2022 年 11 月 27 日

・説教 ルカの福音書1章5-25節「良い知らせを伝えるために」

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2022.11.27

鴨下直樹

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 今日こうしてまた皆さんと共に、礼拝をささげることができることを嬉しく思っています。先週、私は入院していたこともあって病室からオンラインで礼拝に参加しました。私にとって、オンライン礼拝に参加するというのははじめての経験でした。確かに、画面越しに説教を聞くことができますし、礼拝の様子を見ることができます。便利になったものだと思います。

 ただ、同時にやはり物足りなさを感じるのも事実です。何よりも、教会の皆さんと顔を合わせることができない、みなさんと語り合うことができないというのは、オンライン礼拝の最大の欠点です。特に、私は入院中個室にいたということもありますけれども、ほとんどこの9日間誰とも会話をすることができませんでした。もちろん、手術の後というのは喉を傷めていますので、飲み込むときにかなりの痛みがあります。ですから、積極的に会話ができる状態でもありませんでしたので、教会にいたとしてもお話しできたか分かりません。

 今もオンラインで礼拝をされておられる方が一定数います。日本中の教会でも3割ほどの人が礼拝に来なくなったという報告もあるようです。オンライン礼拝というのは、便利ですが、どうしても人との交わりという部分、あるいは教会の愛の姿を奪うものとなってしまう要因になっていることは、大きな課題と言えます。

 私自身、この入院している間、それこそ誰とも交わりをすることができませんでしたから、この9日間、強制的に沈黙の時間を得ることになりました。この期間、私は何をして過ごしていたかと言いますと、病室でテレビをみたり、インターネットをしたり、本を読んだりして過ごしていました。入院というのはそういうものなのかもしれません。ただ、今から思うと、もっと違う時間の過ごし方があったのではないかと思っています。とても、怠惰な時間を過ごしました。
 
 そんな中で、今日のみ言葉を心に留めていました。ここに記されているのは、バプテスマのヨハネ誕生の秘話と言うべき内容が記されています。どうやって、ルカがこの物語を知ったのか、そのこともとても興味があります。

 ルカは、順序だてて書いていく中で、洗礼者ヨハネの誕生の出来事の背後に、大きな神の働きがあったことを知って、そのことをこのように記録しました。それはヨハネの両親の上に働かれた神の御業を記すことです。

 バプテスマのヨハネの両親は、ザカリヤとエリサベツと言います。ザカリヤは祭司をしていてアビヤの組に属しています。これはダビデが王様だった時に祭司を24の組に分けて、一年に二回それぞれの組で担当者になった祭司が一週間神殿の祭儀の奉仕をする当番になるようになっていました。このアビヤの組だけでも当時700人の祭司がいたそうです。その中で一年に2度しかチャンスが回って来ないのです。一度に何人が当番になったか分かりませんが、その担当者を決めるためにくじ引きをして神殿での奉仕に担当者に割り振られます。神殿の奉仕担当になった人は大変名誉なことだったようで、一度くじに当たると、次からはくじのリストから除外されていたようです。ですから、祭司としてのどれほどこの働きが名誉なことだったかが分かると思います。

 そんな、まさに祭司冥利に尽きると言ってもいいような奉仕をしていた時に、ザカリヤに主の御使いガブリエルがあらわれたというのです。この時、ザカリヤに語られた御使いのメッセージは13節から17節に記されています。

 最初の知らせはこうです。13節をお読みします。

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。

 この時天使がザカリヤに伝えた知らせは驚くような内容でした。ザカリヤとエリサベツには子どもは無かったようです。そんな中で、二人は子どもが与えられるように祈ってきたのでしょう。この祈りは若い時にしたのかもしれません。その時の祈りが、もう諦めていたのかもしれませんが、その願いを主は聞き入れてくださったというのです。しかも、その子どもは「主の御前に大いなる者となる」と15節で語られて、続く16節と17節では「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」と記しています。 (続きを読む…)

2022 年 11 月 20 日

・説教  「はこぶねの中で」鴨下愛

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2022.11.20

鴨下愛

 夜眠る時、目をつぶろうとする時、どうしたって怖くなって、不安になってお母さんを呼んだことはありませんか?私は小さい頃、夜になると、ここはベッドの上なのに、まるで小さなボートの上、暗くて重い霧の中、深い深い水の上を浮かんでるみたい。急に怖くなって、不安になって、泣き出してしまったことがありました。この世界はあまりにも広くて、知らないこといっぱい! 私の未来は、どうなるんだろうと怖くなってしまう、みなさんもそんな夜はありませんか。

