2020 年 11 月 29 日

・説教 詩篇139篇「神の栄光」

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2020.11.29

鴨下 直樹

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2020 年 11 月 22 日

・説教 詩篇126篇「収穫の喜びを期待して」

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2020.11.22

鴨下 直樹

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 今、オンラインで水曜日に「ざっくり学ぶ聖書入門」を配信しております。水曜日の聖書の学び会に集えない方のために、自宅からでも見てもらえるようにということで10月から始めています。できるだけ、一回1時間で各書簡をざっくりと紹介したいと思っています。

 先週は、民数記の学びをしました。民数記というのは、レビ記と並んで、聖書を読み始めると、途中で止まってしまう難所の一つです。特に前半には、何々部族、何万何千何百人というカタカナと数字の羅列が続くので、もう読みたくなくなってしまうようです。ご経験のある方も少なくないと思います。

 この民数記というのは、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出してからの40年の荒野の旅のことが、まるまる記されています。読み進めれば面白い箇所がいくつもあるところです。私は、旧約聖書はあまり得意ではありませんので、この配信のために、一週間のかなりの時間をかけて準備をします。特に民数記は大きな出来事がいくつも記されておりますので、できるだけ短くまとめながら、分かりやすく説明したいと思うので時間がかかってしまうのです。

 ただ、そうやって時間をかけて民数記を読んでいますと、際立っているのは、イスラエルの民の身勝手さだということにどうしても目が留まるのです。わがままなのです。エジプトの奴隷の状態から救い出されたにもかかわらず、何か困ったことがあると、エジプトの方が良かったと、すぐに不平をこぼすのです。

 一度や二度ではありません。十回や二十回というような頻度です。いや、もうほとんどずっと文句ばかり言っているわけです。そして、その都度、神はそのイスラエルの民のわがままな要求に応え続け、救いの道を示し続けておられることが記されています。

 民数記を読んでいて考えさせられるのは、神の忍耐強さです。もちろん、そこには、何度も民を裁き、懲らしめる姿が記されているのですが、けれども、いつもそこに神は救いを備えてくださっているのです。

 そういう箇所を読んでいますと、私たちの歩みも全く同じだということに気づかされてきます。事あるごとに私たちは不安に感じ、不信仰に陥りそうになります。そして、何度も何度も悔い改めながら、神の救いの大きさと忍耐深さに救われて、今日まで支えられているというのがよく分かるのです。

 今日、私たちに与えられているのは詩篇126篇です。とても短い箇所です。読んでいますと、その背景もなんとなく想像できます。

 イスラエルの民が捕囚から帰って来た時の喜びがまずは歌われています。遠い国、バビロンに連れていかれ、祖国を追われていたのに、ようやくイスラエルに戻って来ることが出来た。それは、まるでエジプトの地で奴隷であったところから救い出された時とも重なります。そして、私たちが罪の奴隷から救い出されたこととも重なるのです。

主がシオンを復興してくださったとき
私たちは夢を見ている者のようであった。

 長い間、待ち焦がれていたそこに帰ることができた。それはその当時の人たちからすればどれほどの喜びであったか知れません。

 昨日のことです。娘がクリスマスプレゼントの話をしだしました。あれが欲しい、これが欲しいというのです。今、世の中は『鬼滅の刃』というアニメが大流行しているようですが、その影響は我が家にも及んでしまっています。それに出てくるものが欲しいというのです。ネットで検索してみますと、まだクリスマスまでひと月あるのに、商品の到着はちょうどクリスマス頃になると書かれていましたので、仕方がなく慌てて注文しました。すると翌朝、娘は「ねえ、いつ届くの?」と言うのです。「だからひと月後」と答えるのですが、もう待ちきれないのです。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 15 日

・説教 詩篇127篇「子どもは主の賜物」

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2020.11.15

鴨下 直樹

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 今日は子ども祝福礼拝。子どもたちが親御さんとともに、ここに集って礼拝ができることをうれしく思っています。

 今日の詩篇127篇というのは、結婚した若い夫婦がエルサレムの都に上って結婚の報告をする。その時に歌われた詩篇ではなかったかと言われています。結婚をして家庭を持つ、その祝福がこの詩篇で歌われています。その最初に言われているのは家を建てるということです。

