・説教 「情欲と信仰?」 マタイの福音書5章27-32節
鴨下直樹
椎名麟三というプロテスタントの信仰を持った作家がおりました。最近では、残念ながらこの人の本はあまり読まれなくなってしまいましたが、この作家の作品は沢山の大切なことを私たちの心に問いかけてきます。この椎名麟三の代表的な作品に、「私の聖書物語り」というものがあります。自分が聖書を読みながら、どのようにして信仰を持つようになったのか、その格闘が記されている、言ってみれば信仰の証しとも言える小さな書物です。
この人は、この本の始めの方で、自分は信仰の門をたたこうとして聖書を読んだ、そして、読めば読むほど、その門の堅さを知るばかりであった。と言って一つの聖書の箇所を取り上げています。それが、この「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」という箇所です。そこに小さなエピソードが記されています。戦争の直前のことです。この人はある会社で事務員として働いていました。そこに、痩せた男まさりの女の上司がいました。特にこの人に異性を感じることはなかったといいます。ところがある日、この女性が椅子にのって天井に近い棚から荷物を降ろそうとしていた時に、椅子が動いたため倒れそうになった。それで、あわててこの人の腕を支えた。その瞬間思いがけなく、この人に女を感じた。この本にはこう記してあります。『どうもなかったですか。』と尋ねた私の心臓は、残念なことにドキドキ音を立てていたのである、と。そして、このような経験からこの作家は語るのです。男にとってある人を女として見るのは、情欲を抱くということと、言葉の深いところでは同じ意味なのだと。だから、ここで主イエスが言われる命令は、人間の限界を超えた要求なのであって、人間をやめろと言われているようなものだ。これが罪だというのであれば、もはや笑うしかないと。そして、こんな説明をしています。それは、「なに、飛べない?そんなら君は地獄行きだ。」と言われているようなものだと、この椎名麟三は思ったと言うのです。そこにさらに、こう書いています。百歩譲って、その罪はどうしても私に責任があるというならば、私を飛べない人間に造った神に責任があるのではないのか。これが、キリスト教の門をくぐろうとした時の、最初の門の堅さであったと書いているのです。
この椎名麟三の持った問いは、恐らく多くの人々の心の中にある声を雄弁に語っていると言えます。「情欲を抱いて女を見る者は既に姦淫を犯したのだ」と言われても、そんなことできっこないと思うのです。
けれども、もしそうだとすると、もし、私たちにそのようなことが出来ないと思うのだとしたら、そこで私たちは立ち止まって考えてみなければなりません。なぜ、できもしないと思えることを主イエスはここでこれほど丁寧に語っておられるのかということを。
今日、私たちに与えられているのは、「姦淫してはならない」という十戒の第七の戒めの言葉です。そして続いて離婚についての戒めが語られています。
この「姦淫してはならない」という戒めほど、今日、軽く扱われているものはありません。特にこの日本に置いて、性産業がもてはやされています。既婚者であろうと、独身者であろうと、この国にはこの性の誘惑が満ち溢れています。そして、性が解放されているというような錯覚を起こさせています。もはやフリーセックスは当たり前のことだと一方では考えられているのです。ところがその一方で、同じ問題で、公の人々、教師だの公務員だの、いわゆる聖職者とよばれる人々の不祥事と称してマスコミはこれを興味本位に報じています。インターネットでニュースがながれるようになってからというもの、このようなニュースばかりが目につくといっていいほどの報道ぶりです。
私たちの生きている社会は不思議なもので、この「姦淫してはならない」ということに関して、自分には非常に甘く、他人には非常に厳しいという態度でいることがここからも良く分かると思います。性はこの世界に開かれている、自由だなどと一方では言いながら、本当は良くない事だということを、誰もがもう一方では認めているのです。
先日も、家庭集会でこの「姦淫してはならない」という戒めを学びました。そこに来られた求道中の方からこういう問いが出ました。こういうことを教会で教えると、教会の教えは現実にあわない、即していないと言って、誰も教会に来なくなってしまうのではないかと言うのです。誰も聞きたくないようなことを、教会であまり語らない方がいいのではないかという心配は良く分かります。誰も喜んで耳の痛い話を聞きに来る人はいません。口やかましいと思われるだけで、マイナスのイメージにしかならないということです。けれども、同時に、人間の聞きたいことだけを語ることが良いことなのかということを、私自身自分にいつも問い続けています。
一昨日も、名古屋の神学校で教えておりまして、思わず、ガラテヤ人への手紙1章10節を読みました。こう言う言葉です。
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
私はこの言葉を神学生になって説教をするようになってから、必ず説教の準備の前に読んだ聖書の言葉です。昨日も神学生たちにこの御言葉を語りました。私たちは、そんな厳しいことを語ったら人から聞いて貰えないなどと考えて、その話を避けるわけにはいかないのです。ですから、このように聖書を順番に説いて行く講解説教というのは、その意味でも大事なことと言えます。時には語りにくいことであったとしても、主イエスが語ろうとしておられることは、しっかりと向き合って語り、また、聴き取らなければなりません。