 今日は子ども祝福式の礼拝です。神様の祝福があなたと一緒に、いつもかわりなく、今も未来にもありますようにとお祈りするのです。
 神様の祝福とは、いろんな意味がありますが、今日は一つ、「安心していられる」ってことを、ノアのはこぶねのお話から「はこぶねの中で」という題で、みなさんにお話ししたいと思います。

 まず上を見てみましょう。木材がきれいに組まれて、窓がほとんどなくて、ここはまるで大きな船の中のようではないですか? では船の中に私たちも乗っているって、ちょっと想像して聞いていてね。

 この絵の子どもたちは、うす暗い船の中で、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんのそばにピッタリすわって、じっとしていました。子どもたちはこの大きな船のことをはこぶねと呼んでいました。船の中はいくつもの小さな部屋に仕切られていています。どの部屋からも、動物たちの鳴き声が絶え間なく聞こえてきます。立ち込める動物の匂い。もう40日も雨が降り続けています。その間ずっと波の上を漂い続けていました。

 時々ノア爺さんが、小さな窓を開けて外をうかがいました。けれどそのたびにすぐに窓を閉めなければなりません。大粒の雨が吹き込んできてしまいます。
 「まだ、やまないのね」お母さんたちがため息をつきました。
 「だいじょうぶだ。心配いらないよ」ノア爺さんがなだめるように言いました。
 「でもノア爺さん、いつ、この雨はやむの?いつになったらこんな生活からぬけだせるの?いつになったらこの苦労はむくわれるの?」
 みんなが不安になるのも、仕方がありません。大海になってしまった世界で、ポツンと一隻この箱舟は、行く目的地がないようにさまよっているのですから。
 
 なぜこんなたいへんなことになっているのでしょうか?

 それはこういうわけだったんです。

 神様は世界を造られ、アダム、エバと名付けた、人を作られました。でも人の心に罪が生まれました。人間も動物も世界中に増え広がるといっしょに、神様を悲しませる罪も増え広がっていきました。

 罪とは、差し出された神様の手を振り払うことです。愛されて造られたものが、つくり主に「あんたに造られた覚えはない」ということです。神がいては自分の好きにできないと思って、神などいないことにして生きるのです。しかし神様がいないので自分のことは自分でなんとかしなければなりません。人は心から安心することができなくなりました。安心できないので、戦います、傷つけます、奪います。いつのまにか世界に強い人と、弱い人が分けられました。あたりまえにお金持ちと、貧しいひとが分けられました。それが罪の増え広がった世界です。

 そんな中で、ノアだけ違っていました。

 もうお爺さんですが、いつも安心しています。なぜかというと神様を知っていたからです。知っているだけじゃなくて、小さい子どもが、お父さんお母さんにやっていいことか悪いことか聞くみたいに、神様に心を向けていました。お父さんお母さんが私をちゃんと見守っていることを確かめるみたいに、手をつないでもらって安心して歩いていけるみたいに、ノアは神様を信頼していました。

 ある日神様はご自分の子どもに話すように、ノアに言われました。
 「ノアよ、わたしはこれから大雨を降らせる。すると大洪水が起こるだろう。この世界の罪を、洗い清めたいのだ。しかし私はあなたと家族を救う。今からあなたは箱舟を作りなさい。大きさも、作り方も、乗せるものも全部私が言った通りにしなさい」 (続きを読む…)

2022 年 11 月 13 日

・説教  ローマ人への手紙8章35-39節「キリストの愛」

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2022.11.13 召天者記念礼拝

鴨下直樹

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 今週、水曜日から金曜日まで掛川で行われました、「CPIカンファレンス」という会議に参加してきました。CPIというのは、「チャーチプランティング・インスティテュート」と呼ばれるもので、日本にいる多くの宣教師たちが集まるカンファレンスです。今回も400名ほどの方々が参加していました。

 その中の一つの講演で面白い話を聞きました。それは、人が人生の危機を経験するときに、三つの質問をすることで、問題点が明らかになるというのです。

 一つは、「自分が何者であるのか?」という質問です。二つ目の質問は、「自分の目的は何か?」「ゴールはどこか?」です。そして、三つめは、「自分はどこに所属しているか?」というものです。

 これはキリスト教の話ではなくて、どのジャンルでも共通することですが、この3つの問いで問題点が明確になるというのです。

 そもそも、私たちが人生の危機を迎えるというのは、どういう時でしょうか? よく言われるのは、自分の人生が大きな節目を迎える時です。学校を変わるとか、新しい勤め先に変わるとか、結婚をするとか、退職するとかいうような、人生の大きな節目を迎える時です。

