2010 年 6 月 13 日

・説教 「神の愛に生きる」 マタイの福音書5章38-48節

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鴨下直樹

 先ほど、司式者が読まれた聖書の言葉を皆さんはどのようにお聴きになられたでしょうか。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」と、私たちはここでいくつものよく知られた主の言葉を聴きました。しかし、私たちはこのような御言葉を聞くと、自分にはここで語られているようなことはできない、できるはずがない、と読むのが普通であろうと思います。私たちはこの聖書の御言葉を耳にする時、耳をおおいたくなるのです。それほどに、現実離れしているように思える言葉が、ここに続けざまに記されていると思うのです。

 山上の説教はどこの箇所も、このように一見、実行不可能と思えるような言葉が続いて語られています。そして、ここにきて、それが頂点に達したような厳しさで語られていることに私たちは戸惑うのです。そこで今朝は、一度で聞くには内容の多いところではありますけれども、少しづつ順に今日語られている主の言葉に耳を傾けていきたいと思います。

 

 「目には目で、歯には歯で」という言葉が最初に出てきます。これは、聖書以外にも記されている戒めの言葉です。ハムラビ法典という名前で知られるこの戒めは、イスラエルだけにとどまらずバビロン周辺の古代民族が共通して持っていた考え方であったと言われています。この戒めは「同態復讐法」として知られています。これは古代社会の知恵であったということができます。それは、相手に復讐する時には、同じだけの復讐に留めよということでした。目を奪われたのであれば、命まで奪わなければ気がすまないというように、人は徹底的な復讐を考えてしまいますが、この戒めは、目を奪われたのであれば目だけ、歯であれば歯だけ、と同じだけで止めておきなさいというそれ以上の復讐を超えることを禁じる戒めです。ところが、この戒めは間違えて理解されることが多いようです。一般に「目には目、歯には歯を」という言葉が使われる場合、「やられたらやり返せ」という意味だけが理解されてしまっているのです。このように理解されてしまうところ、すでに人間は過剰に復讐してしまいやすいということが明らかになっているとさえ言えます。しかし、ここでイエスは復讐ということに関して四つの言葉を持って、古代の理解をも超えた理解を語りました。

 その最初に挙げられているのが、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」という39節の言葉です。やられたらどこまでも満足するまで報復しようと考えるところを、主イエスは、その気持ちを抑えるだけでなく、かえってそれを上回りなさいということを語られました。これは、その後に続く「下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」や「一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」という言葉の中にもあらわれています。

 出エジプト記の22章26、27節にこのような言葉があります。

 もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。 (26、27節)

 質に上着を取った場合でも夜には返しなさいと言われているほど、上着はこの時代大切な物であることが分かります。上着を無くしてしまうと眠ることができないというのです。それほどに大切なものでさえ、あげなさいと主イエスは言われるのです。

 あるいはその後に続きます「一ミリオン行けと強いる」というのはどういう事かと言いますと、必ずそこで出てくる説明があります。この「強いる」と言う言葉はペルシャ語から来た言葉なのだそうです。このペルシャというの国の郵便制度というのは非常に整っていたことが知られています。けれども、何かの事情で届ける人や早馬に支障がでると、誰であっても、誰の馬であってもそのために徴収してかまわないとされていました。それが「強いる」と言うことです。そのために郵便物を届けざるを得なくなった人は、ここで自分の立場や都合というものが全く無視されてしまいます。それが、支配される国の人に起こる悲しみです。権力のゆえに自分の都合が無視されて、「強いて」一ミリオン行けと言われるのです。当時はローマに支配されておりましたから、ローマ人からも同じように求められるようなことがあったわけです。けれども、そのような中で主イエスは二ミリオン行ったらよいではないかと言われたのです。

 あるいは、四つ目に記されているのは「求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」と42節にあります。これは、当時何かを借りた場合、七年ごとの安息年や、五十年おきにくるヨベルの年と呼ばれる時にはすべての借金を帳消しにするという戒めがありました。そのために、その年が近づいてくると、貸す方としてはすぐに帳消しにされてしまうので貸し渋るわけです。貸しても損をしてしまうと分かっているから仕方ないと思われるかもしれませんけれども、主イエスはこれも、損をしたとしても貸してやったらいいではないかと言われます。

 右の頬を殴られた、左の頬も向ける。また、上着をも与えてしまう。一ミリオン強いられたら二ミリオン行く、損をしてでも貸してやったら良いというようなここで主イエスが語っておられるのはどういうことなのでしょうか。

 私たちは誰でもそうですけれども、殴られたり、損をするということを好みません。自分の自由が奪われるということはなおさらです。しかし、主イエスはここで、自分が損をすると思っていても、不愉快だと感じても、そこを一歩踏み出したらよいではないかと言っておられるのです。自分を守ること、損をしないこと、失わない事に心を向けながら生きているかもしれないけれども、そこから出て、相手の求めることに踏み出して行く時に、そこで相手の心を捕えることが起こるのではないか。それが愛ではないかと主イエスはここで語ろうとしておられるのです。

