2010 年 5 月 23 日

・説教 「怒りを捨てて」 マタイの福音書5章21-26節

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鴨下直樹

 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 (21節)

 律法学者とパリサイ人にまさる義を語るために、主イエスはこの21節から六つのテーマでお語りになります。その最初に記されているのが、「殺してはならない」という戒めです。そして来週は「姦淫してはならない」という戒めについて順に学ぶことになります。つまり、ここでは十戒の後半部分、隣人を愛するという戒めの部分を、主イエスが語りなおしておられることが分かります。

 昨日も古川さんの家庭で家庭集会が行われました。そこで今、十戒を学んでいます。先日は第七の戒めである「姦淫してはならない」という戒めを学びました。ですからちょうどひと月前は、この「殺してはならない」という第六の戒めを学んだのです。その時すでに語ったのですけれども、この殺してはならないという戒めを積極的に言い換えるとするならば、「生きよ」ということです。神は、この戒めを通して人が神に与えられた生活を喜び、生き生きと生きることを願っていてくださるのです。けれども、そのような生活を奪い去ってしまうような、人を殺すということが起こってしまうようになってしまいました。その理由は、色々と考えられると思いますが、その背後にある根本的な理由は怒りです。憤りです。神が生きて欲しいと願っておられるのに、自らの怒りを正当化するあまりに殺人が行われてしまうのです。

 毎日のようにさまざまな殺人のニュースを私たちは新聞や、テレビで見ます。あるいは、ドラマでも日常的に人が殺されている。けれども私たちはどこかで思うのです。こういうことは、よほど怒りが積もった人が起こしたり、環境が悪い人がすることであって、自分はどこかで別の世界に生きていると。それはそうだと思います。ここに来られている方々は、世の中から見れば立派に生きておられる方々だと思います。そして、こうして教会に来ているのですから、そんな人殺し、殺人というような事とは距離を置いて生きているに違いないのです。ですから「人を殺してはならない」という戒めは、それほど厳しい戒めだとは考えないと思いますし、むしろ、当然のことと考えられると思います。

 それは、当時でもそうだったと思います。昔の人はよく人殺しをしたということではなかったと思います。これは興味深いことですけれども、この戒めは次第に少しづつ変わっていったのです。それが、この最初の言葉に表されています。

 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。21節の御言葉です。

 これは、聖書に記されている言葉そのままではないのです。律法の解釈の言葉です。それで、主イエスは「昔の人々に言われたのを聞いている」とお語りになりました。聖書の言葉がどのように変わったのかと言いますと、「人を殺す者はさばきを受けなければならない」という言葉が追加されたのです。

 これには色々な背景を考えることができます。もっとも簡単な想像ですけれども、こういうことです。何でもいい何かの必要が生じたために一つ決まりごとをつくります。そうすると必ずその決まりを守らない人がでてきます。守る人と、守らない人がでてくると秩序が保てなくなりますから、守らなかった人には罰則をもうけるわけです。そうすることによって、決まりを守るようにしようとしたのです。これは、人間が生み出した知恵ですが、罰則をつくり出した時点で、この決まりの意味の半分は失われてしまいます。というのは罰則が設けられた時点で、罰を受けないようにしていればいいと考えるために、その決まりごとの意図が、本来の意味が分からなくなってしまうのです。

 これも少し前のことになりますけれども、「人を殺してはならない」という事を子どもに説明できる大人が少なくなってきたなどということが言われるようになりました。そして、様々事件が起こる時に、これを逆手にとりまして、殺人を犯した者が「なぜ人を殺してはいかないのか」と問うのです。つい先日もそのようなことがニュースで報じられたばかりです。人は生きるために存在しているという当たり前のことが分からなくなっているのです。神と共に生き、その生活を喜ぶとともに、人と共に生きることが喜びであるということが、もはやこの世界は分からなくなってしまっているのです。自分の人生が喜びによって基礎づけられていることが信じられなくなっているのです。そのような原因は、この神の意図を忘れて、罰則をもうけ、自分は決まりを守っているから正しいのだ、大丈夫だという安易な考えが支配してしまったために起こってしまっているのです。

 