 あるいは、仕事の中でトラブルを抱えて、優先順位が分からなくなってしまうというようなこともあるのかもしれません。

 自分の存在そのものを問う、自分の目標を問う、そして、自分の関係を明らかする。この三つのことは、自分の身に起っている問題の答えを私たちに与えてくれるといいます。

 今日、召天者記念礼拝のために、私たちはここに多くのご家族の方々をお迎えしております。コロナのために、礼拝にお招きすることを控えていたのですが、今年は3年ぶりにご家族のみなさんを礼拝にお招きしました。こうして、多くの方が集ってくださって、天に召された方々の事を心に留め、また私たち自身のいのちの意味を考える時が与えられています。

 私たちにとって大きな危機を迎えるのは、何と言っても家族の死です。今まで共に生きて来た最愛の家族を失うということは、大きな喪失感を私たちの心にもたらします。そして、それと同時に、人は死んだらどうなるのだろうか? そもそも、自分は何のために生きているのだろうか? これまで関わって来た人たちとの関係はどうなるのだろうか? そんな思いが浮かび上がってきます。そんな、まさにこの三つの問いを、ご家族を失った時にもいろいろと考えられるのかもしれません。そして、悲しみに暮れる中で、明確な答えが出ないまま、時間が過ぎて行くということも経験するのです。

 この3つの問いかけは、その人の年齢や、経験の差によって答えが違ってくるのかもしれません。 (続きを読む…)

2022 年 11 月 6 日

・説教 ルカの福音書1章1-4節「私たちの間で成し遂げられた事」

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2022.11.06

鴨下直樹

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 今日は信長祭りがこの岐阜市で行われています。朝はそれほどひどい渋滞ではなかったようですが、岐阜駅の近くからこの礼拝に来られた方は大変な渋滞を通って、教会にたどり着いたのではないでしょうか。今回の信長祭りは三年ぶりに行われまして、そこで行われるパレードに俳優の木村拓哉さんが出るのだそうです。かなり大きなニュースになりまして1キロのパレードの観覧者席1万5千人のところに96万人もの応募があったという話です。

 来年の1月にどうも織田信長の映画があるのだそうで、その宣伝も兼ねているのだとか。これまで、この織田信長をテーマにした映画や小説は沢山あります。私も歴史小説を読むのが好きなので、何冊も織田信長の小説を読みました。こういった歴史を扱う作品は、それなりに歴史的な事実関係を調べたうえで、そこに小説家の独自の解釈をしながら、信長像を作り出していきます。この解釈に基づいて作家たちはさまざまなエピソードを創作しながら物語の違いを生み出してきます。そういった意味では、今度の織田信長の映画もどんな物語になるのか、とても楽しみです。

 さて、何で信長祭りの話を冒頭にしたかといいますと、まさに今日からしばらくの間、共に聞いていきたいと思っているこのルカの福音書の特徴も、このことと関係があるからです。ここに記されているのは、主イエスが言ったこと、行ったことの記録です。「歴史」というのは、実際に起こった事柄ですが、それは書き残された記録によって知ることができます。この歴史の記録というのは、事実を記録していくのですが、その内容にはさまざまな記録があります。信長にはどういう部下がいたとか、兵隊が何人いたとか、石高はどうだったとか、どの地域で反乱がおこったとか、誰が武功を上げたかという記録です。あるいはそこで起こった事件なんかを発見された手紙などから読み取っていきます。

 歴史を読み解く人たちは、そのようなさまざまな記録を読み取っていくうちに、そこからおぼろげに見えて来る「信長像」というものを見出していきます。小説家たちは、その自分が掴んだ信長像に、さまざまな物語を付け加えることで、強調点を明確にし、そうであったという説得力を生みだしていくのです。歴史小説の面白さは、そのそれぞれの作家の豊かな想像力によって脚色された信長を楽しむことができるところにあります。

 そういう意味では、この聖書も神が働かれた事実を記録した歴史の証言です。特にこのルカの福音書は、歴史家と言われるようになったルカが記したものです。この記録を、現代の説教者たち、牧師たちが、この聖書を読んで解釈して伝える「イエス像」も、また「説教」も、小説家の記す小説に、似ている部分があるかもしれません。

