2010 年 6 月 20 日

・説教 「施しの心」 マタイの福音書6章1-4節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:19

鴨下直樹

 今週の月曜日から、長野県の御代田で私たちの教団の牧師の修養会が行われます。今年のテーマは「休息」です。牧師たちが集まり、四日間にわたって「休息」について考えるというのもどうなのかという気がいたしますけれども、その修養会の中で「働きと休息」というテーマで一度聖書からの考察をしてほしいという依頼を受けました。それで、先週はこの説教の準備をするとともに、「休息」ということを考えながら御言葉から聞き続けておりました。そうすると、どうしても考えざるを得ないのは、なぜ「休息」というテーマを選んだのかということです。その一つの大きな意味の一つは間違いなく、牧師たちがゆっくり休むことができないという考えがあるのではないかと思わざるを得ません。

 けれども、ゆっくる休むことができないというのは、牧師たちだけのことではありません。むしろ、様々な仕事をしておられる方々の方が、本当に忙しく働いておられるのではないかと思います。私たちは誰もがそうですけれども、この「忙しい」という言葉を好んで使います。「忙しいから出来ない、無理」というようなことを言うことが、現代の口癖になっていると言っても言い過ぎではありません。そうすると、そこでどうしても「休息」ということともに考えざるを得ないのは、今日の聖書の御言葉です。

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」という言葉が今日私たちに与えられているのです。私たちが「忙しい」という言葉を使う時、それは、人前で自分は立派な人間なのだと見せている、アピールしているのではないのかと考えざるを得ないのです。もちろん、いつも遅くまで働きながら、夜遅く帰らなければならないというのは忙しいことだと思います。けれども同時に、「忙しい、忙しい」と口に出してしまう時に、ここで問われているような誘惑が常にあるのではないかと思うのです。そうすると、「休息」というテーマで何か豊かな学びの時間を持ちたいと思っている牧師たちには大変迷惑な話かもしれませんけれども、どうしても、そのようにアピールしなければならない私を含めた牧師の心の問題も同時に取り扱わなければならないのではないかという気がしてならないのです。

 

 このマタイの福音書の6章は、特に山上の説教の中心的な主題を取り扱う箇所です。この6章の1節から18節がこの山上の説教の中心であるということができると思います。そのまた中心に記されているのが、「主の祈り」です。そして、ここで主の祈りを語る前後に記されているのが、施しと祈り、そして断食です。当時のユダヤ人たちはこの三つによって神への信仰の具体的な姿が表されると考えていました。

 この冒頭の1節は、1節から18節までの全体の内容を言い表しているところでもあります。新改訳聖書では「善行」という言葉が使われておりますけれども、これはもともとも言葉では「自分の義」という意味の言葉です。ですから、新共同訳聖書などでも「自分の義」と訳されています。「自分の義」ということが何を指すのか分かりにくいのではないかと考えて「善行」としたのにも意味はあると思いますけれども、当時のユダヤ人たちは、施し、祈り、断食を通して、自分の義、自分の義さを示そうとしていたということです。このような行いを人に示すことによって、自分は偉い、立派であるということを人に示そうとしたというのです。ですから、さきほど言ったように、「忙しい、忙しい」と自分の生活を人に語ることによって自分の生き方を示そうというのは、ここで語られている「自分の義を人前で示す」ことになるのではないかということをよく心に留めなければならないのではないかと思うのです。

 

 「義」というのは、何度も説明しておりますけれども、何よりもまず神と私たちの関係のことをあらわす言葉です。ですから、ここで主イエスが問題としておられるのは、この義を人に見せるということは、神をごまかしていることになるのだということです。それで、この1節の後半に「そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」と語っておられるのです。そして、私たちはこの義を、施しや祈り、そして断食といった、本来神への応答としてなされるものが、自分を誇るためになされている。そのような信仰な行為さえも神の義を軽んじる行為となるのだ、ということをこのところで問いかけておられるのです。

 

 主イエスは私たちがこのような過ちを犯しやすいことをここで戒めておられるのです。ではなぜ私たちはこのように、人前に自分の義を誇ってしまうのでしょうか。そのことを理解するうえでも、最初に記されていることが「施し」とされていることをよく考えてみる必要があると思います。

 「施し」という言葉は、実は「憐み」と言う言葉と同じ言葉です。興味深いことですけれども、この時代のギリシャやローマという国では、貧しい人に施しをするという言葉そのものがありませんでした。言葉がないということがどういうことかというと、誰もそのような言葉を用いる必要が無かったということです。つまり、誰にも貧しい者に施しをするという習慣はなかったのです。それで、憐みとか同情を意味する言葉を、愛の行為を示す言葉として使うようになったのです。そう考えてみれば、この時代のユダヤ人というのは、いかに愛の行為ということにおいて進んだ考え方を持っていたということが分かります。けれども、それだからといって、ユダヤ人たちはギリシャやローマ人に比べればはるかに愛の行為に進んでいたのだ、と言って手放しにほめたたえるわけにはいかないのです。

