2010 年 5 月 9 日

・説教 「地の塩、世の光」 マタイの福音書5章13-16節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:54

鴨下直樹

 今年も早いもので、もうゴールデンウィークが終わりました。今朝礼拝に来られたみなさんの顔を見ていますと、少しリフレッシュすることができたのかなと思っています。しかし、休みが終わって、また同じような一週間が始まるというのは、時として少し重たい気持ちになります。けれども、この朝、礼拝に集ってもう一度御言葉を聴いて、新しい思いで出かけていこうと思っておられる方も多いのではないかとおもいます。

 今、礼拝でもマタイの福音書を読み進めておりまして、先日のところで山上の説教の一つの区切りを迎えたと考えることができます。山上の説教の冒頭にある、主イエスが語られた、幸いを告げる言葉の部分が終わったのです。この山上の説教の冒頭で、主イエスは八つ、もしくは九つの幸いをお語りになりました。そして、その幸いの祝福の最初と最後の言葉は「天の御国はその人のものだからです」とお語りになりました。ここで語られているように、主イエスは「天の御国」に人々を招くために宣教を開始されました。ですから、「悔い改めなさい、天の御国は近づいたから」という言葉を、主イエスは宣教の始めに宣言なさったのです。「天の御国」、「神の国」への招きこそが、福音そのものです。

 しかし、「天の御国」、あるいは「天国」という言葉を耳にする時に私たちはすぐに、あちらの世界に生きること、と考えてしまいます。「天国」というのは、まるで死後の世界のような響きがあるからです。けれども、主イエスが語られる「天の御国」、「神の国」というのは、すでに何度も語っていますけれども、そのようなあちら側の世界の事ではありません。むしろ、こちら側の、この世界のこと、この世で、神の支配のもとで生きることです。

 それで、この九つの幸いの言葉を語り終えてすぐに、それこそ息もつかずに、「あなたがたは、地の塩です。」と主イエスはお語りになられたのでした。「あなたがたはこの世界で『塩』として生きているのですよ」と、お語りになったのです。天国で、あちらの世界で塩として生きているのではなくて、この私たちが生きている世界で、塩として生きているのだと言われたのです。それは、私たちがこちら側の、この世界に生きる使命を与えられていることの確認です。私たちは、この世界でどのように生きることができるのか、と主イエスはここで語ってくださっているのです。私たちはこの世界で、明日からまた仕事にでていかなければならない生活が始まるのですが、そこでどう生きることができるかということが教えられているのです。

 

 ここで興味深いことは、主イエスが私たちに、あなたがたは「地の塩として生きなさい」とか、「地の塩になりなさい」とか、あるいは「地の塩となるのです」というようには語っておられないということです。主イエスは「あなたがたは地の塩です」と宣言しておられるのです。私たちは、主イエスを信じて、神の国で生きる者となったということは、それはそのまま「地の塩」となったのだということです。

 では、主イエスは「地の塩」という言葉で何を言い表そうとされたのでしょうか。そこで考えられるのが、「塩」がどのような役割を果たしているかということです。塩には色々な役割があります。ある聖書学者に言わせると、塩には十一の効用があるのだそうです。その代表的なものは、まず「清め」という意味です。例えば、相撲の時に力士は塩をまきます。テレビなどを見ておりますと、沢山の塩をまく力士と、少しだけ塩をまく力士がでてきますと、私などは気になってしまいます。塩の多い少ないで、何か効果は違うのかと考えてしまうわけです。そのように、何かの清めの儀式として塩をまくなどということがあります。イスラエルにも、同じようなそういう習慣があったかどうか分かりませんけれども、塩というものの性質がそこに表されています。汚れたものを清めるという考え方です。塩がそのように考えられているのであるとすれば、私たちキリスト者は、この世界を清めるためにこの世界に遣わされているということができます。

 あるいはまた、塩には「味を付ける」という役割があります。味が足りなければ塩をかけるわけで、その世界の味わいは、私たちにかかっているというようなことが言えるかもしれません。味わいある人生というのは、この世界では、この世界のあらゆるものを楽しんでいる生活のことを表しているかもしれませんけれども、この世界が味わい深いものとなるためには、キリスト者の存在がかかせないのだということが言えるかもしれません。

 また、その他の塩の役割として、塩には物が腐ることを防ぐために用いられるという性質があります。塩鮭などというのは不思議なものですけれども、鮭のお腹の部分に塩をすり込んでおくと、生の魚であっても腐らないのです。子どものころ、私の親戚が北海道に住んでおりまして、季節になると時折塩鮭を送ってきます。北海道からこちらまで、今のようなクール宅急便というものが無い時代であっても、無事に贈ることができます。塩はそれほどまでに、物が腐敗することを防ぐ役割をもっているのです。そのように、キリスト者たちも、この世界が腐ってしまわないような役割があるのだ、などと言うこともできます。

 このように、塩には様々な役割があります。11種類あげなくてもそこにさまざまな意味あいがあります。それは、何が正しくて、何かが間違っているなどと言って分けることなどできません。そのような役割をみな私たちが果たすのだと、まったく単純に理解してもいいのだと思います。