 

 主イエスは、律法学者、パリサイ人にまさる義を示すために、さまざまなことをお語りになっておられますが、ここに来て主イエスがお語りになろうとしておられることがだんだんと明らかになってきるのです。つまり、義というのは、自分がそれを達成できるといって満足するようなところにあるのではなくて、相手のところに飛び込んでいくこと、まさに、愛するということに生きることこそが義なのだ、神が求めておられることなのだと主イエスは語っておられるのです。

 私たちは、ここで語られていることが、こんなことはできないと思う、ここで語られていることをいちいち真面目にやろうとしていたのでは自分が損をして仕方ないではないか。相手を付けあがらせることになるのではないかと考えてしまいます。しかし、主イエスはここで、その思いを超えたところで伝わるのが愛ではないのか、と言っておられるのです。

 

 しかし、同時にここで注意していただきたいと思うのです。聖書がそう言っているから、主イエスが言われるならと嫌々に我慢を重ねながらすることに意味はありません。

 私が神学生の時のことです。ある講義を教えていてくださった改革派教会の牧師がこういう話をしてくださいました。それは、クリスチャンホームの家庭の子どもが全国的にいじめにあいやすいというデーターがあるということでした。私にとってそれはショックなことでしたが、良く分かるのです。その時、ちょうど教会で二人の小学六年生の子どもと信仰の学びを始めていたのですが、その二人ともが学校でいじめにあっているということで悩んでいたのです。その原因は実に簡単なことでした。教会学校で子どもたちに御言葉を語る教師が、簡単に、隣人を赦しましょうと語るからだったのです。教師が聖書に記されていることをそのまま語ることは簡単なことです。けれども、それを聴く者は、特に子どもは聴いたことを大人以上に必死にしようとするのです。それは子どもの性質です。そして、学校で怒ってはいけないのだ、やり返してはいけないのだとじっと耐えるのです。すると、そこで何が起こるかと言うと、子どものいじめはそこからエスカレートするということです。反抗しない、その子がやり返さないので、面白がって、どんどんとひどいことをするようになるのです。

 こういうことは、この聖書の御言葉が正しく理解されていないために起こってしまうことです。特に子どもに語る教師は、そのことを良く心に覚えなければならないと思います。もちろん、気をつけなければならないのは教会学校の教師だけの話ではないのです。ただ我慢をする。耐えていれば道が開けるというものでもないのです。

 アメリカで黒人の自由のために戦ったマルティン・ルーサーキングJrという牧師がおりました。この人は、非暴力という戦いをした牧師でしたけれども、彼は、自分たちのしていることは無抵抗なのではない、非暴力という名の抵抗なのだと言いました。キング牧師は罪に対しては明白に戦うという自覚を持っているのです。そして、神が正しい、義であると言っておられる愛とは何かを示し続けたのです。ここで私たちが覚えなければならないことは、悪とは戦いという明確な立場をとることです。ただ、我慢し続けていればいいというようなことではないのです。私たちがそこで問われていることは一つのことです。それは、自分を傷つけるような相手であったとしても、それでも愛することができるかということです。自分を傷つけるような相手であったとしても、我慢しながらじっと耐えるということではなくて、どのようにすることが、その人を愛することになるかということです。

 

 それで、主イエスは最後のところでこのことを問われたのです。

 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 (43、44節

 主イエスは、正しい義とは何かを語る最後のところで、自分の敵を愛しなさいと語られました。神の前に義であるとは、愛に生きることなのだとお語りくださったのです。

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われていた」と43節にあります。隣人というのはこの場合、ユダヤの人々のことでしょう。周りの国の人々というのは異教の神々を信じる国ですから、彼らは敵であって、憎むべき対象というように長い間理解されてきました。すると、今、この時にイスラエルの地域一体を支配していたのはローマ人です。ですからユダヤ人たちはローマ人たちを憎んでいましたし、一ミリオン行けと言われれば、それは大変な屈辱と考えていたのです。けれども、主イエスはここでそのような敵とみなしているような相手であっても愛するのだと言われました。

 始めの部分でもお話しましたが、自分の思いを超えて、損をするというような思いを超えて、犠牲を払うことの中に愛があるのだということを主イエスは語ろうとしておられます。しかし、ここでも問題となっているのは、自分の権利が侵されたということです。敵というのは、そもそも自分の権利を侵す存在です。自分の自由を奪うのです。それは、誰もが屈辱的なことと考えます。それを乗り越えるということは簡単なことではありません。

 

