・説教 ピリピ人への手紙3章1bー11節 「信仰にもとづく望み」
2013.8.18
鴨下 直樹
今日の説教箇所は3章1節の後半部分からお読みしました。なぜ1節の途中から読んだかと言いますと、ここから内容が大きく変わるからです。1節の最初に、「私の兄弟たち。主にあって喜びなさい」と結ばれています。ところが、こう言って結んだはずの手紙が、ここから突如として「前と同じことを書きますが」と少々強引に話が続けられているのです。それで、ここから4章1節までの内容は別の手紙が紛れ込んだのはないかと考える人もいますが、もちろん今となっては誰にも分かりません。いずれにしても、人の会話でも手紙でもそうですけれども、突然他のことを思い出して急に別の内容にするということはあることですから、この部分が別の手紙が紛れ込んだというようなことを考えてもあまり意味はありません。ここに書かれている内容に注意を払うことが大事です。
今日の箇所のテーマは信仰に生きることはどういう得があるかということです。これは、誰もが考えたことなのではないかと思います。教会に通うようになると、色々と失うものがあると考えられてしまうことがあります。この手紙を書いたパウロの場合はどうだったかということがここに出てきます。特に五節と六節にはそれまでパウロが得だと考えていたことが書かれています。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
ここはパウロの信仰の証しとも言える部分です。今、信徒交流月間ということで、水曜日と木曜日にみなさんが証をしてくださっています。その時に多くの方が話される事でもありますけれども、あることについてこれまで自分はこういう考え方をしてきたけれども、主と出会ってこのように変わりましたと話されることが多くあります。パウロの場合もまったく同様で、信仰に生きる前はどういう考え方をしていたかということを証しているのです。
ここに記されているパウロの自己紹介はユダヤ人にとってどれも胸をはることのできるような事柄ばかりが列挙されています。一言でいえば、「ユダヤ人の中のエリート」、それがパウロでした。パウロだけではありません。誰でも、自分がどういうものであるかということは自分を決定づけることですから、そこには自信のあること言おうとします。自分がどういう家族のもとで育てられてきたのか。自分はどういうことを学んできたか。自分は何を身につけてきたか。自分は誰と親しい関係にあるか。そういうものを少しでも沢山数えあげることによって、自分はこういう者であると他の人に対して示そうとします。そうやって、自分はどれほど価値のある人間なのかということを、周りの人に知ってもらいたいと思うのです。なぜそうするかというと、そこに人は価値を見出すからです。
けれども、パウロは続く七節でこう書いています。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
ここにきて少し心苦しい気持ちになっているのですが、これまで私は何度か説教の中で、「損得勘定で物事を判断するのではないのだ」と語ってきました。ところが、パウロはここで、まさにこの「損得」ということをテーマにして書いていますので、どうしたものかと思っています。
パウロはこのところの冒頭でずいぶん強い言葉を使って書いています。二節です。
どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。
人の事を「犬」と呼ぶのですからかなり辛辣です。その「犬」というのは、「悪い働き人」であり、それはつまり「肉体だけの割礼の者」のことだと続きます。そうです。あのガラテヤの教会を混乱に来たらせたユダヤ主義者で、律法主義のキリスト者たちです。彼らは海を越えて、パウロが一大決心をしておとずれたヨーロッパ大陸のマケドニアの都市ピリピにまでもやって来て、パウロが伝道して築き上げた教会を踏みにじったのです。パウロがどれほど彼らに対して腹を立てていたかがこの言葉から見てとれます。そういう意味では、3章1節で一つの話を終えて、やはりここにも書いておこうという思いでこの部分をパウロ自身がしたためたことは非常に理解できることです。
この律法主義的キリスト者たちは、主イエスを信じて救われるということよりも、むしろ、ユダヤ人と同じようになって、割礼を守り、律法を行なう事のほうに価値を見出していました。そうすることが、あなたがたにとって得なことなのだと主張したのです。なぜなら、神はユダヤ人を特別に祝福しておられるから、同じようにユダヤ人のようになれば、神からの祝福が得られるからだと主張したのです。
これはとても興味深いことです。ユダヤ人になれば神からの祝福がいただける。神の民にしていただける。そのための条件として律法を守る事を神は求めておられるので、律法を守ってください。そのためには割礼をうけることが必要となります。そう言われると、説得力があったのです。それほどに、ユダヤ人というのは、神からの祝福が目に見えて明らかだったということのしるしでもあります。ご利益宗教です。
もっとも、宗教というのはこの利益を説くものです。この神さまを信じることはどんな利益をもたらすのか。そのための代価として何々をしなさいという構図は今にはじまったことではなくて、昔からの宗教の姿です。
しかしパウロは、こういうユダヤ人たちが説く、ご利益の条件になるものを私は全部満たしていると言ったのです。けれども、そういう条件で得を得るのかというと、私はそうは思わない。私はそれらのものは自分にとって損であるのだと気づいたのだとここで語っているのです。
ですから、ここで気をつけていただきたいのは、パウロもここでいっしょになってキリスト教の御利益を説いているということではないのです。一般に言われるものとはまったく違うところに私は価値を見出しているのだと言っているのです。そして、そのパウロが見出している価値というのはどこにあるかというと、八節です。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また