 

 主イエスは「地の塩」ばかりでなくて、続く言葉の中で「あなたがたは、世界の光です。」と言われました。この言葉も「地の塩」の時と同様、「世界の光」となりなさいとか、「世界の光」として生きなさい、というのではなくて、私たちの存在そのものが「世界の光である」と宣言されています。この「世界の光」というのも、この暗い闇のような世界を輝かせることが私たちの使命なのだということでしょう。このように、この「地の塩、世の光」という主イエスが語っておられる内容は、私たちはそれほど困難を覚えることなく理解することができるだろうと思います。私たちには、実にさまざまな面があって、そのような者としてすでにされているということを主イエスはここで宣言されています。ですから、私たちは、「地の塩、世の光」として生きることができる存在であるということになります。

 

 

 けれども、そこで私たちは自分自身に「私はもう地の塩となっている、世界の光となっているのだ」と語り聞かせることができるかというと、そこで立ち止まってしまうのではないかと思うのです。

 自分のようなものが、それほど立派な生き方をすることができるだろうか。私はこの世界が腐らないために生きているのです、と言えるか。むしろ、私のような者が、世界を腐らせてしまっているのではないか。私が世界の光になるどころか、今日も重たい気持ちで教会まで何とか来ることができたけれども、私こそ闇そのもの、闇に何とか飲み込まれないように、今日もここまで何とか少しでも光を受けたくて、教会に来たのだと言いたくなるのではないでしょうか。それなのに、「いや、あなたこそが、地の塩、世界の光」などと言われると、途方にくれてしまう。私はそのように生きられないから、こうして礼拝に来ているのです、と言いたくなる自分がいるのではないでしょうか。

 主イエスは、それなのになぜ、そのような私に向かって、「あなたは塩、あなたは光」などと語られるのでしょうか。

 

 

 「あなたがたは、地の塩です。」という言葉に続いて「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。」と続いています。塩が塩けをなくすなどということがあるのでしょうか。科学的にいえば、塩が塩けをなくすということは不可能です。実は、そんなことではないのです。この聖書の言葉は「塩けをなくす」という言葉になっていますけれども、この言葉はギリシャ語を直訳すると「塩がバカになってしまう」という言葉です。それではさすがに、言葉としてそのように訳すことには問題がありますが、言おうとしていることは分かります。塩が、塩としての役割を果たしていないということです。「塩がバカになってしまう」というのは、名古屋弁ではそういう言い方がありますからみなさんはよく分かると思いますけれども、普通はそういう言葉の使い方はしませんから、そのように訳されても分かりません。「塩けをなくす」という訳をだいたいどの聖書でもしているのですけれども、この「バカになってしまう」という言葉は、味わい深い言葉だと思います。塩のくせに、塩として働かない事があったのです。この地域の塩というのは、暑い季節に干上がってしまう湖に、塩の塊ができあがったのだそうです。ところが、その岩にこびりついた岩から塩を採る時に、塩だけでなく、岩も一緒に削り落してしまうので、砂ばかりはいった塩というのがあったというのです。そういう塩のことを、バカになった塩という言い方をしたのです。しかし、それは考えてみれば最初から塩ではありません。

 塩は塩ですから、塩がある日、突然バカになってしまうなどということはないのです。このあたりの言葉では「やわになってまう」と言いますけれども、そうなってしまうことはないのです。私たちは「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」という言葉を読むと、もうドキドキしてしまいます。自分は塩なのか、塩でないのかと。しかし、主イエスがここで語ろうとしておられるのは、塩が塩でなくなるようなことがあるから気をつけていなさいという事ではないのです。そんなことはあり得ないことです。主イエスを信じて生きる者は、塩なのだと言っておられるのです。

 それは、光のことを考えてみれば明らかです。光が光でないなどということは起こり得ないことです。「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。」という言葉も、何を意味していたかと言いますと、ある聖書の解説によると、この時代今のようにマッチはありませんでした。ですから、簡単に火を消すことはできませんでした。それで、火を付けている間は、家を留守にしないで火の番をしているのです。けれども、一日中家族全員が家にいるとも限りません。そうなると、大切な火を残しておくために、枡の上に灯火を置いて火が消えないようにしながら、その枡を火事にならないように土の上に置いたのだそうです。けれども、それは火を灯して家を照らす時のことではありません。燭台として部屋を明るくする時は、その灯が輝くように上の方に置いたのです。

 そのように、主イエスは私たちが天の御国に生きるものとなった時に、この私たちを塩として、光として、この世界で役割を果たすことができる者ともうなっているのだということに気づかせておられるのです。それは、私のような者はそれに値しないので役割を果たすことができない、などと卑下しながら自分の存在を否定できるものではなく、すでに、主によってそのようにされているのだから、それに相応しい者として生きることが求められるのです。

 

 しかし同時に、「あなたがたは、地の塩、世の光です。」という言葉が、間違って、キリスト者は特別な存在なのだと受け取られてしまうこともあります。この言葉が、まるで、自分たちはエリートなのだというように聴き取られることもあるのです。それは、自分のような者は相応しくないと考えてしまうこととは正反対ですが、そのように考えることによって、自分は光の所有者なのだと、この世界にあってギラギラじたような光を放ってしまうこともあるのです。

