・説教 創世記19章1-38節「うしろを振り返ることなく」
2020.03.01
鴨下 直樹
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ここ連日、テレビをつけると新型コロナウィルスのニュースで持ちきりです。もう、誰もが専門家になったのではないかと言えるほどに、このニュースの話ばかりが取り沙汰されています。実に多くの人がパニックになっていて、トイレットペーパーもなくなるところが出ているとかいう報道を耳にしています。多くの人が疑心暗鬼になっている姿がここからもよく分かります。
そういう状況の中で、今日私たちは創世記19章のみ言葉に耳を傾けようとしています。 この物語の中心的な主題は神の裁きです。予期せぬ状況が目の前に迫ったときに、人はどう行動するのか。そのことがここで描き出されています。
ここで神に滅ぼされたソドムとゴモラがどれほど罪深いのか、それは、この箇所を読むと明らかです。この町は道徳的に腐敗していたのです。今日ではさほど罪悪感を感じることもなくなっている、さまざまな形の性的な不道徳がここで明らかになっています。そして、それを神はそのまま見過ごしにすることのできない罪であることをここで明らかにされています。
このソドムの腐敗ぶりは、わざわざこの聖書を丁寧に説明する必要もないほど明らかです。ここで、神が遣わされた二人の御使いは、ただ決然と事に当たっているのです。そこには、何の弁解の余地もなく、それらの人々が憐れみの対象にすら、もはやなっていないという事実を、私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか。
これらの不道徳を悔い改めることがないならば、それは罪としてそのまま残る。そして、その罪のために神はこの町を滅ぼされるという事実に、私たちは目を向ける必要があるのです。このような神の裁きを目の当たりにするときに、私たちは神を畏れます。しかし、ほとんど、私たちのこの世界は、この神を軽んじ、神に対する畏れを抱くこともないまま、罪の上にあぐらをかいて生きてしまっているのです。目の前に危機的な状況がなければ普段は平和で、本当に考えなければならないことから目を背けて生きているのが、私たちの日常なのかもしれません。
今、世界中がこの新型コロナウィルスのためにほとんどパニック状態に陥ってしまっています。カトリック教会は北海道と東京で礼拝を取りやめにしたというニュースも入っています。また、礼拝中止を検討する教会も出てきています。
確かに、政府の要請ですべての学校を休校にするように呼びかけているわけですから、このような反応は一方では理解できます。もし教会から感染が拡大してしまうならば社会からどれほど大きな攻撃が加えられるか分からないからです。人を守るための決断のために、全国の小中高の学校がひと月にわたって授業を止めて、自宅待機にするというのは、大きな決断であったと思います。そういう世の流れの中で、教会も同様に対応する。それは一つの社会に対する責任の取り方です。
ただ、そういう中で忘れてはならないのは、何よりも大切なことは、どんな事態に陥ったとしても、神を畏れる心を軽んじることはできないのだということです。例えばこの教会から被害が出て、実質建物が閉じられるようなことが起こったとしても、私たちは神への礼拝をやめるという決断はないのです。礼拝を取りやめている教会でも恐らく、形を変えて礼拝をしているのだと思います。たとえ場所や形を変えたとしても、神を神として礼拝をささげることが何よりも大切なことです。目の前に起こっている現象だけ見て、事の本質を忘れてしまっているのだとすると、本当のことが見えなくなってしまうのです。
この日曜から私たちは受難週を迎えています。まさに、受難について考えるちょうどいい機会を与えられていると言っていいと思います。かつて、教会は「メメント・モリ」という言葉をよく使いました。「死を忘れるなかれ」という言葉です。私たちは死すべき存在なのだということを、普段から忘れてしまっているので、死を身近に感じると慌てふためいてしまうのです。けれども、本当は私たちが身近に感じていようといなかろうと、それは常に私たちに突きつけられている問いなのです。そのことを忘れて、今大変なので礼拝もちょっとそれどころではない、となってしまうのだとすると、それこそがまさに問題となるのです。
アブラハムは、この出来事の前に、罪の世界に生きているソドムの人々のためにとりなしの祈りを捧げました。正しい人が罪人と同じように裁かれることなど断じてないはずだと、主に求めたのです。そして、主はこのアブラハムの求めに耳を傾けてくださいました。