 歴史の記録を読んで、解釈して、他の人に伝えるという意味では行う作業は非常に似ています。ただ、小説と、説教が決定的に違うことがあります。神が記録された歴史の書でもある聖書には、神からのメッセージ、使信があって、それを聞き取って、まさに神の名によって宣言することが説教です。ですから、聖書を読むという作業は、歴史書を読み説く作業も当然するのですが、そこから更に、神の言葉を聞き取るという作業が出てきます。そして、そのために牧師たちは神学校で、その方法を学び、身に付けていくのです。そうやって、ただの歴史を解釈するだけではなく、神の言葉を聞き取る訓練をしていくのです。これは、牧師だけでなく、みなさんも同じように神の言葉を聞き取る訓練をすることで聖書の中にある神の言葉を聞き取ることができるようになります。

 少し余談になりますが、祈祷会で行っている聖書の学びは、聖書をこうやって読むんですよ、神の言葉をこうやって聞くんですよということをみなさんと毎週、その訓練を積み重ねているということになります。ですから、ぜひ聖書を自分で読めるようになりたいと願われる方は、聖書の学びと祈り会に出ていただきたいと思います。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、このルカの福音書を記したルカという人物について、少し考えてみたいと思います。この福音書は、主イエスと出会ったことのないルカというマケドニア出身の医者が記したというところに特徴があります。

 ルカは、パウロの第二次伝道旅行の時に加わった人物で、マケドニアの出身です。ユダヤ人ではなく異邦人です。このルカはパウロの語る福音を聞いてキリスト者になった一人です。当然、主イエスに会ったことはありませんし、自分に福音を伝えてくれたパウロもまた、主イエスと共に歩んだ弟子ではありませんでした。

 しかし、このルカという人は、パウロの語る主イエスのことを聞けば聞くほど、ちゃんと調べてまとめてみたいという思いを持ったのでしょう。

 出来たばかりの教会には、はじめは主イエスの弟子たちや、復活の証人と呼ばれる人たちがいました。第一コリント人への手紙の15章3節を読みますとこう記されています。 (続きを読む…)

2022 年 10 月 30 日

・説教 ヨナ書4章1-11節「あわれみ深い神」

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2022.10.30

鴨下直樹

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 今日の説教題を「あわれみ深い神」としました。説教題としてはこれでいいと思っていますが、ヨナの側面も入れるとすれば「不愉快なヨナとあわれみ深い神」とした方が良かったのかもしれません。

 このすぐ前の3章10節で、神はわざわいを思い直されたと書かれています。このヨナ書に記されている神の姿は、この説教題にあるように「あわれみ深い神」で貫かれています。
このお方は、ニネベの民に対しても、ヨナに対してもあわれみ深いお方としてご自身を示しておられます。

 さて、その主に対して、今日の4章は冒頭でこう記しています。

ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、に祈った。

 あわれみ深い神の御前で、ヨナは、非常に不愉快になり、怒って、祈ったのです。この言葉を読むと、ヨナの預言者としての資質に疑問を投げかけたくなります。主の御言葉を預かる者が、あわれみを示される主に対して、非常に不愉快になって、怒って、祈るということがあっていいのでしょうか。

 ここを読むと、主はこんな感情をむき出しにしているヨナさえも受け入れて、その祈りを聞いてくださっています。

 2節に続いてこう記されています。

ああ、よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。

 ヨナははじめからすべて分かっていたというのです。だから逃げた。神様の命令に従いたくなかった。それは、主があわれみ深いお方だから。情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かでわざわいを思い直される主。あなたはそのようなお方だから、私はあなたの命令に聞き従いたくはなかったと言ったのです。

 ヨナは、深い海の底にいた時も、魚の腹の中で祈った時も、ニネベの町で説教していた時も、ヨナは内心、ニネベの人たちは滅びてしまえばよいとずうっと考えていたのだと、ここに来て告白するのです。

 ヨナは、主が本当にいつくしみ深い方であることを、よく理解していました。その信仰に間違いはありません。けれども、自分としては、あわれみ深い神さまのなさることを、認めることができないのです。

 そして、続いてこう言うのです。3節。「ですから、よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです」と。

 神様のお考えである、アッシリアの首都ニネベの人たちを救い出そうとされるあなたのお考えに、私は同意することができません。これが、ヨナの結論です。

 ヨナは、イエスマンではない。自分の信念に合わない時は、相手が誰であろうとも、言いたいことは言う。神のお考えであったとしても、私はNoと言わせていただきます。そして、自分のいのちをその代わりに犠牲にする覚悟もありますというのです。