 みなさんは、家を建てるという経験をしたことがあるでしょうか。私は残念ながらないので偉そうなことは言えません。ただ、これまで何度か、教会堂建設をしている教会にいたこともありますので、想像することはできます。

 はじめは漠然と家が欲しいという願いがあることから始まるのでしょうか。そのうちに、近くのハウジングセンターを見に行ったり、あるいは家を建てた友達の家を訪ねた時に、その話を聞いて、自分たちもという思いを抱くのかもしれません。

 とても高額な買い物ですから、よく考えます。自分たちの収入でできることをいろいろと考え始めます。銀行でお金を借りられるのか、共働きするのか、まずは、そういったそもそもそういうことが可能なのかということを考え始めます。

 それと同時に、家の間取りはどうするか、庭はどうするか、駐車場はどうするか、部屋の数は、考え出すときりがありませんが、そういうことを考えるのはとても楽しいことでもあります。夢が膨らみます。そして、同時に大きな不安も抱えることになります。

 そうやって、ついに土地が決まって、こまかな話を詰めて、青写真が出来て、いよいよ、家を建てるというときになりますと、「定礎式」というのをいたします。この定礎式の時に、この詩篇の127篇が読まれることがあります。

 そこで、この御言葉が読まれます。

主が家を建てるのでなければ/建てる者の働きはむなしい。/主が町を守るのでなければ/守る者の見張りはむなしい。/あなたがたが早く起き 遅く休み/労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。/実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。

 家を建てるということが、どういうことなのか、何を聖書が語っているのかを聞こうということなのです。そこで、語られるのは、せっかく家を建てたのに、「ああむなしいことをした」ということがないようにということです。

 トランプタワーをご存じでしょうか。アメリカの大統領のつくったあれではなくて、カードのトランプで作るタワーです。手に汗を握りながら、カードを合わせて、高いタワーを作っていきます。ドキドキして作っている時は楽しいのですが、ちょっとした手の加減の違いで、またたくまに崩れ落ちてしまいます。私は、せいぜい作れても2段までしか作れません。そもそも、上手につくる技術がないのです。でも、一所懸命つくっても、それは簡単に崩れてしまいます。

 私たちがもし、家を建てるのであれば、そんなトランプタワーのような家を造りたいとは誰も思わないでしょう。耐震強度のしっかりとした、地震にも台風にも、そして、シロアリにも、日本の湿度にも耐えられる家を造りたいと思うはずです。

 私は、実は名古屋の金山クリスチャンセンターの責任者をしております。少し前に、この金山クリスチャンセンターの耐震強度の検査をしてもらいました。耐震強度震度6弱まで耐えられるという結果でした。それが、高い方なのか、弱いという事なのか、なんとも判断の難しいところですが、築50年以上の建物です。それで、建て直しをということを考え始めたのですが、そうしますと反対をする方々がおります。どうせもうすぐ大きな地震が来るのだから、地震で建物が壊れてしまってから建てた方がいいではないかと言うのです。それで、今は建て替えの検討は見送りになっています。内心はとても複雑な思いでいます。地震が来るのを待っているというのもどうなんだろうという思いがあります。もし、建てるのであれば、地震が来ても大丈夫なものを建てたいと思うわけです。

 もし、そうやって一所懸命に建てたものが、瞬く間に崩れ落ちてしまうのだとしたら、それはまさにむなしいということになってしまいます。そうならないために、私たちはどうしたら良いというのでしょうか。

 この詩篇はソロモンの詩篇と表題に書かれています。ソロモンというのは、イスラエルの王さまで、ダビデの子どもです。イスラエルが近隣の国に絶大な力を持ち、神殿が建てられたのも、このソロモン王の時でした。イスラエルの王たちの中でもっとも力のある王であったということができます。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 8 日

・説教 詩篇146篇「いのちあるかぎり」

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2020.11.08

鴨下 直樹

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 今日の詩篇には、人間の悲しみが詰まっています。悲しい言葉がいくつも並んでいます。

 「虐げられている者」「飢えている者」「捕われ人」「目の見えない者」「かがんでいる者」「寄留者」「みなしご」「やもめ」。これらの言葉はみな悲しみを抱えている人たちのことを言っています。私たちが生きている世界には、そこかしこに、悲しみの原因が転がっています。いつ、誰が、この悲しみを拾ってしまうか分かりません。

