2010 年 5 月 16 日

・説教 「神の義が行われる時」 マタイの福音書5章17-20節

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鴨下直樹

先日の祈祷会の時のことです。ある方から「神のみこころはどのようにしたら分かるのでしょうか」という質問がありました。これは、信仰に生きる者の多くの方々が持つ問いだと思います。神のみこころを問うというのは、多くの場合がそうですが、自分のする判断が正しいかどうかを確認したいと思う時に持つのではないでしょうか。
私は長い間、私たちの同盟福音基督教会で学生の担当教師をしてきました。毎年のように夏のキャンプの時期になりますと、進路を決めるために学生たちから相談を受けます。その場合に、時折聞かれるのが「私が神さまのみこころの仕事に就きたいので、神さまが私にどのような進路を考えておられるのか知りたい」というものです。ここにおられる方々の中でも、かつてそのように考えられた方がおられるのではないかと思いますし、今でもさまざまな形を変えて同じような問いを持つことがあると思います。この問いは進路のみならず、私たちが大事な決断をする時に、神のみこころに叶うかを知りたいと思うのです。
そこで、私たちがまず知っていなければならないことは、そこで私たちがその問いの底で願っていることは何かということです。それは、簡単に言ってしまいますと、私たちは自分の大切な決断を失敗したくない、間違えたくないということにあるのではないかと思うのです。自分の決断を間違えたくない、できれば神様に祝福していただきたい、神に祝福された幸いな生活をしたいと願う、それで神のみこころを知りたいと思うのです。けれども、そういうことを考えてまいりますと、私たちはどこかで自分にとって良いと思えることを、「神のみこころ」という言葉によって「お墨付き」を頂きたい。あるいは自分の願いを神に認めてもらいたい、全体に安心という状態で先に進みたいと考えてしまうことがあるのです。進学を失敗したくないとか、就職をうまくやりたいとか、幸せな結婚をしたいというようなことが、「神のみこころ」であるということを確信することによって、安心して決断できるようになると思うのです。

私たちはそのように、「神のみこころ」というものを非常に個人的なものとして考え、個別に知ることができる、とどこかで考えてしまっているところがあるのではないしょうか。しかし、私たちはそのようなものを「みこころ」として判断する前に、立ち止まって考えてみる必要があります。果たして、「神のみこころ」というものはそのように知ることができるものなのかと。

旧約聖書において、神はイスラエルの民に律法をお与えになりました。この「律法」というのは、神がお与えになった法律です。きまりです。ですから、この律法には、神が人にどのように生きて欲しいと願っておられるかが語られているのです。この「律法」を知ることが、神のみこころを知ることになるということが分かるのです。ですから「律法」イコール「神のみこころ」ということができるわけです。
ところが、「神の戒め、律法は、神のみこころである」と私がここで宣言いたしますと、恐らく多くの方は少し待ってほしい、それは言い過ぎではないか、と考えられるのではないでしょうか。と言いますのは、新約聖書の時代になって、旧約聖書の戒めである律法が大事なのではなくて信仰が大切なのではないか、そう聖書に書かれているではないか。パウロも「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」とガラテヤ人への手紙2章16節でも言っているではないか、と考えられるのではないでしょうか。
もちろんその通りです。私はここでパウロに逆らって何か言おうと思いませんし、パウロと異なる福音を語ろうとも思っていません。パウロが語るとおり主イエスを信じることが義と認められる道です。しかし同時に、私たちはここでよく注意して聞かなければなりません。この主イエスがここで「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」と語っておられるのです。ですから、私たちはこの言葉が何を意味するのかをしっかり聞き届けなければなりません。ここに、神のみこころを理解する言葉が語られているからです。

主イエスは律法を廃棄するために来られたのでなく、成就するために来られた、と言われるのはどういうことなのでしょうか。当時の人々は主イエスをご覧になって、主イエスは律法を廃棄するために来られたと思ったようです。律法というのは厳しいものです。この戒めは大小合わせると613の戒めがあったと言われています。それほど、厳密に戒めを守ることが求められました。例えば、「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という十戒の第四の戒めがあります。この戒めではこの日はどんな仕事もしてはならないとなっています。それで、人々はどこまでが仕事になって、どこからが仕事ではないのかということを考えながらそこからさまざまな解釈が生み出されてきました。というのは、多くの人々は安息日であっても食事の準備をしたり、子どもが病気になれば看病もしなければなりませんから、それは仕事なのかそうでないのかということが大問題として理解されてきてしまったのです。そして、このような聖書の律法を解釈する本というようなものが生み出されてきたのです。こうして、神の律法を行うために、さらに細かな戒めが生み出されてしまったのです。先ほども言いましたけれども、当時、聖書に記された律法は613あるとされてきました。もちろん聖書学者によってはもっとあると言う人もいるほどです。それだけでも十分と言えるほどですけれども、この安息の戒めだけでも、この細かな戒めの数は234項目あったと言われています。ですから律法といわれるものの数は細かいものまで数え始めると、気が遠くなるほどの数があるということがお分かりいただけるのではないかと思います。
しかし、そうなると、律法を守ることは難しくなっていきます。それで、多くの人々はどうしたら出来る限りそのような厳しい戒めから逃れることができるかということを考えるようになってきてしまいました。どうしたら、神の戒めを自分たちの都合のよいように理解し、利用することができるかとうことが人々の関心事になっていきました。こうして、人々は自分がいかに抜け目なく生きるかを考えるあまりに、神の戒めの本来の意図を忘れてしまうようになってしまったのです。