 ですから、主イエスはこの21節に引き続いて

 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

と22節に語られています。

 ここで主イエスは、殺していないからいいなどということにはならない。兄弟を悪く思うだけで、それはもう裁きの対象であるということをはっきりと宣言なさったのです。

 私が子どもの時の事です。私は五人兄弟の上から二番目に生まれた長男です。兄弟が五人もいますので喧嘩は日常的です。姉は早くから悟りを開きまして、兄弟の喧嘩に介入しようものなら「お姉さんなんだから」と母親のとばっちりを受けるので全く介入しません。そうすると、長男の私が自分に都合のいいように他の兄弟を誘導するわけですが、その意図に気づかれますと、弟や妹たちは反旗を翻すわけです。そうすると、必ず出て来る言葉が『お兄ちゃんのバカ』という言葉です。そうすると、私は得意になって「聖書には『兄弟に向かってバカ者と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれる」と言っては兄弟を脅したものです。子どもにとって、この新改訳の「ゲヘナ」という言葉は非常に心惹かれる言葉でした。意味が分からないのです。意味が分からないから、これは何かものすごく恐ろしい世界なのだろうと想像しながら、好んでこの言葉を使ったものです。新共同訳では「火の地獄」となっています。火の地獄などと言われてしまうと、もう何だか決まりきった日本の地獄のイメージが出てきてしまいますけれども、ゲヘナという言葉の響きがまだ何とも恐ろしく感じたものです。もちろん、こんな説明は学問的でもなんでもないわけで、全くの私の主観でしかありません。ついでに説明しておきますと、この「ゲヘナ」というのは、エルサレムの南西にあるヒノムの谷というのがありまして、そこはゴミ捨て場、あるいは動物や罪人の死骸の焼却場のことで、その場所がまるで地獄の火のように常に燃え盛っているので、しだいに、このゲヘナと言う言葉が恐ろしい裁きを表す時の言葉になったのだそうです。

 しかし、真面目にここでお語りになられた主イエスの言葉の意味を考えてみますと、子どもが兄弟に得意になって話せるような気軽な話ではありません。主イエスが、人々に、私たちに語っておられる大真面目な話です。腹を立てることも、「能なし」と言うことも、「ばか者」と言うことも、人を殺すことと同じだと言われているのです。そして、それらの言葉に共通しているのは怒りです。憤りです。そのような怒りを持っていること自体が、神の裁きの対象だと言っておられるわけで、私たちはこの言葉をよくよくしっかりと聞きとらなければなりません。というのは、私たちが怒る時、憤る時というのは、自分が正しいという思いでいる時だからです。兄弟げんかで、弟が「お兄ちゃんバカ」という時でさえ、そこには怒りがあり、自分には自分なりの言い分があるのです。けれども、主イエスはここで、そのように自分が正しいという思いで相手を判断しているならば、その相手が何かの罰を受けるべきだと考えてしまうのです。そうして、その人が喜んで生きて欲しいと願っておられる神の心を見失うことになってしまっていることに気づかなければならないのです。

 

 さらに、注意深く読んでみますと、22節の「兄弟に向かって腹を立てる者は」というところに、新改訳聖書は注がついておりまして、欄外に、別訳としてこう記されています。「『理由なくして』という言葉を挿入するものがある」とあります。

 今私は名古屋にあります神学校、東海聖書神学塾で新約聖書緒論という授業を教えております。そのなかで、聖書の本文(ほんもん)がどのように確定されていくかということを丁寧に教えるのです。というのは、聖書が印刷されるようになったのは宗教改革の時代に、グーテンベルグの印刷機が発明されてからのことですから、その前の時代の聖書というのは、手で書き写してきました。これを写本というのすけれども、聖書のオリジナルというものは見つかっておりませんから、このいくつかの写本を検討しながら本文を確定していくわけです。そうすると、写本というのはいくつかのグループが存在することが分かってきます。聖書に書き込まれている内容が少しつづ異なるのです。誰かが書き損じたりしますと、そのまま次に写本する人は間違えたまま書き残していく。あるいは、誰かからあの時はこうだったというような更に詳しい説明などを聞きますと、自分の聖書に書き加えます。そうすると、書き加えたものがそのまま後世に残っていくのです。そういう写本の歴史を学ぶわけです。今日の聖書の箇所で言いますと、この「理由なしに」という言葉がどこかからか書き加えられたのです。そして、この加えられた言葉はかなりの広範囲で残っていて、しかも無視することができないほどの聖書の写本にこれが記されているので、こうして欄外に注として残してあるのです。

 そうすると、多くの人々は、長い間今日の御言葉をこう読んでいたということがわかります。「兄弟に向かって理由なしに腹を立てる者は、誰でもさばきを受けなければならない」と。おそらく教会の指導者が礼拝のおりに、あるいは説教でそう語ったのです。「兄弟に向かって腹を立てる者はさばきを受けなければならない」というのは、大変厳しい。厳しすぎる。しかし、「理由がある場合は別だ」と考えたのです。自分の怒りは正当で、その場合に、自分が怒るのは無理もないことだ。そうでなければ、この主イエスの言葉は厳しすぎて読むことができないと考えたのです。そして、そのように記された聖書が一部で広く読まれ続けたのです。

 それほどに、私たちは自分の怒りには正統的な理由があると考えるのです。皆さんにも少し思い出して頂きたいのですけれども、誰かと言い争いをする。喧嘩をする。その時、大抵、自分の方にだって言い分があると考えておられるのではないでしょうか。どちらか一方的に悪いなどということはないのだからと考えていると思うのです。親が子供をしかる時にだって、子どもは子どもで親に対して憤慨します。自分の理屈では正しいのです。