 幕府に逆らう赤穂浪士か、はたまた長州藩の桂小五郎や、薩摩藩の西郷隆盛かと言えば聞こえはいいのかもしれません。イスラエルの正義が守られるためなら、たとえ神であっても物申すという姿は、立派といえば立派です。しかし、このヨナの話は決して美談ではないのです。神の御心が、あわれみ深さがこれほど明らかに示されているのに、そして、ヨナは預言者であるのに、主の言葉に同意することができないのです。

 この時、主はこう答えられます。4節です。

あなたは当然であるかのように怒るのか。

 ヨナはこの主の言葉をいったいどのように受け止めたのでしょうか。とても、興味深いことですが、ヨナはこの主の言葉を受けて、何を考えたのか都の東側に向かい、仮小屋を建てて、これから何が起こるか見極めようとしたと書かれています。ヨナの頭の中がどうなっているのか分かりませんが、ヨナはきっと自分の言い分を神は受け入れて下さって、ニネベを滅ぼされるはずだと信じたということなのでしょうか。 (続きを読む…)

2022 年 10 月 23 日

・説教 「ワン モア チャンス を与える神」

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2022.10.23

鴨下直樹

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 今日は、ヨナ書の3章です。主によって三日三晩、魚の腹の中で守られたヨナは、陸地に吐き出されてからどうなったのでしょうか。

 よく、絵本などではニネベの海岸にでも打ち上げられたかのように描かれているものがありますが、ニネベの町は内陸の町です。

 今日の1節にこう記されています。

再びヨナに次のようなのことばがあった。

 この1節の冒頭の言葉に「再び」とあります。今日の説教のほとんどが、この「再び」という言葉の持つ意味を考えることになると思います。

 聖書を読んでみますと、この言葉は、特に何も感じることのない言葉のように響くかもしれません。しかし、この「再び語り掛けられる主」にこそ、主の愛と恵みが満ちているということができるのではないでしょうか?

 主の御顔を避けて逃げたヨナの心はかなり頑なです。前回の2章の祈りも「及第点の祈り」と言いました。ヨナは、主の愛の心をつかむことができないでいます。確かに、ヨナの心は主に向かっています。ヨナは主を愛しています。それは間違いありません。けれども、「親の心子知らず」という諺が、まさにこのヨナには当てはまります。主の深い愛、敵をも愛される主の愛の大きさを、ヨナは理解することができないのです。そのために、反旗を翻して主の御顔を避けて、遠い地に向かったヨナは、嵐に遭い、くじ引きの結果海に投げ入れられて、再び陸地に立たされるのです。

 さて、そこからヨナの第二章がはじまります。そこで、聖書は「再びヨナに次のようなのことばがあった。」と記すのです。

 前のことはまるで気にも留めていないかのように、主はヨナに語り掛けたのです。

 聖書の神は、失敗を許さないお方ではないのです。そして、この主は、失敗した時に、「何でこんなことをしてしまったのか!」と問いただされることもしません。まるで、何事もなかったかのようにヨナに「再び」語り掛けるのです。

 神は、ワンチャンスしか与えない神ではなく、ワン モア チャンスの神であると、ある日本の伝道者が語った説教を聞いたことがあります。青年時代の私の心に深く刻まれた言葉となりました。私たちの主の前に、私たちは失敗を恐れなくても良いのです。

 今という時代に生きている私たちは、人生一度きり、その人生を失敗しないようにというのが、この世の知恵として語られています。

 一度犯した過ちは、後になって明らかになる。その恐ろしさを私たちはよく知っています。最近のニュースになる出来事はみなそんなニュースばかりです。かつて、ある宗教団体に肩入れした政治家が、何人も明らかにされて、国会で追及されています。SNSで何の気なしにつぶやいた言葉が、炎上して、そこからその人が世間から攻撃されるというニュースは毎日のように語られています。すぐ終わると思った戦争もなかなか終わりを迎えません。

 一度、道を踏み外すと、それは思いもよらない結果になって、自分の身に降りかかって来る。この世界は、道を踏み外した人に対して寛容な世の中ではありません。断罪し、追及して、人の目にさらして、この世界から抹殺しようというのが、この愛のない世界の一つの姿です。それは、間違いないことです。だから、人々は周りの顔色を恐れ、他人を信頼せず、できるだけ人間関係を小さくして、人に迷惑をかけないように、誰からも何かを言われないように、最小限の自由を求めて、小さく生きる。それが、この世界の賢い生き方であるかのようになってしまっています。 (続きを読む…)