 主イエスがこの山の上でお語りになった時、そこにおられたのは、主イエスの弟子達と、また、主イエスに救っていただきたいと願ってつき従ってきた群衆と呼ばれる人々でした。彼らのほとんどは貧しい人々でした。光の存在としてこの世界に、まばゆい光を放つような人々ではありませんでした。そのような、光と呼ぶこともできないような人々に、主イエスは「あなたがたは世界の光です」と語られたのです。ここにいる人々は、自分が光だなどと考えたこともないような人々です。何か立派な援助活動ができる人々で、この世界で立派に輝いている人たちなどいうのではなくて、自分の方こそ助けてもらいたいと考えていた人々だったのです。

 このことを表すために、ある説教者はこう語りました。「光を持たない人だけが光なのです」と。そこで行われているのは、自らが光を持たないがゆえに、光である主イエスそのものを求める人々でした。それは、エリートの姿でもなんでもないのです。しかし、その貧しさのゆえに、主イエスが支配して下さる時に、その存在が光となって、外へと輝きでるようになるのです。

 

 考えてみますと、塩も、光も、自らを無にすることによって存在していることを伝えるものです。塩も、光も、自分を保とう、保持しようなどとは考えません。そこにいることによって、塩けがしみだしていくのです。そこにいることによって、周りを明るくするのです。そして、その働きは常に外に向かっているのです。自分を誇示しないでその外側へききめをもたらせるのです。自分ではない、外へ、周りへです。

 そうです。ここで奇跡が起こっているのです。自らの救いを求めて、主イエスの周りに集まって来た人々は、そこで主イエスの救いを見たのです。それは、その人たちが考えているような救いではありませんでした。つまり、その人の願っているものが得られるということではなかったのです。自分がもっと幸せになるとか、問題が完結するとか、病気が治るとか、そういうことを求めて行ったのに、主イエスによって、そのような自分をすてて、他の人のために、その人の周りの人が幸せを感じ、清められ、明るさを感じ、ぬくもりを得、新しく生きる者へと変えられて行くようになっていくのです。そのような存在へと、創り変えられているのです。

 

 そうです。「地の塩、世の光」というのは、私たちのような小さな者が、この世界に存在しているかどうかはっきりしないような者が、天の御国に生きる、神に支配されて生かされている間に、この世界を、神との正しい関係にある世界となるために用いられているのだ、ということなのです。この味気を失った世界に、味をもたらすために、腐りかけた世界が腐らないように、私たちは主イエスによって、地の塩として送り出されているのです。この暗闇の世界に、ぬくもりを欠いてしまった世界に、光をもたらし、暖かさをもたらし、希望をもたらすために、世界の光として送り出されているのです。塩とも、光とも、自覚していないような者がです。それが、神に救われるということの意味です。それが、天の御国で生きるという意味なのです。

 そのために、私たちは、自分というこだわりから解放されて外の世界へと送り出されるのです。そこで、奇跡の存在として、私たちをキリストは用いて下さるのです。

 

 最後の16節にこう記されています。

 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 ここで語られている私たちの外へ影響をもたらせることを、ここで「良い行い」と言いかえられています。もうお分かりのことと思いますけれども、これは私たちが私はキリスト者にされたのだから、もっとキリスト者らしく「立派に振舞おう」というようなところから生じる「良い行い」ではありません。それは、私たちの中からしみだしてくるものです。パウロはそれをコリント人への手紙では「キリストの香り」と呼んだものと同じことがここで言われているのです。私たちの中からかぐわしい香りがしてくるのです。ああ、こういう生き方はいいなぁと、私たちの周りの人が思うようになるというのです。そのようなよい影響を周りに及ぼしていくことをここで「良い行い」と言い表しているのです。私たちのそのような「行い」はどこから生じたのかと言うと、私を支配してくださっている「父なる神」から来るのです。神に支配されているから、私たちは自然に、この神の御業を行う者とされるのです。いや、もうそうなっているのだ、と主イエスは語ってくださるのです。

 そうすることによって、神の光が、私たちのうちで輝き出すのです。私たちが、その闇の世界の中にあって人々の希望になっている、私たちの生活をそういうものに変えて下さるのだ、と主イエスはここで宣言してくださっているのです。ですから、明日から始まる新しい一週間を安心して出て行ったらよいのです。神が私たちを支配してくださるのですから。私たちが意識しようと、意識しまいと、私たちからそのような光が放たれていくのです。そして、その光は、この世界の希望となるのです。この世界が、私たちをとおして、まことの光を知ることになるからです。そうして、私たちの振る舞いを見た人々が、私もあの人のように生きたいと思うことによって、私たちの父なる神が褒め讃えられることとなるのです。私たちはそのようなものにすでに変えられているのです。このように、私たちは、この世界で神の栄光を表すために、「地の塩、世の光」として生かされているのです。ですから、この一週間を重たい気持ちではなくて、希望をもって出かけて行くことができるのです。

 お祈りをいたします。

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