 みなさんは、このような悲しみを経験するとき、それをどうしているでしょうか。私たちはストレス社会を生きていると言われています。体調を崩して病院に行きますと、「ストレスですね」と言われることが度々あります。どこにも持っていくことのできない苦しみや悲しみを抱えながら、誰もが生きています。

 中には、人に話を聞いてもらってその発散をしている人もあるでしょう。あるいは、趣味に没頭することで、気を紛らわしているということもあると思います。本を読む、映画を見る、ゲームをする。おいしいものを食べる。お酒を飲む。旅行に出かける。人それぞれ、自分にあった何らかの対処法をもっているのかもしれません。そして、それでなんとかなるうちはいいのです。自分の許容範囲を超えてしまうような出来事と遭遇するとき、私たちはそれをどこに持っていくことができるというのでしょうか。

 たとえば、職場などで上に立つ立場の人というのは、実にさまざまな問題を抱えることになります。責任が重くなればなるほど、抱える問題も大きくなってしまいます。そして、誰にも話せないことも増えていくのだと思います。

 今日の聖書の3節にこういう言葉があります。

あなたがたは君主を頼みとしてはならない。
救いのない人間の子を。

と書かれています。

 言いたいことはよく分かると思うのですが、実際には「君主」というのは、その国のリーダーです。会社で言えば、一番上に立つ人、社長を指します。スポーツで言えば先頭を走っている人です。

 一番上にいる人でないと見えない景色があります。先頭を走っている人でなければ見えていない問題というのが必ずあるはずです。下の方にいる人より、後ろの方にいる人よりは、上にいる人、前を進んでいる人の方が、沢山の答えを持っているはずです。けれども、この詩篇は、そういう人の上を行く人、人に先んじる人も、人に過ぎないのだと言っているのです。それほど、大きな差はないのだと言っているのです。

 子どもが成績表をもらってきます。二重丸、丸、三角、上級生になるとA、B、Cと成績がつけられます。中学からは5、4、3と成績がつけられていきます。その成績で一喜一憂します。私たちは子どものころから、そういう評価されることに慣れてしまいます。そして、そのような評価を絶対視してしまいます。

 少しでも上に、少しでも先に、それが一番大事なことだと当たり前のように考えてしまうようになります。個性が大事とか、その子らしさを受け入れようと言いますけれども、どこかで、そういうセリフがしらじらしく響く世界に、私たちは身を置いて生きているのです。

 だから、評価されなければ悲しいし、自分の存在価値は、人に評価されるところにあると考えてしまうので、この詩篇にあげられているような人々のようにはなりたくないという思いを、心のどこかで持つようになるのです。

 ところが、聖書は「君主を頼みとしてはならない」と言うのです。同じ、死に支配されている人間なのだからと。

 今日は、召天者記念礼拝です。すでに、この世の生を終え、天に召された家族のことを覚えて、ここに集っております。例年ですと、大変大勢のご家族の方が集まりますが、今年はコロナ禍ということもあって、多くの方々は来ることができませんでした。けれども、今、私たちは天に送った家族のことを覚えて、この礼拝に招かれています。

 そして、この詩篇146篇のみ言葉が、私たちに与えられています。この詩篇は、幸いを歌う詩篇です。ここにあげられている人は、みな悲しみを抱えている人たちですが、この詩篇は悲しみに支配されてはいないのです。それは、なぜか。
 詩篇の5節にこう記されています。

幸いなことよ ヤコブの神を助けとし
その神 主に望みを置く人。

 頼みとするのは、人ではなく、ヤコブの神、主であると言っています。ヤコブというのは、先週まで創世記の説教していましたあのヤコブです。兄をだまし、報復を恐れて逃げ、その逃げた先で、二人の妻をめとり、12人の子どもが与えられました。アブラハムに約束された神の祝福の約束は、このヤコブに受け継がれていったのです。あの、ヤコブと共にいて、祝福を与えられた神、主に望みを置く人は幸せに生きることができる。そのように、この詩篇では言っています。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 1 日

・説教 創世記35章6-29節「イスラエルを祝福される神」

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2020.11.01

鴨下 直樹

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 今日でヤコブの生涯の説教の終わりを迎えます。けれども、お気づきの方も多いと思いますが、今日の終わりのところに書かれているのは、ヤコブの死ではなく、父イサクの死で結ばれています。そして、物語はヨセフへとつながっていくのです。このヨセフの物語の最後の部分で、ヤコブの死が記されています。