ところがです。ここで当の本人であるロトが登場してきます。ロトは、13章でアブラムと別れた時、ソドムの町の外に天幕を張っていましたが、この19章を読むと町の中で生活しています。遊牧の民であったはずのロトが、なぜ町の中で生活するようになったのか、その経緯は想像するほかないわけですが、その答えはあまりにも簡単です。豊かな町の富と、ソドムの放縦な生活に魅入られてしまったのだと読み取ることができます。
ここに出てくるロトの発言や行為は、はじめだけは御使いを歓迎して迎え入れますが、翌朝早く町を去ることを求めたり、襲いかかってくるソドムの人々に結婚していない娘を好きにしていいと言ったり、もうそれは決して正しい人とは言えない姿が次々と明らかになっています。
この4節と5節でソドムの町の若い者から年寄りまで町の隅々からロトに家に押しかけて来た時も、「彼らをよく知りたいのだ」とあります。この言葉を新共同訳は「なぶりものにしてやるから」という翻訳がされています。それが、この言葉のニュアンスをよく表しています。それに対する言葉が、「娘を好きにしていい」という言葉になって表れるわけです。
もちろん、ロトは自分の家に迎えた客を守るためという大義名分はありますが、悪に対して、別の悪で応えるという方法は間違った決断だと言わなければなりません。
これは、相手が悪いことをしているんだから、こちらも悪いことで仕返しをするということにもつながりかねない考え方とも言えます。
ロトの振る舞いは、この後、主の使いがこの町を滅ぼそうとしているので、身内の者に知らせなさいと言われ、娘婿のところに行ってそのことを伝えますが、婿は「悪い冗談のように思った」として取り合ってくれません。その後も、御使いに急き立てられるのですが、16節で「彼はためらっていた」とあります。ロトも娘婿同様、本当に逃げる必要があるのか信じられなかったということがここから見て取ることができます。そして、ついに御使い自身が彼らの手を取って連れ出したということが、この後続いて書かれています。煮え切らないロトと、急き立てる御使いの姿、ここでもあまりにも対象的です。
そして、17節です。
「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから」
ともう一人の御使いが告げたと書かれています。
まさに、これから神の裁きのみわざが起ころうとするその時、ロトはこういうのです。18節。
「主よ、どうかそんなことにはなりませんように。」
そして、山までは逃げられないので、代わりに近くの町、ツォアルの町までにして欲しいと訴えるのです。ロトたちからしてみれば、どうして自分たちが救い出されようとしているのか、あまりよく理解していないという印象を受けます。
裁きの直前の緊迫した雰囲気に対して、ここに記されているロトたちはあまりにもマイペースです。そして、聖書を読んで感じるのは、このロトのわがままさを主がすべて受け入れておられる姿に、私たちは驚きを覚えるのです。
それは、もう最終電車が出てしまって、その後はもう電車で帰るチャンスはなくなるというような危機的な状況で、ノロノロと事を進め、最後には歩きたくないと言っているようなロトたちの姿に、誰も共感できないというのが、ここでの現状なのだと思うのです。このような、ただただ呆れるしかないロトのわがままさであるにもかかわらず、主なる神がそのわがままを聞き続けておられるのは、神の憐れみ以外の何物でもないのです。
それは、迷い出た一匹の羊を見つけるまで救おうとする羊飼いのように、アブラハムとの約束を果たすために、罪深いロトに対して示された諦めることのない救いの神の憐れみの行為なのです。このロトがアブラハムの子孫となったとは言えません。しかし、主はアブラハムとの約束を心に留められて、神の憐れみをこのように示してくださったのです。
興味深いことに、27節で、「アブラハムはかつて主の前にたったあの場所で」ソドムとゴモラの滅ぼされるさまを見たという報告が入れられています。アブラハムはロトがどうなったかという結末を見たことまで、ここには書かれていません。しかし、29節にこう記されています。
神が低地の町々を滅ぼしたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼしたとき、神はロトをその滅びの中から逃れるようにされた。
と記されています。まさに、このことを今日の聖書は読み手である私たちに伝えようとしているのだということが分かってきます。
この19章に記されている神の裁きの出来事は、神がアブラハムの言葉に耳を傾けてくださったので、ロトたち家族は救い出されたのだということを、ここで知らせようとしているのです。