そのような考えの中から、例えばこういうことが起こってきました。聖書には大事な戒めとそうでない戒めがあるのではないかいうのです。たとえば、律法の中にはこういう細かな戒めがあります。申命記22章6節と7節です。

たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。

こういう戒めが聖書にあるのかと驚かれる方もあるかもしれませんけれども、これは先ほどの十戒と比較すると小さな戒めということができます。確かに、この戒めは誰か人の命を傷つける戒めではありません。それで、このような細かい戒めまですべて守るとなると不可能ではないかなどと考えて、いつの間にか人は戒めの中に優先順位を付けてしまいます。これは守るべき大事な戒め、これはそれほどでもない戒め、という具合にです。そうやって、人々は律法を少しでも守らなくてもいいようにと考えていってしまったのです。

けれども、最初に言ったように、神の律法は神のみこころが記されているのですから、そのような細かなことにまで目を留めて下さっておられる神のお心を私たちは知ることができるはずです。しかし、人々はそのように考えませんでした。というのは、今のような理由で、律法がまるで専門家しか理解できないような細かな戒めまで作り出されてしまうと、戒めのすべてを知ることさえできないということから、しだいに神のおこころを理解することを諦めてしまうようになっていったのです。けれども、反対に聖書の専門家である律法学者と呼ばれる人々やパリサイ人と呼ばれる人々は、律法をすべてその細かな後で補足のためにつくり出した戒めに至るまですべてを厳密に守ることこそが大事であると考え、またそう主張するようになります。この「パリサイ人」、あるいは「パリサイ派」というのは「分離主義者」という意味なのですが、この人たちは、自分たちはこれらの一般の人々とは異なるエリートであると、人々とは距離を置いて、自分たちだけが律法を守ることができるのだ、という誇りを持つようになっていったのです。ですから、たいていの人々はもはや、それは専門家のすることであって、庶民である自分たちとは別の次元の出来事などというように考えるようになってしまったのです。

それで、主イエスをご覧になった時、人々は、このお方は庶民の味方として神の律法を軽んじ、新しい基準を打ち立てて下さる方ではないか、という期待を込めて見るようになりました。というのは、マタイの福音書ではこれまでのところではまだ、律法学者やパリサイ人との対立が描かれておりませんけれども、他のところを見れば、主イエスはパリサイ人や律法学者たちと異なる理解をもっていたことを人々はみながら、そのように自分に都合のよい律法の教師として主イエスに期待していたのです。
ところが、主イエスはここで、そのような人々に対してはっきりと宣言なさいました。

「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません」(20節)

と主イエスは言われたのです。

これを聴いた人々は驚きました。いや、私たちでも驚くのではないでしょうか。こういう言葉を主イエスが語られるということの意味を私たちは理解しかねるのです。おそらく、皆さんの中で、さまざまな聖書の御言葉を自分の愛唱句として大切にしておられる方々も多いと思いますけれども、今日のこの箇所を私の好きな聖書の御言葉です、と言われる方は少ないのではないかと思います。いや、誰もいないのではないかとさえ思います。ひょっとすると、今この御言葉を聴きながらも、こういう御言葉は先生がまるで違う意味に説いてくださるのではないかと期待しておられるのかもしれません。
主イエスがここで語っておられるのは、この山上の説教の序文のようなものです。山上の説教というのは、マタイの福音書の5章から始まって7章の終りに至るまでの比較的長い箇所ですけれども、今日の箇所で主イエスは、何を語ろうとしておられるのかをまとめて語ってくださっているのです。それが、つまり、わたしが語る義、主イエスが語られる義というのは、律法学者やパリサイ人に勝る義であるということです。ですから、私たちは、律法学者やパリサイ人よりも厳密に律法にしめされた神のお心を知る必要があるのです。

ここで、私たちは、主イエスがこの神の律法のことを、「神の義」と言い換えておられることに目を向ける必要があります。ここで問われていることは、神がどのような者を義としてくださるか、正しいとしてくださるかということです。どのような者が、神のみこころに従って生きているといえるか、それがここで記されている「神の義」です。
律法学者やパリサイ人の義とはどういうものかというと、彼らは、その613あると言われる戒めや、その細則まで含めた戒めを厳密に守りぬくことが義であると考えました。ですから、彼らの言う義とは、自分の力や努力で果たすことのできる義ということになります。けれども、主イエスはここで「自分でやり遂げる義」ではなく、「神の義」と言っておられるのです。つまり、神のおこころがどこにあるかということを問うておられるのです。それは、これから語られる山上の説教の続きの中で、あるいは、このマタイの福音書全体を通して語ろうとしておられることです。