 「殺してはならない」という戒めは、神からの生きて欲しいという願いであると最初に言いました。けれども、人を殺してしまおうと思うほどの怒りが人の心に起こる。それは、兄弟に対して、身近な者に対して怒りを覚える、憤りを覚える時に起こる自らの正義感とどこが違うのか。そのどちらも同じように、自分の持つ判断が強くなりすぎるあまり、神の心が分からなくなっていることに気がつかなくなってはいないか、と主イエスはここで問うておられるのです。

 

 ですから、ここで、主イエスが直接に私たちに語りかけておられるのは、「あなたのその怒りを捨てなさい」ということなのです。

 

 

 この後に続く23節と24節にこう記されています。

 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

 ここで、注意して読む必要があるのは、「兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら」という言葉です。自分が誰かを恨んでいることを思い出したらと言っているのではないのです。「恨まれているなら」です。こうなると、難しいということに気づかれるのではいかと思います。自分が誰に恨まれているかなどということは分からないからです。自分は何も気がつかなかったのに、相手は自分のした何かの態度で怒っているということが起こります。そういう時はどうしたらいいのだろうかと途方にくれたくなるような言葉です。もちろん、ここに書かれているのは「兄弟に」とありますから、不特定多数の人のことを指しているわけではありません。もちろん血縁の兄弟ということに留まらないと思いますけれども、自分が恨まれていれば分かる範囲の人だということはできるかもしれません。

 ところが、私たちは自分が恨まれていると分かったとしても、気づいていたとしても、気づかないふりをすることは簡単なことです。まして、相手の方から「あの時のことは…」などと言ってこれば何か考えるけれども、自分の方から手を差し伸べることなどとんでもないと考えてしまいがちです。そんなお人好しをしなければならないのかと考えるのです。

 ここで語られているのは「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき」です。つまり、礼拝の最中ということです。神の御前に罪の告白をしようとしている。自分の罪を赦してくださいと祈り願おうとしている時というのは、誰もが、自分自身をもう一度よくかえりみる時です。そこで、誰かが自分を恨んでいる。自分のした振る舞いに気づくのは当然のことと言えます。神の御前に赦して下さいと祈りながら、自分はその人にあなたを怒らせてしまったことは悪かったと言えないとしたら、礼拝をお捧げしている神に対して不誠実です。身勝手と言わざるを得ません。だから、そのことに気づくのであれば、まず兄弟と和解しなさい。仲直りしてきなさい、と主イエスは言われるのです。

 今何人かの方々と洗礼のための学びをしております。ある方とこの学びをしていた時に、自分は神の前に実に都合のよい祈りをしているということを言われました。自分のことばかり祈るのです。自分のことを赦して下さいと神に祈ることは簡単なのです。けれども、自分が赦す側になるとそれがなかなか出来なくなってしまうのです。

 ここで「仲直りをしなさい」と言う言葉は、新共同訳聖書では「和解しなさい」となっています。この、仲直りする、あるいは和解するという言葉は、もともとは交換するという言葉から出来ています。他のものと取り換えるというのがその語源です。今まで腹を立て合っていた関係と、これからの新しい関係とを取り変えようということです。そのような新しい関係をつくろうとするのは大変勇気のいることです。自分の方から非を認めなければなりません。自分から譲歩しなければなりません。そして、相手がそれにきちんと答えてくれるかどうかという保証はなにもないのです。けれどもここで大事なことは、自分の方から手を差し伸べるということなのです。赦すということを決めることなのです。

 

 考えて頂きたいのですけれども、これは、主イエスが私たちにすでにしてくださったことです。私たちが受け入れるかどうかも分からないのに、主イエスは私たちのために十字架にかかられたのです。私たちの罪を背負われたのです。そこには、きっと伝わるはずだ、という私たちを信じる思いがあるのです。主イエスが、私たちを信じてくださったのです。あなたにはこの思いが伝わるはずだ、と信じて私たちを怒らず、私たちのために憤らず、私たちを見捨てることもしないで、赦しの手を差し伸べてくださったのです。だからあなたもやれるはずだろう、という主イエスの願いがここに現れているのです。しかも、それをするのは、あなたが神に礼拝を捧げている今なら出来るでしょうと語りかけておられるのです。

 神の心はどこにあるのでしょう。神のこころは、私たちが神を喜んで生きることを望んでいてくださるのです。いや、そればかりか、他の人との関係も、日常的な人と共にある生活にあっても、喜んで生きることができるように願っていて下さるのです。主イエスは、私たちが毎日怒りにくれ、悲しみに支配され、喜んで生きることができなくなってしまうような日々を送らせたいと思ってはおられないのです。

 そのために、まず、私たちの心にある怒りを捨てること。そこから全てが始まるのです。神が私たちを怒りになって、裁いてしまう、最高法院で裁かれ、ゲヘナに投げ込まれてしまうことを思いとどまってくださり、その思いを神ご自身が捨ててくださるのですから。今度は私たちもこのお方にならって、神を愛し、隣人を愛する関係を築き上げていくのです。

 

 お祈りをいたします。

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