・説教 詩篇119篇129-144節「み言葉の戸が開かれると」
2021.04.25
鴨下 直樹
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今日の130節にこういう言葉があります。
みことばの戸が開くと 光が差し
浅はかな者に悟りを与えます。
この詩篇119篇の中でも有名な言葉の一つです。このみことばが言おうとしていることは明らかです。聖書が分かるという経験は、まさに今まで真っ暗だったところが光に照らされていくという経験です。浅はかな考えが正されて、ものの道理が見えるようになるわけです。
この130節のみことばは聖書が分かるということの意味を語っています。ある牧師は、「分かって分かる」と言いました。どうしても、聖書は頭では分かるんだけれども、なかなかその本当の意味というか、心にまで落ちてこないという経験は誰もがしているのではないかと思います。けれども、みことばが開かれて、そこに光が当てられると、その分かって分からないという部分が、分かって分かるようになるのです。
では、その聖書の分からなさ、分からないという部分というのは、いったいどこになるのでしょうか。何が私たちの腑に落ちることを妨げているのでしょうか。色々なことがその背後には考えられます。
今、私は名古屋の東海聖書神学塾で、「聖書解釈学」という講義を教えています。聖書をどう読むのか、その基本的な学びです。その学びの最初に、私は加藤常昭先生の書かれた『聖書の読み方』という本をテキストにして、講義のはじめの数回ですが、みんなで読んでいます。
この本の中で、加藤先生が映画を見る時のことを例にあげて語っているところがあります。そこでは聖書の読み方のコツを語っています。泳ぎがうまくなかった加藤先生が、学校で一番早く泳げるようになったのは、泳ぎのコツをつかんだからだと言っています。ここで、その文章を少し紹介してみたいと思います。
ある人が映画をつくります。デザイナーが見に行って登場人物のデザインに感心したり、腹を立てたりしました。音楽好きの人は主題歌を一生懸命おぼえてきました。絵描きは色彩感覚の野暮なことでがっかりして、この映画はくだらないと言いました。外国の会話が上手になりたい学生は目をつぶって発音をできるだけ正確に聞きとろうとしました。
みんなそれなりに理由のあることでしょう。しかしそれだけで終わるのなら、だれもその映画を見たことになりません。はじめから見当ちがいだったのです。」
そんなことを言っています。自分の楽しみたいように映画を見るということでは、映画をちゃんと見たことにならないわけです。それと同じように、聖書を読むときのコツというのも、まず、自分の興味から読み始めるのではないということです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、案外私たちが聖書を読もうとするときに、何かその一日の目標になる標語のような言葉を探してみたり、行動指針のようなものを探して聖書を読むということをしてしまいがちです。けれども、そのような自分の都合で聖書を読むということが、聖書が分からないという原因であるということに気づかされます。
その本の中に、加藤先生が太宰治のことを紹介している文章があります。太宰治が死ぬ少し前に書いた「如是我聞」(にょぜがもん)という文章です。これは外国を旅した人が書く旅日記のことを語っている文章です。
これも少し紹介してみたいと思います。
醜い顔の東洋人。けちくさい苦学生。赤毛布(あかげっと)(あかげっとというのは、上着のかわりに赤い布団を羽織って外に出たという、田舎者を揶揄する言葉のようです)。オラア・オツタマゲタ。きたない歯。日本には汽車がありますの? 送金延着への絶えざる不安。その憂鬱と屈辱と、孤独と、それをどの『洋行者』が書いてゐたらう。・・・
みじめな生活をして来たんだ。さうして、いまも、みじめな人間になってゐるのだ。隠すなよ」
これは、加藤先生の文章ではなくて、太宰治が外国に行った人の経験談を読むときのことを、ここで語っています。少し時代を感じる文章ですが、言おうとしていることはよく分かると思います。では、なぜ、加藤先生が、聖書の読み方を教える本の中で、この太宰治のことを言っているのでしょうか。外国に行った旅行記のようなものを書いても、その人の姿が見えてこない。楽しかったことや美しかった景色のことは、書かれていても自分のことが書かれていない。そんな自分の存在を無視したかのような文章が、自分をごまかしているのではないかという指摘です。それと同じように、聖書を読んでも、そこに自分のことを読み取っていかなければ聖書を読んだことにはならないということです。
そこで加藤先生はこんなことを言っています。
自分自身を聖書の中に読まないと、聖書は読めないのです。自分と関係なしに聖書を読んでも、それは聖書を読んだことにはならないのです。聖書というのは、私たちと深くかかわってきます。この聖書の中に、私たちのあるべき姿が示されているからです。