 この創世記というのは、父の生存中に息子たちの物語を記しているのです。これは、聖書の一つの考え方を表しています。つまり、子どもたちは父の祝福の中で生を与えられているのだというメッセージです。

 私たちは、自分の生涯は自分の力で生きていると思いながら毎日の生活をしています。私たちは学生の時代を過ごし、成人して、その後に独立して、家庭を築いていくことが多いと思いますが、その背後には意識していようとしていなかろうと父がいるのです。そして多くの場合、その生涯の途中で父を天に送るということが起こるわけですが、それまでの間、父の守りの中で、生きているのだと、聖書は考えているのです。この聖書の考え方はとても大切なものです。というのは、さらに、その背後には父なる神の眼差しがあり、神の御手が差し伸べられていることを知ることになるからです。

 もちろん、人生には様々なことが起こります。病のため、あるいは何かの事故のために早く両親と別れてしまうということも起こります。そうだとしても、聖書の考え方は、その背後に父の眼差しがあるということを伝えようとしているのです。

 もちろん、私たちの生涯の中にも様々な出来事が起こります。今日の35章に書かれているヤコブの物語にしてもそうです。

 ベテルに移り住むこと、そして、母リベカの乳母の死、神からの祝福、妻ラケルによって、ベニヤミンの誕生と、妻ラケルの死、そして、長男ルベンの不品行、そして、父イサクの死。どうまとめたらいいのか分からないほど、さまざまな出来事が記されています。

 私たちの人生もそうでしょう。様々なことが同時進行で起こるのです。兄弟のこと、子どもたちのこと、親のこと、会社のこと、友人や知人のこと、さまざまな人との関わりの中で生かされているわけですから、簡単ではありません。時々疲れてしまって、休みたくなることもあります。全然前に進み出せず、足踏みしてしまうこともあります。あるいは、大きな後退と思えることもあるのです。

 そういうことが次々に起こり出すと、本当に苦しい思いになります。逃げ出したいと思うことがあります。途方にくれてしまうことがあります。それは、聖書に出てくる人物も、私たちもまったく同じです。

 聖書を読んでいますと、何度も何度も、同じような言葉が繰り返されています。たとえば、今日の箇所ですと、11節にこのような主の言葉があります。

神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」

 昨年から、アブラハムの生涯の説教を始めまして、イサク、ヤコブと続いて説教してきました。その間に、何度も何度も、これと似たような言葉が語られ続けていますので、続けて読んでいる私たちには、また、同じ言葉が書かれていると慣らされてしまうような気がします。けれども、聖書が何度も、何度も同じように、祝福の言葉を語り続けるのは、神の祝福の言葉を聞き続けていなければ、私たちは生きていかれないからです。

 もちろん、子どもが生まれるという嬉しいニュースもありますが、妻の死が突然起こったり、息子からの辱めを受けたり、大好きだった乳母が死んでしまったりという、悲しい出来事も起こるのです。

 私たちは、生きて行かなければなりませんから、いつまでも泣きつづけることはできません。立ち上がらなくてはなりません。目当てを持って生きて行かなければならないのです。

 何のために自分は生きているのか。その根本的なことを忘れてしまう時に、私たちは前に進めなくなってしまうのです。だから、主は語り続けるのです。

 あなたは、わたしの祝福の担い手、わたしがあたえた祝福を、この世界に示すために生きている。あなたから王がでる。あなたの子どもたちはどんどん増えることを通して、わたしが全能の神であることが示されるのだと、主はここでヤコブに語りかけておられるのです。

 神の御名がかかっているのです。その名も「全能」と言うとてつもなく大きな名前で神が、ご自分のことを語られています。この神の全能が示されない生き方を私たちがするなら、神の名折れです。

 私たちは、ヤコブの子孫です。新しいイスラエルの民です。私たちの信じている神は、ヤコブに全能の神として、ご自身を示されたお方です。このお方が、私たちの神、主なのですから、私たちの人生にも次々に色んなことが起こっても、慌てふためかなくてもよいのです。

 神が、ヤコブにそうされたように、私たちにも、神の御業を示してくださるのです。 (続きを読む…)

2020 年 10 月 25 日

・説教 創世記34章1節-35章5節「家族の危機」鴨下直樹牧師

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2020.10.25

鴨下 直樹

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 ヤコブは神との格闘に勝利し、兄エサウとの問題も克服して、いよいよ、神の約束の地であるカナンでの生活がはじまりました。

