2013 年 9 月 15 日

・説教 テサロニケ人への手紙 第一 5章16-18節 「喜びと祈りと感謝の生活」

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2013.9.15

鴨下 直樹

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

「いつも喜んでいなさい」と、この御言葉は私たちに語りかけてきます。どうしたら私たちは、いつも喜んでいることができるのでしょうか。

多くの結婚をひかえた花嫁になろうとする人が、結婚する前にこんな話をしてくれます。「いつも笑顔を絶やさないでいたいんです」と。私はこの言葉を聞くと、心の中で本当にそうであって欲しいと願う気持ちが湧き上がってきます。それと同時に、この人に何かをちゃんと教えておいてあげないといけないなという気持ちになります。

もうすでに短いとはいえない結婚生活をして来られた方々がここにはたくさんおられます。女性の方は、自分もかつてそんな気持ちをもった事があったと、懐かしく思う方があるのかもしれません。同時に、もはやそういう希望を持つ事ができなくなっている現実を少し悲しく受け止めることになるのかもしれません。もちろん、この「いつも喜んでいなさい」という聖書の言葉は、「いつも笑顔でいなさい」という言葉と同じような響きがあります。けれども、それとは異なるものです。

私たちの顔から笑顔が失われていく時というのは、その人の色々な状況に左右されます。それこそ、結婚生活で例えれば、自分が結婚する前に想像していたものと、自分が体験する現実にずれを感じる時に、もちろん、それが自分が思い描いていたものよりも素晴らしかったということもあると思いますけれども、そうでなかった時、笑顔が失われていきます。こうなると、良いと思い描いているもの願い続けてきたものと、違う厳しい現実が立ちふさがる時、私たちの顔から笑顔が失われていってしまうことでしょう。

パウロはここで、「いつも」という言葉を前におきました。そして、この「いつも」ということがやはり大事なのです。自分が良い時も、悪い時もということです。病める時も、健やかなる時も、富める時も貧しき時もです。確かに結婚式の時はそのように誓うのです。どういう時も、それこそ、「いつも」相手を支え、励まし、愛を貫くと誓います。

けれども、そうすると、ここでいう「喜びなさい」は、「いつも」、それこそ「病に苦しむ時」や「貧しい時」もということですから、「笑顔でいられる」「にこにこしている」という事を意味しているのではないことはよくお分かりのことだと思います。もちろん、「心のありよう」といった精神論でもありません。では、私たちの喜びは何に根差しているのでしょうか。

私たちはその生活のさまざまな状況に納得がいかなかったり、そこで困難や悲しみを覚えることがあります。さきほど歌った讃美歌21の479番「喜びは主のうちに」という賛美を歌いました。

「喜びは、主のうちに、愛するイエスよ。苦しみの極みにも恵みは豊か。主に望みを置くものは、とこしえの生命(いのち)うけ、救われるハレルヤ。生きる時も、死ぬ時も、主イエスから離すもの 何もない、ハレルヤ」 という歌詞です。この讃美歌のタイトルにもなっていますけれども、「喜びは主のうちにある」と歌いました。これも少し考えてみなければなりません。私たちは、喜びというのは自分の中に、自分の心の中にあたえられるもの、と考えているのではないかと思います。喜びは、自分の心の中に入り込んで、自分の内側から働いて、私たちに満足感や幸福感を与えてくれるものとイメージすることが多いと思うのですが、この讃美歌は、喜びと主のうちにある。歌の歌詞にも「主に望みを置くものはとこしえのいのちを受ける」とあります。

主イエスが喜びなのです。この喜びの主に身をゆだねることによって、たとえ病の時があろうとも、貧しくなることがあったとしても、自分の状況がたとえ自分の願うものではなかったとしても、この主のところには常に喜びが備えられているのです。ですから、主に心を向け、主に期待をし、主から喜びをいただくことができるのだから、いつもこの主によって喜ぶ事をさせていただくことができる。何よりもこの主がそのことを願っていてくださるのだと、十八節の最後のところでも語られています。ですから、悲しみの現実に目をむけながらも、心を主に向けるときに、私たちはこのお方から慰めを見出すことができる。喜ぶことを教えていただくことができるのです。