さて、「姦淫してはならない」という戒めですが、厳密に聖書の言葉の意味を考えると、結婚している夫婦の関係を破壊してはならないという戒めです。ですから、この戒めは独身者のことを語っているわけではありませんでした。申命記の22章にこの戒めの詳細が記されておりますが、未婚の女性と性的な関係を持った場合は、妻にすればそれで終わりです。そこには、異邦人や奴隷が相手であった場合のことについては触れられてもいませんから、それほど厳しい戒めであったとは言えません。けれども反対に、結婚している相手と関係をもつならば、両方とも死ななければならないという厳しいものでした。ですから、この戒めを通して分かることは、「姦淫してはならない」という戒めの基本的な意味は、夫婦の関係を犯してはならないということだということが分かります。ところが、そうすると、人間は誰でもそうですが、では夫婦でなければいいのだと考える。おそらく、今何人かの方が考えたようにです。 そして、そこから様々な罪が生まれてきたのです。そして、特に、旧約の時代というのは、一夫多妻という考えがありましたから、問題があるのであれば妻の数さえ増やせばいいとなりますし、また、気にいらなくなれば離婚すればいいと考えたわけです。
けれども問題は、この時、人の心の中に何が起こっているのかということが問題なのです。つまり、性の営みが自分の都合で行われ、それを自分の心の中で正当化することさえできれば、罪悪感もなしに、どれだけでもそういう関係をもつことができるということです。これは、この聖書の時代から今日にまで続いている人間の非常に都合のよい考え方です。つまり、そこには、男が悪いとか女はいいとかいうことではなかったということです。誰もが、自分の一時的な性的満足を得るために、自分を正当化しながら過ちを犯すのです。
主イエスはそのことをよくご存じでした。だから、ここでこの「姦淫してはならない」という戒めが引き起こす人間の罪を明らかにするために、主イエスはこう言われたのです。
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 (28節)
そうです。椎名麟三が言うように、誰もが、この罪を犯すのです。ここに私たちの罪の姿、私たちの心の中が語られているからです。
ここで主イエスは、続いてこのように語られています。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。 (29、30節)
この言葉につまずかない人が果たしていると言えるでしょうか。私が青年の時代、ずいぶんこの言葉に悩みました。真剣に目をえぐり出さなければならないのだろうかと思いました。自分の中にあるそのような性的な欲求をどうしたら抑えることができるのかとよく考えました。考えに、考えて、そうして自分に出来ることは、ただそういう自分に絶望するしかないのです。
当時のユダヤ人の中にも、主イエスがここで語られたことと同じような考えを持つ人々がおりました。この人々は、「血を流しているパリサイ人」などと呼ばれていました。というのは、女の人を見たら罪を犯すことになるので、罪を犯さないようにするためには目をつぶるしかない。見ないことにすればいいと考えたのです。それで、いつも目をつぶって歩いていますので、転んだり、壁にぶつかったりして、いつも血を流していたというのです。だから、こういう名前がついたということなのです。滑稽なことですけれども、その真剣さは心に残ります。右目が誘惑をもたらすなら、右目を取りだしてしまう。ならば、次は左目をも取り去らなければならなくなり、ついには心を取りださなければならなくなる。これは、自分の純潔を守ろうとするということですけれども、守ること、防御することにしかなりません。しかし、それでは何の解決にもなりません。
私たちは考えなければなりません。そもそも、そのような性的な欲求を持つことは罪なのかどうかということです。このことが明らかでないために、私たちはこの事が分かりにくくなっているのです。一つの例を上げて考えてみたいと思います。「食欲」です。食欲それ自体は罪ではありません。そのことは、誰でも簡単に理解できます。けれども、何か、病気のために食事制限がされていたりすると、その食べ物を口に入れる時に罪悪感を感じます。してはいけないと医者に言われている事をするからです。そして、この問題はそれと似ています。性的な欲求があること自体が罪ではないのです。けれども、自分の欲望が人の結婚を犯してしまう、人の生き方を奪ってしまうことになるから、そのことがいけないことだとここで主イエスは語っておられるのです。
ここで問われていることは、性とはどういう性質があるかということではなくて、愛とは何かということが問われているのです。けれども、私たちはこのような言葉を耳にすると、表面的な所だけで考えてしまって、なかなか主イエスが語ろうとしておられる意味を聴き取ることができないのです。
