実にかけて言います」と誓っているのです。なぜ、こんなことが言えるのか。それは、自分の真実にかけて誓うのではない。パウロはここで「神の真実にかけて言う」と言うのは、自分の真実、不真実を超える神の世界があるからだ、とここで加藤先生は語っているのです。私たちには希望はないけれども、神には望みがあるのだということです。言葉が届かなくなった人との間に出来た大きな裂け目を、この神が橋をかけて下さるのだとパウロは信じていたのです。そして、ここに私たちの慰めもまたあるのです。

 

 先程少し語りましたけれども、私たちの不真実な言葉、死んでしまうような言葉が、この神によって真実なものになると私たちは信じることができるのです。私たちが結婚式で誓いをするとき、あれは間違ったことをしたのではありません。私のような不真実なものが、この神の前で死ぬ時に、神は私に、神の真実を与えて下さるのです。それができるのはだた神のみです。それは、牧師が語る毎週の説教でも同じことが言えるのです。私たち、人間の意味の無い言葉、真実と言いきれない言葉の中に、神が働いてくださるならば、生きた言葉になるのです。だから、私たちが言葉を語るときには、そう信じて心から言葉を語るのです。そして、そのような言葉は、必ず人の心に届く。神が届かせてくださるのです。そして、それが神の約束でもあります。

 

 私たちの信じる神は、言葉の神です。生ける命の言葉を与えることのできる真の神です。真実な神です。もし、この世界にうその言葉しかないならば、誰が言葉を信頼して使うことができるでしょう。もし、この世界に、人間の言葉しかないなら、それはいつも疑いながら、どこかで裏切られることを覚悟しながら語りあわなければなりません。しかし、真実な神の言葉がある、真実なまことの言葉があると分かるとき、私たちは、言葉に望みを持つことができるのです。自らの言葉にも、他の人の言葉にもです。そして、それは真実な言葉の神である、私たちの主なる神、主イエス・キリストによって示された言葉があるから持つことのできる確かさです。この言葉が、私たちに与えられたのです。この言葉によって、私たちは生かされたのです。ゆえに、私たちはこの方の言葉を信じるのです。私たちの生活の土台は、この真実な言葉をもって語りかけてくださる神の上に建て上げられるのです。

 

 お祈りをいたします。

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