と続きます。この最後の部分に書かれている「キリストを得」とあります。
自分が得たものはキリストなのだとパウロは言います。私にとって得となるものは、キリストを得たこと以外にないと断言しているのです。しかもここで、「キリストを得た」ということを、「私のキリスト・イエスを知っていること」と言い換えています。私がキリストを知ったこと、「私の主」と言えることこそが、私はこれまで自分が得てきた人生の最大のものだとパウロはここで宣言しているのです。私たちは日常「得をした」と感じるのは、値打ちに何かを手に入れる事が出来たという、実際的な目に見えて益となるものを手に入れる時に得をしたと感じます。けれども、パウロはそういうこの世が価値を見出しているものを手にしたことなのではなくて、キリストご自身を得たことなのだと言っているのです。
しかも、ここでパウロは非常に珍しい言葉を使います。イエス・キリストのことをパウロはここで「私の主」と言ったのです。「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」。 パウロはここで、キリストを得たことは、「私の主」と呼べるようになったということです。興味深い事に、パウロがここで語った「私の主」という言葉は、パウロの他の文章には用例がないのです。キリストを知る知識を得るということは、「私の主」と言えるようになるということです。
今行なわれている信徒交流月間の証の中で、みなさんが本当に良く聖書を読んでいるということを知って、私自身とても嬉しく思っています。聖書を読むということを、多くの方が日課にしていてくださる。ある方が、「私が聖書を読む時に、ディボーションというのは家庭礼拝なので、能動的であるために、今日読んだ聖書から教えられたことをノートに書き留めて、それが自分の生活の中にどう生かせるかを考えるようにしている」とお話し下さいました。とても良いことです。自分の生活の中で、神さまのみ言葉を聞くということはとても大切なことです。その時に少しお話ししたのですが、聖書を読む時に気をつけないと、「自分が何をしなければならないか」、ということにばかり目を向けてしまって、そこに記されている「神がどのようなお方か」ということに心を向けなくなってしまう場合があるので、ぜひ、神はどのようなお方かということにまず心を向けて欲しいとお話ししました。
聖書を読む、家庭礼拝、ディボーションをする。その時に、そこで今も生きておられる主と出会っていただきたいのです。そうして主を知る事こそ、私たちの人生にとって何にも代えがたい価値がそこにあるのです。そして、そのようにして神さまのことを知っていく時に、「このお方が、私の主なのだ」と告白できるということが、自分の人生の中でどれほどの価値を持つか、どれほどの意味を持つかを知ってほしいのです。
それは、自分が何を学んできたか、何をしてきたか、何を知っているか、何ができるのかというようなことに比べて、はるかに大切なことなのです。もっと色々と勉強をしたほうが生活がよりよくなる。それはそのとおりです。もっと政治について学んでおいたほうがよい。それもそのとおりです。もっとこういう活動をすべきだ。そうです。この世界に私たちがしたほうが良いと思える事はいくらでもあります。どれも大事なことです。それを軽んじる必要もありません。しかし、私たちにとって何よりも大切なことは、この聖書に記されているお方が私の主なのだ、と言うことができることにまさる価値は、この世界には存在していないのです。
パウロの望みは何か。それは
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
と九節で語っています。
パウロの望み、それは、パウロが何に価値を見出しているかと言い換えてもいいと思うのですけれども、それは「神から与えられる義を持つことができる」ということです。自分の力で救いを達成するのではなくて、神が義としてくださる。この私を義としてくださる方が私の主なのだ、そのことを私は知った。これこそが、私の得たものだということです。
そしてパウロはこの後ですごいことを語りだします。
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
私が神学生の時から使っている聖書のこの部分に鉛筆で線が引いてあります。そして、そこに「?マーク」がついています。パウロがここで何を言おうとしているのかよく分からなかったのです。しかし、ここまで説明してくるとお分かり頂けるのではないかと思います。パウロは、自分のキリストを知るその知識が単なる知識なのではなくて、キリストの身に起こった事を自分も味わいたいのだと語っているのです。
自分は牢獄にいて、一方では解放されるだろうと思っている。けれども、もう一方では殉教するのではないか、ローマの手によって殺されるのではないかと思っています。そういう中で、もし、私が死んだとしても、それはキリストが味わった十字架を味わうことだ。私を義としてくださるお方は、わたしをキリストと同様によみがえられてくださり、神に義とされたものとして神の前にたたされることも知っている。それは、単なる知識として知っているのではなくて、どうにかして、このことを本当に知るものとなりたいのだと言っているのです。そこまでパウロは徹底して、私の主とお呼びしたキリストのことを知りたいと願っているのです。
そのとき、パウロは知りました。神がどれほど私たちの事を愛してくださっておられるか。どれほどの望みがこの福音に秘められているかを。私たちもまたパウロと同じように、神のものとされたのです。このお方は、私たちの主となってくださったのです。そして、このお方は、私たちを義とし、私たちが死んだとしても、どれほどの苦しみを味わったとしても、私たちにキリストと同様、復活を味わわせてくださるのです。だから、この世界がもたらす価値に目をとめることなく、このお方を見上げて歩みとおすことができるのです。
お祈りをいたします。