ロトたち家族が決して正しい家族であったとは言えません。それにもかかわらず、ロトたちが救い出されたのは、アブラハムと約束を交わした神の憐れみによる。それが、この箇所で語られていることなのです。
そして、私たちはもう一つの出来事に心を向けることになるのです。それは、この神の救いはどうなったのかという、結果です。特に、ここで一節しか登場してきませんが、多くの人の心に残るのは、ロトの妻です。
ロトの妻は、このような神の救いの手立てが講じられているにもかかわらず、後ろを振り向くなと言われているのに振り返ってしまって塩の柱になってしまったと、この箇所は告げ知らせています。
最近では、「カリギュラ効果」というネーミングまでついているんだそうです。調べてみると、昔、ローマ皇帝のカリグラを題材にしたイタリア映画が上映されたそうですけれども、内容があまりにも過激で一部の地域で公開禁止になったのだそうです。そうすると、みんな禁止されると見たくなるというので、そこからカリギュラ効果という名前が生まれたんだそうです。この箇所もそうですし、善悪の知識の木の実を食べてはならないと言われたのも、そういう命令を守るのは無理だという、心理描写として説明されているようです。
ただ、世の中がこのように言葉をつけて、人間は弱い生き物なのだから禁止されると我慢できないのは仕方がないといって、この神の戒めを守らなくてもいいということにはならないのです。ここでロトの妻が見なければならなかったのは、これまでの生活ではなくて、救われた後、どうするかだったはずなのです。
キリスト者の詩人である島崎光正は、日本キリスト教詩人会というグループで出した創世記の詩集の中に、こんな詩を載せました。
ロトの妻
一瞬 ふりかえったばかりに
そこには 肉の鍋があったのだと
人の足音とざわめきは 常に聞こえていたのだと
さいころの目は 絶えず一つ足りなかったのだと
無花果の樹は 繁るにまかせていたのだと
逃亡の途中を うしろを振り返ったばかりに
その妻は 塩の柱になった
今も解凍の時を 待っているかのように
そういう詩が載せられていました。ロトの妻がどんな思いでうしろを振り返ってしまったのか、想像力を働かせながら、この詩人はこんなふうに言葉にしました。
肉の鍋が残っていた。人の足音がまだ聞こえている。そんな心の残りの言葉を記しながら、この詩人は、真ん中に、「さいころの目は絶えず一つ足りなかった」と書きました。なぜ、こんな言葉を書いたのだろうと、考えてみると私なりにこんな理解が頭に浮かんできました。「賽は投げられた」とよく言います。まさに、ここで神のさいころは投げられて、ソドムとゴモラに神の裁きの刑罰が下ることになったのです。その時に、絶えずさいころの目が一つ足りていなかったというのは、さいころの目が最後の目数に届くには、まだ目が足りていない、不十分だったはずだと、納得していないのだということを、こういう言葉で表したのでしょう。
アブラハムは50人からはじめて10人でそれ以上言うのをやめました。しかし、ロトの妻は、いやまだ足りていない、まだ大丈夫なはずだ。そう考えたのではなかったかという、この詩人の想像力です。
私たちは、そのように思い違いをしてしまうのです。まだ、大丈夫。まだ神様は怒ってはいない。まだ、神の裁きのみ業は起こらないのだと決めつけてしまうところがあるのです。それは、前に向かって生きるのではなく、いつもこれまであったものに惹かれて生きる生き方です。ロトの妻が見つめていたものは、これまでの歩みでした。それは、自分の道でした。神の示された道ではなかったのです。そして、そこに将来の望みはないのです。
では、残ったロトの娘たちはどうだったのでしょうか。彼女たちは確かに、これからを見据えていたはずです。これからの生活を見ようとしたのです。けれども、ロトの娘たちの目にも、神と共にある将来を描くことはできませんでした。自分で切り開く将来、そんな悲しさが、この二人の決断にはにじみ出ているのです。そこにもまた、希望はないのです。
けれども、憐れみ深い主は、この二人の決断の上にも憐れみを示してくださいました。ロトの娘の子をモアブと名づけた。これはその後、アブラハムの子孫と敵対する部族の名前です。しかし、そのモアブの子孫からやがてルツが出て来て、そのルツからダビデが生まれるという、神の救いの道を神はここから示してくださるのでした。
主は憐れみ深いお方です。主の救いの御業は、私たちの見えている部分にとどまらず、もっと大きな救いの御業をすすめておられるのです。ここで描かれているのは、神の裁きです。しかし、聖書はこの裁きを記すと同時に、神は救いのために人に憐れみをお示しになる、愛の神であることを同時に、私たちに伝えているのです。
お祈りをいたします。