この「情欲を抱いて女を見る者は」というところに出て来ている「女」と言う言葉ですが、もともとは「妻」という意味の言葉です。妻と訳すか女と訳すべきかということで様々な議論があります。それで、新共同訳聖書ではこのところが「他人の妻」と訳されています。これは、ここで問われていることが直接的には夫婦の関係のことが語られているからです。けれども、「女」と訳すのは、先ほども申し上げたように、私たちには結婚していなければいいのだという安易な考えになってしまうので、そのことも踏まえて「女」と訳したということも言えるわけです。
「姦淫」という言葉はドイツ語でEhebruchと言います。夫婦を破壊すると書くのです。自分の欲望のために、人の領域に、夫婦の関係に踏み込んでしまうことを問題にしているのです。そして、このことは、実際に姦淫を行っていなくても、心の中で思うならば同じことだと主イエスは言っておられるのです。
しかし、ならばどうして、主イエスはここでそれほど厳しく、心の中で考えただけでも罪を犯したことになるのだと言っておられるのでしょうか。なぜ、このことが罪なのでしょうか。
昨年、二組の方がここで結婚式を挙げました。その時に誓約をしました。「病のときも、健やかな時も堅く節操を守って愛するか」と問います。それは、夫婦がお互いにいたわり、支えあい、大切にしつつこの愛を貫き通すことが、人間の関係の基本だと神が考えておられるからです。神は、どんなことがあっても、夫婦は愛を貫きとおすもので、それが人間関係、あるいは人との関係の基礎になるのだと語っておられるのです。
ですから、当然のように、この後の31節から続く離婚の問題もそれと同じ理由で語られていることが分かります。
また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。 (31節)
もう、妻にしておきたくないと思ったら離婚状を書いて渡せばそれで良かったのです。申命記24章の1節にこういう御言葉があります。
人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。
昨年の夏にもこの御言葉を紹介しましたから覚えておられる方も多いと思います。その時にも言ったのですけれども、パリサイ人の中でも、恥ずべきことというのはこの後でも語られている「不貞を働くこと」つまり、「姦淫の罪」と理解したシャンマイ派に対して、ヒルレル派は「何か恥ずべきこと」という言葉を非常に広く解釈されまして、お皿を割っただけでも、誰かと長話をしただけでも、「恥ずべきこと」に値するとして離縁をすることができると理解しました。当然、一般の人々は楽な戒めを喜んで用いますから、このヒルレル派の考えが広く受け入れられて、誰でも簡単に離縁をすることができたのです。けれども、主イエスはここではっきりと、自分の身勝手で離縁をすることは許されないのだと宣言なさったのです。もしも、そのような理由で簡単に離縁をしてしまえば、そこでもまた、神が愛して支えあうのだと言っておられる神の心に反して、他のところでもまた、この夫婦の関係を破壊することが起こってしまう。他の人をもこの罪に巻きこんでしまうことになるのだと、主イエスはここで語っておられるのです。
それほどまでにはっきりと主イエスは夫婦のあり方を、愛するということを重んじておられるのです。それは、誰かが踏み込んでいいものではない。誰かに壊されていいものではない。そのようなものを、本当に自分勝手な思いで壊してはならないのだと主イエスは言っておられるのです。これは既婚者や独身者ということに関わりません。独身だから良いのだとか、心の中で考えているだけだから良いということではないのです。愛するということで語られている他の人との正しい関係が、自分勝手な思いから破壊されてはならないのです。ですから、これは情欲の問題ではないのです。信仰の問題です。愛することを土台とした人間の根本的な生き方の問題なのです。
今日は教会の暦で三位一体祭という祝いの日です。教会は長い間、夫婦の愛の関係を、この三位一体の神が持っておられる愛の関係に言い表してきました。夫と妻が結ばれ一つになる。これは単に肉体的な結びつきのことを言っているのではなくて、実質的に一つになるのだということを表しています。そして、そのモデルとして三位一体の神がお互いに持っておられる交わりのことを思い起こさせるのです。神が、父と子と聖霊において完全に一つになっておられるように、夫と妻と神が共に一つとなって生きる姿が、この神の性質をもっともよく表わしていると説明されます。ここに、神が画いておられる完成された神と人との関係があります。この完全な関係の状態、まさに三位一体の神のような関係のことを、義と聖書は言っています。そして、この義を神は私たちに与えようとしてくださっているのです。それが、本来の夫婦の関係です。神との関係です。ここに本来の人間が持つべき関係が語られているのです。この豊かな関係を私たちは自分本位な考えで破壊することは許されません。心の中でそのくらいはいいだろうと安易に考えることも同じことなのです。ここに、愛の交わりがあるからです。そして、この三位一体の神は、御自身が持っておられる愛の交わりと、義とを私たちに下さるのです。その時、私たちは心の中に情欲を抱えた自分が救われるということを経験するのです。罪を持っている私たちが、この神によって、この三位一体の神の交わりに加え、私たちを救ってくださるのです。夫と妻と神、ここに私たちは私たちが完全に救われた姿を見出すことができるのです。
この愛に生きるのです。三位一体の愛の中にこそ、私たちの真実の生きる姿があるのです。
お祈りをいたします。