2022 年 10 月 16 日

・説教 ヨナ書2章1-10節「ヨナの祈り」

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2022.10.16

鴨下直樹

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 海に投げ込まれたヨナは、気が付くと魚の腹の中にいました。それも、三日三晩と書かれています。かなり長い間です。その間、ずっと闇の中です。この暗闇の沈黙の中で、ヨナは何を思い、何を考えたのでしょうか。

 このヨナ書の2章に記されているのは、ヨナの祈りです。ヨナは魚の腹の中で、ここまでの出来事を思い起こして、自分が生きていることに驚きながら、神への感謝の祈りをささげているのです。

 今日の2節から6節の中で、ヨナは自分がどのような中で救い出されたのかを思い起こしています。

 2節を見てみましょう。

「苦しみの中から、私はに叫びました。
すると主は、私に答えてくださいました。
よみの腹から私が叫び求めると、
あなたは私の声を聞いてくださいました。」

 先週、私は「先行する神の恵み」という言葉を紹介しました。神の救いの恵みは、私たちの祈りに先立って備えられているという話です。これは、神の側でのことです。そして、ここではヨナから見るとどうかということが記されています。ヨナは自分が祈ったので、主が救ってくださったと考えていることが分かります。これは、私たちにもよく分かることだと思います。

 私たちは、祈ったことへの感謝を神に祈ります。私たちはこうして、神のことを知っていくのです。

 ヨナの祈りはここで、船から投げ出されてからのことがかなり詳しく記されています。

 3節です。

「あなたは私を深いところに、
海の真中に投げ込まれました。
潮の流れが私を囲み、
あなたの波、あなたの大波がみな、
私の上を越えて行きました。」

 まず、ヨナはここで、主が私を海の真ん中に投げ込んだと祈っています。実は、この祈りの中には、ヨナのこういう私は悪くないという言葉をいくつも見つけることが出来ます。主が私を船から投げ込まれた。自分の責任ではないということをまず、ここで語っています。そして、神によって自分は海に放り込まれてから、波におおわれ、喉が苦しくなって、波に、しかも大きな波に飲み込まれていったと、この時の状況を語り出していきます。

 さらに、ヨナはこう祈ります。4節です。

「私は言いました。
『私は御目の前から追われました。
ただ、もう一度、私はあなたの聖なる宮を
仰ぎ見たいのです。』」

 ここでも、ヨナは、「私は御目から追われました」と言います。神様が、私をタルシシュへと追いやり、海へと追いやったと言うのです。自分が、主の御顔を避けた事実などなかったかのように言うのです。私は、敵であるアッシリアの首都であるニネベに行けと命じられたら、私にこの土地から出て行けといわれているようなものだと、ヨナは感じたままを正直に語っています。死を目の当たりにして、綺麗ごとを言っても仕方がないからです。ただ、そんな死を覚悟した時に、私は思った。やはりもう一度主の神殿を見てみたい。主と顔を合わせて礼拝したかったなと思ったと。ヨナは主を神殿で礼拝していた時の喜びを思い起こしたのです。 (続きを読む…)

2022 年 10 月 9 日

・説教 ヨナ書1章11-17節「大きな魚を備えるお方」

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2022.10.09

鴨下直樹

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 ヨナの物語の中に、それほど多くの登場人物は出てきません。この1章には、主とヨナ以外の登場人物として水夫、船乗りたちが登場します。この人たちは、神に逆らったヨナに巻き込まれてしまった人たちです。特に、深い信仰心があったわけでもありません。嵐を経験した船を何とかしようと、荷物を捨てて、船を軽くし、それぞれの神に祈るように懇願し、この嵐の原因を探ろうとくじ引きをします。

 自然災害を前に、自分たちのできることはとにかく祈ること、そして、原因探しをすること。あとは出来る限りのことをするだけの人です。
 
 この前のところで、「恐れ」という言葉が二度使われています。それは、この時の船乗りたちの心理を表す言葉として使われています。

 最初に出てくるのは5節の「水夫たちは恐れて」という言葉です。この恐れは前の4節を読むと、よく分かります。「主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。」とあります。

 激しい暴風のために船が難破するのではないか。このままでは自分たちのいのちが危ういという恐れです。

 その次に出てくるのは前の10節で、「人々は非常に恐れて、彼に『何ということをしたのか』と言った。」とあります。この時の水夫の抱いた恐れは何であったかというと、ヨナが天地を造られた主の命令に逆らって、主の御顔を避けて逃げて来たというところから生じた恐れです。言ってみれば、この恐れは「宗教的な恐れ」と言えます。「何て罰当たりなことをしたのか」という恐れです。