18節にこのように書かれています。

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

ここに記されているとおり、613ある戒めのすべてに神のこころが表されているのです。先ほどの申命記に記されていた小さな戒めと考えられているような、小さな鳥のひなの取り方でさえ、神は心をくだいておられるのです。わざわざそのように戒められているのは、それほどまで、細かなところまで神は私たちのことを見ていてくださるということの現れです。そして、そのようにお語り下さる神のこころを、私たちは自分が守れるから立派なのだとか、守れないからどうせ自分はだめなのだというところでしか判断できなくなってしまうと、それは結局は自分の事しか見えていないのであって、そこに働いておられる神の心を見失うことになるのです。
ですから、最初に申し上げたように、私たちの進路はどっちの道に進んだら正解なのか、誰と結婚することがいいのかなどというようなことも、これと似ていることだということに気づかなければなりません。自分の生活がどうかということに関心を向けるのではなくて、神のこころが何であるかを知ることの方が、より大切なことなのです。自分が働きながら、そこで神さまの素晴らしさをたたえながら生きることのできるのであれば、どのような仕事の中にでも、神は祝福を置いてくださるでしょう。神とともに歩んで行きたいと願いながらする決断は、そこに神が働いてくださるに違いないのです。
「神の義」とは、何度も語っていますが、「神と私たちとの正しい関係」のことです。私たちが神と正しい関係に生きていることができるのであれば、そこに、神のみこころがあるのです。そう信じたらよいのです。神のみこころは一つづつ、これは神のみこころで、これはそうではないというようにしながら、チェックしていけるようなものではないのです。神と共に歩む前から、この進路は失敗だなどと誰が知ることができるというのでしょうか。たとえ、失敗するようなことがあったとしても、神とともに歩むならば、その失敗さえも、神はどれだけでも意味のあるものに変えることができると信じて歩み出すことが私たちに求められていると気づくことが大事なことなのです。
神のみこころをいつも教会で聴いているのですから、私たちはすでに耳にしているはずなのです。神のみこころに生きているはずなのです。主イエスを信じて生きることこそが、神のみこころだからです。それなのに、私たちは尚も、頑なに、失敗したくないと考えてしまっているところに、実は神に信頼して歩んでいないのではないか、神と共に歩むこと以外の、この世界でいう成功とされることが、神からの祝福であるかのような錯覚を私たちはいつまでも描きつづけてしまっているではないかと問わなければなりません。そして、そのようなものは、自分の力や努力でつかみ取ることができるものだということに目を向ける必要があるのです。このような「義」は、「生き方」は、主イエスがここで語っておられる「律法学者の義、パリサイ人の義」であることに私たちは気づかなければならないのです。
けれども、主イエスは、そのようなパリサイ人の義、この世界でいう成功者となるというような生き方を、私たちに与えようとは思っておられないし、そんなものをいくら得たところで、天の御国に入ることなどできないのだと、ここで最初に断っておられるのです。このことを私たちはよく理解していなければなりません。

そうであるとすれば、「神の義」とは一体何を意味しているのでしょうか。それは、この世界で成功して生きるということではないということです。この世界で自分の生き方を誇りとしながら、誰かに認められるように立派に生きて、他の人からあなたは素晴らしいと褒め称えられることではないということです。そうではなく、「神の義」というのは、私たちがどのような中であったとしても、神に信頼し、神に聴き、神と共に生きる中で与えられるすべてのものです。それが、天の御国で生きることなのであって、神に祝福されるというのはそういう生活の中で得られるもののことなのです。そのように生きていると、あるいは誰かが、私たちの生き方を褒めるかもしれませんが、それは、結局のところ、私に働いてくださっておられる神が私にしてくださったことなのです、と答える他ないものだということが分かるでしょう。これが、神の義です。そこに、神のみこころがあるのです。神に支配されて生きるということこそが神の義なのであり、神のみこころなのです。そのように生きることこそ、主イエスが私たちに与えようとしてくださっておられる救いなのです。
主イエスはそれで、この山上の説教において御自身の生き方についてお語り下さいました。神のみこころがここに語られているのです。私の神学校の恩師である河野先生は、この山上の説教からの説教集のタイトルを「神の国のライフスタイル」と付けられました。主イエスがここで語っておられる、天の御国の生き方が、ここに記されているからです。そして、その後の続く物語の中で、主イエスはそのように実際に生きて下さいました。そして、示して下さったのです。「わたしの生き方をよく見ていなさい、何が、律法学者やパリサイ人に勝る義かを示してあげましょう」ということなのです。
主イエスの生き方、ライフスタイルの中に、私たちの生きるべきライフスタイルが隠されています。これを知ることなしに、私たちは、自分の生活をつくり上げることはできません。そこで主は、私たちに原則を語り、手本を示してくださっているのですから、私たちはこれに倣って行く時に、このライフスタイルを自分のものとして体得することができるのです。そして、その時、私たちは自分の生き方は神のみこころにかなうものだと信じて、平安と同時に、確信を持って生きることができるようになるのです。
お祈りをいたします。

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