 ある人が、この施しが始まったのは、犠牲という習慣がなくなってからできた習慣であると説明しています。この犠牲というのは、神への犠牲の礼拝のことです。旧約聖書の礼拝の中に何度となくこの犠牲の礼拝について語られていますけれども、次第にこの犠牲の礼拝は神に負担を負わせることなっていきます。例えば詩篇51篇に「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」と16節、17節にありますように、神が求めているのは犠牲という儀式なのではなくて、心であるということが次第に言われるようになりました。それで、犠牲の礼拝というのは次第に行われなくなっていきます。そして、これに代わる行為として施しが行われるようになったのです。

 考えてみますと、憐みというのは神そのものを示します。神が私たちの砕かれた心をご覧になって、憐みを与えてくださる。この神の前に心を注ぎだす行為が犠牲でした。ですから、それにならって施しをするようになったということは、この神が示してくださった憐みの心を人に示そうということが本来の姿でした。その時に施しとして用いられたものは、本来、神に捧げられていたものだったのです。

 ところが、そのような憐みの行為としての施し、神が憐れんでくださったことへの感謝の思いがいつのまにか、貧しい人を施している自分の心の寛大さに入れ替わってしまっているのだとすれば、それは、神のものを盗んで自分のものとしてしまうということになります。神の心を欺いて自分の義のための行為、自分が立派な人物なのだと誇るための行為になってしまうのです。ですから、主イエスは、そのような施しはすでにもうこの地で報いを受けてしまっているではないか、と言われるのです。

 

 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 (2節)

 ここで「偽善者」という言葉が使われています。よく説明されることですけれども、この「偽善者」とい言葉は、俳優とか役者という意味の言葉です。もちろん、役者と言うのは偽善者であるなどというようなことを言おうとしているのではありません。これは、人に見られることを仕事にしている人を表していました。そこから、人に見せるために善を行うという、偽善者という意味に用いられるようになったのです。

 「自分の前でラッパを吹いてはいけません。」という言葉も、ユダヤの会堂において献金を捧げた人があまりにも巨額の金額を捧げた場合は、祭司のもとに呼び出されたり、ラッパを吹いて皆に知らせるようなことがあったのではないかと考えられています。そのように、人の前に自分の施しの行為、愛の行為が、施しをした人に注目が集まるような仕方でなされていたのです。

 しかし、主イエスはここで「右の手のしていることを左の手にも知らせるな」と語っておられます。ここで語られていることを簡単に言うと、自分自身にも知らせるなということです。それはこういうことです。自分の善行、良い行いというのを人に知らせようとするだけではなくて、自分自身をも偽っているのではないかということを問題にしておられるのです。自分で自分を偽っていないかというのは、非常に厳しい問いです。誰かが「あなたは立派だ」などと言ってくれれば、私たちはおそらく誰だって嬉しい気持ちになるでしょう。そうやって人に評価されることに慣れてしまっている間に、自分自身の気持ちにも気がつかなくなるのではないか、自分はこれでいいのだ、みんなだって認めてくれているのだからと考えてしまうことがあるのではないかということです。そして、私たちが「忙しい」という言葉を使いながら生活している間に、それをしてしまっているのではないか、と自分自身に問わなければならないのです。

 

 私たちは人のしていることを「あの人はいつも忙しい忙しいと言っているけれども、この間だって暇そうにしていた。」などと言うことは簡単なことです。しかし、人の前にも自分自身にも偽りを言わないで生きるということは簡単なことではありません。時々私自身考えることがあります。それは非常に子どもっぽい想像なのですけれども、自分が天国に行った時に弟子たちにお会いする。あるいは歴史の中で信仰の戦いに生きた人々とお会いする。それはひとつの楽しみみたいなものですけれども、そういう信仰の先輩方に天国でお会いした時に、「君は実にのんびりと伝道していたねぇ、それなのに忙しい忙しいなどと言って。」と叱られてしまわないだろうかなどと考えてしまうことがあるのです。 もちろん、そんな意地悪なことが起こるのではないだろうということは分かりますが、自分自身しか知らない主への誠実さというものがやはり怠慢であると思わざるを得なくなるのです。