今、祈祷会でヨハネの黙示録を学んでいます。先週は第二章の前半部分を学びました。エペソとスミルナの教会に宛てて語られた言葉を読みました。このスミルナの教会というのは、アジアの花と呼ばれた小アジア一美しい町と言われた商業都市であったそうです。そのような豊かな町の教会に、主が語られた言葉は「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている」という言葉でした。豊かな大都市、大商業都市の中で、この教会は貧しかったのです。おそらく、信仰のゆえに貧しさを強いられたのです。信仰に生きるようになった当時の人々は、自分の信仰が不正をしなければならないと分かった時に、その職業を捨てました。そのために教会に集う多くの人々は、実際に信仰のゆえに貧しくなったのです。けれども、この教会に向けて主は「しかし、あなたは実際には富んでいる」と語りかけられました。現実には貧しかったのです。そのために教会自体が苦しんだのです。けれども、神は自ら、あなたがたは本当は豊かな中で生きているのだと語られました。主自らが「わたしが与える豊かさの中に生きなさい」と語りかけられたのでした。

私たちは、自分に与えられている状況が改善することが、神さまの働きであると考えてしまいがちです。実際に富む者に変えていただける、病が癒される。自分が苦手としている人の心が入れ替わる。そうなったら喜ぶことができると考えてしまいます。もちろん、そう願いながら祈る事は大事なことです。けれども、私たちが知らなければならないのは、自分の願いがかなうことや、自分の理想の状況で生きることよりもむしろ、厳しい状況ではあっても、神がそこで支えてくださることを知る時に、私たちはそこで自分を失うことなく、勇気をもってそこに立つことのできる場所を得るということです。たとえ嵐の船の中にいたとしても、平安をもってそこに居続けることができる。それこそが、主が私たちにあたえようとしておられる喜びです。私たちは、厳しい状況の中にあっても、しっかりと立ちあがることができるのです。

パウロは「いつも喜びなさい」という励ましの言葉に続いて「絶えず、祈りなさい」と続けました。「絶えず、祈る」。大変なことです。

私がまだ神学生の時です。神学校の宿題で祈りについてまとめようとしていて、いくつも興味深いルターの言葉を見つけました。もう何の本に書いてあったのかすら忘れたのですが「祈りは短ければ短いほどいい祈りだ」と書いてあるルターの言葉を見つけたのです。この言葉は本当に考えさせられました。言葉の説明というのは長くなればなるほど意味は薄れていってしまいます。神さまのことを祈るときにもだらだらと祈るのではなくて、短く適切な言葉で祈ることのが大切なのかと考えたのです。

すると今度は、別の本の中でルターは、「私は一日に八時間祈っている」という言葉を見つけたので困ってしまったのです。一方では短いほうがいいと言いながら、もう一方では八時間祈っている。八時間というのは、労働の時間がだいたい八時間でしょうか。つまり、一日中祈っているというわけです。つまり、ルターの生活そのものが祈りだと言ってもよいのだと思うのです。

パウロは「絶えず祈りなさい」と言っています。もちろん、一日中ということではないでしょうし、八時間ということでもないでしょう。けれども、いつも神に向かって生きることはできます。それは短い祈りをすることもあれば、生活そのものが祈りということもあるでしょう。いずれにしても神の前で生きる生活です。祈りの生活です。それは、神の前に立っているという自覚なしには成り立ちません。

絶えず祈る。大変なことです。絶えず祈りの時間をつくる。つくれたらいいと思います。けれども、ルターの言葉を読んでいると、ルターの知っている祈りはどうももっと自由なものであるようです。ちゃんと寝る前に聖書を読んで祈る、朝起きたら聖書を読んで祈る。洗礼のための学びをする時に確かにそうやって学びます。それは大事なことです。けれども、気づいたら神さまの前に出る事が苦痛になってしまうのだとしたら、主が願っていることとは反対になってしまいます。働きながらでも祈ることができます。短い時間でも豊かな深い祈りをすることができます。それは、祈りを聞いておられる方との深い交わりなのです。

最後に「すべてのことについて、感謝しなさい」とあります。ここまでくると分かってきます。私たちの生活のすべてはこのお方なしになりたたないのです。まさに、すべての事の中に主が働いておられます。それは日ごとに喜びを備え、祈りの交わりの中においてくださることのなかに見つけ出すことができます。このすべてであられるお方に感謝することを他ならぬ、神が、私たちに望んでおられるというのです。

私たちが神に感謝すること、すべての事で感謝をする事は不当な要求ではないはずです。むしろ、実にささやかな願いと言ってもいいほどです。生活のすべての面で私たちを確かなところで立たせ、喜びに生きさせ、神との祈りの交わりを置くことによって、私たちと関わることを求めておられるお方が私たちに感謝を求めておられるのです。つまり、私たちが本当に喜び祈ることを求めておられるです。

ひとつひとつ生活の具体的なことの中にも、そして、私たちの存在そのものが支えられていることの中にも、神は私たちに関わっていてくださるのです。この神の供えられる喜びに立ち、私たちを自由にする祈りに生き、そのすべてに感謝をささげるとき、神は私たちを通してご自身の栄光をお受けになることができるのです。

お祈りをいたしましょう。

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