そして、もう一つのことがこの本では書かれています。それは、簡単にお話ししたいと思うのですが、太宰治はよく聖書を読んだ人でした。マタイの福音書を読むのに三年かかったと言っています。けれども、その結果、そうできない自分に絶望してしまいました。
太宰治は、聖書を自分と関係あるように読んだのですが、やはりそれだけでも駄目だというのです。聖書は、どこを読んでも、そこにキリストの姿が示されています。神が人々にどのように介入なさったのかが記されています。聖書はキリストを通して示された神の救いの御業の歴史の書です。ですから、聖書を読むときに自分の姿を見つつも、そこから、キリストのお姿を見る、神の姿を知るということがどうしても必要だということなのです。そのように、聖書を読んでいく時に、聖書は私たちにとって頭で分かるだけでなくて、分かって分かるものとして、私たちに光が差し込んでくるのです。
聖書を読むコツ、それは、自分自身の姿をしっかりと見つつ、聖書からキリストのお姿、自分がそうなるようにと示されている主キリストのお姿を見るということが大事なのだとこの本は、私たちに訴えているのです。
よく、礼拝の祝祷で読む聖書の箇所で、アロンの祝祷と呼ばれる箇所があります。
民数記6章の24-26節です。
「主があなたを祝福し、/あなたを守られますように。/主が御顔をあなたに照らし、/あなたを恵まれますように。/主が御顔をあなたに向け、/あなたに平安を与えられますように。」
今日のところには、このアロンの祝福の中に出てくる「御顔を向け」とか「御顔を照り輝かせ」という言葉が出てきます。神の御顔が自分に向けられている、御顔の輝きを感じる。それは、まさに神に祝福されているという表現です。神がここに記されているように自分に心を寄せて下さっていると、どこで感じることができるのかというと、この詩篇の祈り手は、聖書から感じ取ることができるというのです。
みことばの戸が開くと 光が差し
浅はかな者に悟りを与えます。
みことばが分かるということが、いかに神からの祝福なのか、この神からの祝福は神の眼差しが自分に注がれているように感じるとここで言っています。浅はかさ、不法、虐げ、そういったネガティブなものから、みことばが与えられることを通して守られているのだと、ここで祈り手は告白しているのです。
また、137節から144節には、何度も「義」という言葉が出てきます。137節の「正しくあられる」というのも、「義」ということです。
神の戒め、律法は、義と深く結びついています。聖書は、神の求める義を、正しさを私たちに伝えるものです。
140節にこうあります。
あなたのみことばは よく錬られていて
あなたのしもべはそれを愛しています。
この「よく錬る」という言葉は、金属を精錬するという意味の言葉です。精錬することで不純物を取り除いていきます。神のみことばは、不要なものが取り除かれて、実によく錬られている。そう言っています。そう言えるということは、それだけみことばを味わうことができているからです。
それは、インスタントスープと濃厚なスープくらい違いがあるものです。そんなことを言うと、自分はインスタントでも大丈夫という方も出てくるかもしれません。確かに、インスタントスープくらいの味しか分からなくても、おいしいかどうかは分かります。その深みまでまだたどり着かなくても、大丈夫という部分もあります。けれども、それは同時に、さらに深い、より精錬されたものを知ることができるという、可能性もそこには秘められています。
神のことばの深さ、味わい深さをぜひ、もっともっと知って頂きたいのです。そして、神の義とは何か、神は何を私たちに伝えたいと願っておられるのかを知って欲しいのです。
それは、浅はかな者に悟りを与えてくれるものです。141節に記されているような、取るに足らない、蔑まれているような弱い者であったとしても、神はその者こそを義としたい、あなたは義であると見てくださるのです。
私たちの価値は誰が決めるのでしょうか。私たち自身なのでしょうか。それとも、私たちの周りにいる誰かなのでしょうか。そうではないのです。
私たちの価値は、他の誰でもない神が一番知っていてくださるのです。この神は、私たちに最高の価値を備えてくださいました。だから、このお方は私たちにいつも顔を向けていてくださるのです。御顔を私たちに照り輝かせてくださるのです。神は、私たちに無関心なお方ではないのです。私たちのことを神は放っておけないのです。何とかしたいのです。主のみことばを通してあなたを義とする。あなたは正しいのだと、自信を持って生きて欲しい、そう主は願っておられるのです。
だから、主は私たちにみことばを与えてくださるのです。私たちが生きていくために大切な義とは何かを、みことばを通して示してくださるのです。
みことばが分かるという経験、それは、神を知るということと同じです。主と出会うのです。私たちの主がどのようなお方なのかが分かる時に、私たちは、自分の価値を知り、私たちの大事にすべきものが分かるようになっていくのです。
みことばの戸が開くと 光が差し
浅はかな者に悟りを与えます。
これこそが、神が私たちにしてくださる祝福の御業なのです。
お祈りをいたします。