 ここまでのところを見ると、この水夫たちに信仰心があったようには見えません。ごく一般的な人の反応が記されているといえます。

 ここで私たちが知る必要があるのは、ここで起こっている嵐の背後に、神が働いておられるということです。

 神から顔を背けているのはヨナです。そして、このヨナのとばっちりを受けているのが水夫たち異邦人です。この嵐という出来事の背後に、神が働いておられます。神はここで、ヨナを見ているのだということを、ヨナに知らせておられるのです。

 多くの人は、ここで神が罰を当てておられる、神に逆らうなんて、なんて愚かなことを思うのです。この水夫たちもそうでした。しかし、そこで私たちが気づく必要があるのは、私たちの損得ではありません。神の思いがあるという事実に目を向けることです。神の思いは、私たちが受け取るメッセージとはかなり違っているのではないでしょうか?

 さて、今日の私たちに与えられている聖書箇所の11節から、この水夫たち、船乗りたちの中に変化が起こっていきます。ヨナ書はそのことをとても丁寧に記しています。 (続きを読む…)

2022 年 10 月 2 日

・説教 ヨナ書1章1-10節「主の御顔を避けて」

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2022.10.02

鴨下直樹

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 今週から、私としては珍しく、旧約聖書の小預言書の中にあるヨナ書の講解説教をしていきます。以前、祈祷会でこの箇所を扱ったことがありますし、家庭集会などでも行ったことがありますが、それも10年ほど前のことです。今日から、改めてこのみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。

 ヨナ書というのは、旧約聖書の中でも比較的有名な箇所です。この12小預言書の中でも、唯一と言っていいくらい、よく取り扱われます。子どもの絵本などにもなりますし、教会学校などでも取り上げられています。ただ、だからと言って、ここで語られているテーマが、よく理解されているわけではありません。

 物語は魅力的です。海に投げ込まれたヨナが魚に呑み込まれる場面は、知らない人がいないほどで、ピノキオにもそんなところが出てきたりするほどです。

 さて、聖書の中ではこのヨナ書というのは、神の啓示の新しい段階を描き出しています。それは、イスラエルの敵の国であるアッシリアに、預言者を遣わすという神の言葉からはじまっているからです。

 アミタイの子、ヨナは第二列王記14章章の25節にその名前が出てきます。北イスラエルのヤロブアム2世が王様の時代の時の預言者です。この後、数十年後には、北イスラエルはアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます。そんな時代です。そして、この神がヨナを遣わそうとしたのは、イスラエルの敵国であるアッシリアの首都、それがニネベと呼ばれる町です。地図で確認したい方は新改訳聖書2017の後ろにあります「地図の7」を見ていただくと、ニネベの場所がすぐに見つけ出せると思います。

 このニネベについては、ヨナ書の少しあとにナホム書というところがありますが、そこにこんなことが書かれています。ナホム書の3章の1-4節を読んでみたいと思います。

わざわいだ、流血の町。
すべては偽りで略奪に満ち、
強奪はやまない。
むちの音。車輪の響き。
駆ける馬。飛び跳ねる戦車。
突進する騎兵。
剣のきらめき。槍のひらめき。
おびただしい戦死者。山なす屍。
数えきれない死体。
死体に人はつまずく。
これは、遊女の淫行の数々に、
呪術を行う女の麗しさによるものだ。
彼女はその淫行によって国々を、
その呪術によって諸部族を売り渡した。

 ここに記されているのは、ヨナの時よりも時代は少し遅いのですけれども、ニネベという町がどんな町であったかがよく分かります。人々は攻撃的で、戦争に明け暮れ、道徳的にも、宗教的にもかなり腐敗している町だったのです。

 こういう国は、神の御心ではない異教の国々でしたから、それまでの聖書の考え方で言えば、滅んでしまっても問題のない国でした。ところが、このところから、神の啓示のなさり方が少し前に進みます。

 神は、ヨナに向かって、こう告げます。2節です。

「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」

 神は、預言者ヨナに、アッシリアの首都であるニネベに行って、彼らの悪を悔い改めるように語るよう命令されたのです。これは、ヨナにとって考えられないことでした。これまでの神の語ってこられたことと、まるで違うことを要求されたからです。これまでは徹底的にイスラエル中心でした。異邦人の国が悪い国なのは当たり前のことでしたから、さほど気にも留められてこなかったのです。