 まして、ここで問題とされているのは施しです。愛の業です。神に捧げられるべきものをもって、人に捧げるというところでそれを結局自分のものとしてしまっているのではないか。しかし、だとしたらどういうことになるのでしょうか。私たちがここで考えなければならないのは、結局のところ自分を殺して、もっと一心不乱に愛の業に励まなければならないということなのでしょうか。私たちはここで立ち止まってよく考えてみなければなりません。

 「施し」というのは、考えてみますと、どうしてもしなければならないものという性質のものではありません。先ほども少し説明しましたけれども、ギリシャやローマではそういう習慣すら最初は無かったのです。あるいは、旧約聖書の時代においても、犠牲が無くなった時に施しという行為が生まれました。施しというのは憐みの心からなされるものです。神が私たちを憐れんでくださっていることの喜びが、心の中に溢れて来て始めて行動となって表れるのが施しです。

 それなのに、その根本的なところを忘れて、牧師という仕事は忙しく演じているものらしい、だから、それらしく見えるために忙しいふりをするというようなことはまるで本末転倒になってしまいます。忙しいから奉仕できないのです、などと言わなければおられない心の中に起こっていることも本質的には同じことです。しかしここで間違えてはならないのは、ちゃんとやっていればそれでいいというようなことではないのです。

 神が私たちの心を動かしてくださるのです。神が、この人を愛したい、この人のために何かをしたいという心に私たちを動かされるのです。そのようにして愛の行為、施しにしろ、奉仕にせよ、私たちの生活そのものがそのような神への応答としてなされて行くものなのです。そして、それは、神ご自身だけが知っていてくだされば良いことであって、人に示す必要もなければ、誇るようなものでもないのです。

 ですから、主イエスはここで「あなたの施しが隠れているためです。」と言われるのです。

 問題は私たちが愛の行為に励む時に、どこかで自分はこんなにやっているのだということを知らせたい心があることです。もし誰かが誇ろうものなら、自分だってと言いたくなってしまう性質がここにはあるのです。手ごたえが欲しいと考えてしまうのです。自分だって認められたいと考えてしまうのです。

 主イエスはここでこう言っておられます。「隠れたところで見ておられるあなたの父」と。この言葉は意地悪な言葉では決してありません。神は私たちの行動をいつも隠れて監視しておられるというようなことではないのです。この言葉は、神が私たちの誰にも報われることのないようなその小さな愛の行動でさえ、ちゃんと見ていてくださいますという慰めです。だから、安心したらいいと主は言われるのです。

 竹森満佐一という牧師がおりました。この牧師は説教するときに実に様々な話をされるのですが、宗教改革者カルヴァン以外の名前を説教で上げることはほとんどありません。それほどに、このカルヴァンの信仰に生きた牧師でした。この牧師が特に大事にしているのが、カルヴァンが非常に大切にした「コーラム・デオ」という言葉です。「神のみまえで」という言葉です。この牧師はこの山上の説教の説教集も出しておられるのですけれども、そこでも、やはり大切なことはカルヴァンが大事にしたこの「神のみまえで」という信仰に生きることだと言いました。

 この竹森牧師は「神の前に生きるということの中に、まことの生活がある」と言いました。神の前に生きることが嘘の無い生活を生きることになるというのです。この「コーラム・デオ」というのは、以前、この牧師は別のところで「神の顔の前で」ということだと説明したことがあります。神の顔の前で生きるということだと。いつも自分の生活を神の顔の前に置くことだと。もちろん簡単なことではないのです。私たちは、神の顔の前に自分の生活が晒されていると考えるだけでも、自由を奪われてしまうと感じてしまうかもしれません。しかしいずれにせよ、私たちが認識していようとしていまいと、神は私たちと共に生きてくださっているのです。だからこそ、この主の憐みと助けを期待しながら生きることが、私たちの生活を本当は自由にすることになるのです。そして同時に、神の前にそのような私たちの日ごとの生活の罪もまた告白し続けながら、神の赦しを体験し続けていくことです。

 私たちを見ていてくださる主は、私たちの生活をご覧になって、報いを与えたいと願っていてくださるお方なのです。神は、私たちを祝福したいと考えていてくださるのです。ここに、私たちの支えがあります。このお方は、私たちをさばき、懲らしめ、自由を奪うために共に生きてくださろうとしているのではないのです。だからこそ、この神の御前で生きることが私たちの幸いとなるのです。

 そして、私たちがこの神の顔の前で安心して生活できるところには、きっと、いつでもまことの休息もあるのです。自分を心からさらけ出すことができるからです。私たちの罪をもさらけ出すことができる自由を得ることができるならば、私たちはこのお方の前で、本当の慰めと、憩いをも見出すことができることでしょう。

 

 お祈りをいたします。 

 

 

 

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