 芥見教会の前任の浅野直樹先生と以前お話しをしていた時に、先生ご夫妻が結婚を決心した時に、この聖書の箇所を読んで結婚をしようと決意したということを聞きました。「あなたの敵を愛しなさい。」この聖書の言葉が、結婚を決意させた御言葉であったというのです。私は驚きました。愛するというのは、お互いの違いを乗り越えて、敵と思えるような事態になったとしても、神が愛するようにと願っておられる以上、それを成し遂げさせてくださると神を信じる道がここに開かれるのではないかと言うのです。大変驚いたのですが、私はこの牧師の言葉を今でも忘れることができません。それは、夫婦の間で、一キロスーパーまで買い物に行ってくれと言われたら、喜んで二キロ行くというところで表される愛がそこにあるということなのだと思うのです。

 私たちは愛するというのは感情的なものであると考えてしまいがちです。好きという気持ちがどこかから働いていることを愛するということだと考えてしまいます。けれども、それは多かれ少なかれ、そのような愛は自分の利益と深く結びついています。利害に関係なく好きということもあると思いますけれども、それもやはり感情に支配されているということでしかありません。けれども、ここで主イエスが語ろうとしておられる愛は、そのような自分の感情や損得を超えた愛です。自分が好ましいと思えるものだけを愛するというのは確かに心地良いことです。けれども、そのような愛に生きることを主イエスが語っておられるのではないのです。そのような愛に留まることに主イエスは意味を見出しておられないのです。たとえ相手が自分を傷つける相手であろうとも、敵であろうとも、自分が損をしているという思いを乗り越えさせて働く所に愛があるのだということを、ここで主イエス御自身が何よりも私たちに教えてくださっているのです。

 それで、そのことをお語りになるために主イエスは「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」と語られます。ここで語られているのは、すべて天の下に生きている者は、神がお造りになられた者だということです。悪者も、良い者も、天の父は同じように雨を降らせておられる。神の恵みが与えられるのは、神ご自身、神を信じて敬う者に留まっていないのだということです。神ご自身でさえ、神を呪い、逆らい、神と敵対するような者をも、神は恵みを与え、この神の愛に気づくようにと招き続けているのだから、どうして、神を信じ、神の求める義に生きようと志す者が、神と違うことができるだろうかということをここで語っておられるのです。

 それで、最後の言葉に「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」と言われているのです。この主イエスの話の順序がどれほど大切かということをここで私たちは教えられます。この言葉だけ取り出して、「天の父は完全なのだから、あなたがたも完全でありなさい。」と聞き取ろうとすると、そんな神の完全を不完全な人間が持てるはずがないということになってしまいます。ここで主が言われる完全というのはどのような意味においてなのでしょうか。

 完全と言う言葉は、目的とか、目標と言う言葉から出来た言葉です。つまり、神の目的にかなうもの、神が人間を創造された時のようであるということです。それは一言で言ってしまうと、神を愛し、隣人を愛するということと言えるかもしれません。神は人間をご自身のかたちに創造されたのですから、わたしたちはこの完全さを手にすることができるのです。それは、神との関係を回復し、隣人との関係が回復することです。ここで言う隣人というのは、敵をも含む私たちの世界に生きているあらゆる人を愛して生きるということです。

 主はここで、神はあなたにもう一度神が創造された時のような、完全な者として生きることができるようにと私たちを招いていてくださるというのです。神の愛の中に生きる時に、神のように愛することができるからです。

 

 私たちは誰かを愛するという時に、理由もなしに人を愛することができません。自分の中に愛することのできる力もなしに犠牲を払うことなどできません。私たちはそれほどに、損をすることを嫌がっているからです。それを乗り越えよと言われても、その力が湧いてこないのです。主イエスはそのような私たちに向かって、あなたは神を愛する者として造られている。いや、造られているだけでなく、あなたにもこの神の愛が注がれている。あなたにも、あなたの周りの人にも天の父が同じように雨を降らせてくださっているでしょう。そこからすでに分かるでしょうと言われるのです。いや、雨どころではない、わたしが、主イエスがあなたのために生まれたではないか。主イエスによって、あなたに愛が示されているではないか、とこの神の愛の事実に気づくように促しておられるのです。

 この主イエスの愛、神の愛に立つときに、私たちはこの方の願う生き方、このお方の目的にかなった生き方、それが完全と言われるならば、そのような完全な生き方をすることができるようになるのです。これは、主イエスが語っておられる義なのです。これが、神との関係に生き、隣人との関係の中で生きるという義なのです。

 

 「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とここで語られているように、まず祈ることから始めてみたらよいのです。それがどのようにこの愛に生きるかということの一つの答えです。敵といっても、さまざまな人との関係があります。夫婦の心が通い合わなくなって敵となるということだってあるでしょう。家族が敵となることだってあるでしょう。言葉が届かなくなっている人は、私たちの周りに意外に大勢いるのではないかと思います。その人たちのために祈る。あの人もまた、神の愛のもとに生きることができるようにと。きっとその時、この私たちを造られた神、主が、自分が傷つけられたとか、悲しかったとかいう思いを乗り越えさせてくださることでしょう。そして、やがてはそのような人々をも愛することができる者へと、私たちを神の完全へと、このお方は造り変えてくださることでしょう。

 

 そのように信じてお祈りをいたしましょう。

 

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