 それで、ヨナがどうしたかは、私たちは聖書を読んで知っています。3節です。「しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした」のです。

 ここに「主の御顔を避けて」という言葉が記されています。今日の1節から10節の中に3度も記されています。これは、明確なヨナの神の要求に対する「No!」という意思表示です。

 「主の御顔を避ける」というのは、主を見上げることをやめるということです。信仰を捨てるというような意味と同じと考えてもよいと思います。

 ヨナが行こうと思っていたタルシシュというのは、新改訳2017の最後にある地図15に「イスパニア」という地中海の一番はずれの国があります。ここにある国だと考えられています。この時代で言う世界の果てです。神から遠く離れて、自分がこれまで生きてきた愛する祖国を捨ててでも、神の命令を忘れて生きることをヨナは選び取ろうとしたのです。

 「そんな命令に従うことは絶対に嫌」それが、ヨナのこの時の思いだったのです。

 どうしてなのでしょう。なぜ、ヨナはそう考えたのでしょう。ニネベは敵の国です。その国に行って、悔い改めを語ることは、ヨナとしては何としても阻止したいと思ったのです。最後の4章の2節で、ヨナはその時何を考えていたか、こう告げています。 (続きを読む…)

2022 年 9 月 25 日

・説教 詩篇57篇「私をあわれんでください」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:10

2022.09.25

鴨下直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

私をあわれんでください。

 今日、私たちに与えられている聖書の言葉はこの祈りの言葉からはじまっています。

 皆さんは、お祈りをするときに、何を祈っているでしょうか。どのように祈っているでしょうか。

 日ごとの感謝の祈り、あるいは、何か困ったことが起こった時に神に助けを求める祈り、毎日の神様との交わりの祈り、誰かのための執り成しの祈り、などいろんな祈りがあると思います。

 そこで、もう一度考えたいのは、自分と神様との交わりの祈りはどうでしょうか? 私たちは自分のことを神の御前に心を注ぎだして祈っているでしょうか。今日はそのことを考えてみたいと思います。

 お祈りをするとき、私たちはお金も求められていなければ、何か特別なことを要求されているわけでもありません。いつでも、どんな時でも私たちは神に祈ることができます。それなのに、神様と深い関係、どんなことでも祈ることができる関係にまだなっていないのだとしたら、それはとても残念なことです。

 今日、ここに記されている祈りの言葉は、祈りの極意と言ってもいいほど、祈りの本質を表しています。

神よ。私をあわれんでください。

 この祈りの中に、私たちは深い神との交わりを発見することができるようになります。

 この詩篇57篇の祈りには表題がつけられています。

指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。

 こんなふうに書かれています。おそらく、この詩篇がイスラエルの人々に歌われていた頃には、「滅ぼすな」というメロディーがあったのでしょう。そのメロディーでこの詩篇を歌います。そんな楽譜に書かれた指示のようなことが表題に書かれています。「ミクタム」というのは、意味が良く分かりませんが、記念碑の「碑」とギリシャ語の七十人訳聖書では訳されております。「黄金」という言葉と似ているので、「黄金の歌」というように説明されることもあります。

 特に大切なのはその後です。「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」とあります。

 ダビデはサウル王に追われて逃げて洞窟にいた時というのは、第一サムエル記の22章に出てくる「アドラムの洞窟」にいた時と、24章の「エン・ゲディの荒野」にいた時と二度聖書には記されています。22章では、その洞窟に続々と仲間たちが集まって来て400人の仲間になったことが記されています。この時、ダビデのことを助けた祭司アヒメレクの家族がサウル王によって皆殺しにされてしまうことが記されています。24章ではダビデたちの隠れている洞窟に、サウル王が用を足しに来た時、サウルを殺すチャンスがあったのですが、ダビデはそれをしないで、上着の裾を切り取っただけで、サウルを助け、自分に敵意はないことを知らせたことが記されています。それを聞いたサウルは、この時はダビデに誓いをさせて、帰っていきます。

 この二度の出来事を通してみても、ダビデは何度もサウルに追われて、危機に瀕していたことがよく分かると思います。この時の出来事がこの祈りの背景にあるようです。

 ダビデがこのサウルに追われていた時の祈りという内容の詩篇は、詩篇の中に沢山あります。ダビデの詩篇と言われているものの多くが、ダビデが絶体絶命の危機に瀕している時のことが歌われているのです。

 問題は、まさにそういう時に、私たちはどのように神に祈るのかということです。こういう時に、私たちの神への信仰が明らかになるのです。 (続きを読む…)

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