 物語であるならば、もうこれでハッピーエンドです。あとは、「ヤコブは家族と共に、神さまの約束の地でいつまでも幸せにくらしましたとさ。」そうやって結ばれるはずです。しかし、です。聖書はいつも、私たちに理不尽さを突き付けてくるのです。

 あろうことか、ヤコブの12人の子どもの一人、しかも名前が記されている子どもの中では唯一の女の子であるディナが、一族が住み着くことになった、あの父祖アブラハムのゆかりの地で、はずかしめられたのです。そのことは、家族にとって、どれほど深い悲しみとなったことでしょう。特に、ディナの兄弟であったレアの子、シメオンとレビは烈火のごとく憤ったのです。ここに記されている出来事はあまりにも残虐で、丁寧に説明する気も失せるほどの、残虐非道なふるまいです。

 この時、ディナを辱め、さらにディナとの結婚を求めた憎むべき相手であるシェケムは、同じ名前のシェケムの地の人々の中でも、「だれよりも敬われていた」と19節に書かれています。ということは、この土地の人々は略奪婚というような方法をとっても、名誉が傷つくことはなかったということです。つまり、そういうことがまかり通る倫理観を持っている地域であったということでしょう。そして、この地の人々はヤコブたち一族と姻戚関係を結べば、ヤコブ達の財産を奪うことができると考えていました。

 一方で、ディナの兄であるシメオンとレビですが、妹が辱められたということで、怒りを覚え、割礼をうければ婚姻を認めると、だまして、その結果、シェケムの男たちを皆殺しにし、略奪するという、残虐非道な方法で仕返しをするのです。

 私たちはこういう物語を聖書で読むときに、ここから一体何を神は語ろうとしておられるのか、途方にくれるような思いがします。ヤコブがこの時とった振る舞いも、なんとなく、気弱な態度に見えるのです。それほど息子たちを叱るのでもなく、近隣の地域をなだめるというような方法もとらず、その地を離れただけ。そのように読めるのです。

 この残忍なシメオンとレビの振る舞いを、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。確かに、歴史小説であれば、妹のため立ち上がって復讐を果たすという物語は、年末のドラマにはうってつけのテーマなのかもしれません。それは、まるで英雄譚でも見ているような思いになれるのかもしれません。

 そもそも、ヤコブたち一族には何ら落ち度があったわけでもなく、ただの被害者である。そう考えれば、シメオンとレビは英雄なのであって、悪いのは完全にシェケムの地の人間である。そう考えることはできます。

 昔から、聖戦だとか、正義の闘いといって繰り広げられる物語は、相手方が絶対悪で、こちら側は絶対的正義を身にまとっているものです。人と争う時も、ほとんどがこの考え方です。自分の考え方が絶対に正しいと決めてかかっているのです。相手側の文化や、価値観の違いは認めないというのであれば、それもまかり通るのかもしれません。非道徳的だと決めつけることができるのかもしれません。

 けれども、古代の世界の中で、何の保護もない、族長時代と呼ばれるこの頃の世界観の中に、聖書の神が語るような高度な倫理観を備えた国が、いったいどれほどあったというのでしょう。おそらく、シェケムの人々は、自分たちの振る舞いはごく日常的なことで、パダン・アラムからやって来たこの外国人が、どんな家族観や結婚観を持っているのかなどという事は、想像もできなかったのだと思うのです。

 では、聖書はこのことをどのように語っているのでしょう。そこで、思い出す必要があるのは、神がアブラハムにかつて語られた、あの約束の言葉です。 (続きを読む…)

2020 年 10 月 18 日

・説教 創世記33章1-20節「兄エサウとの再会」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:00

2020.10.18

鴨下 直樹

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 みなさんは、食事の時に嫌いな食べ物があったとしたら、それは最後まで残しておく方でしょうか。それとも、先に食べてしまう方でしょうか。私は、子どもの頃から、嫌いなものは最後まで残しておく方でした。そして、あわよくば食べなくても良くなることを期待していたのです。ところが、今は違います。苦手な食べ物は先に食べるようにしています。

 これは、何も食べ物に限ったことではありません。やらなければならない仕事を後回しにするか、先にやってしまうか。これも、そうですが、私は以前は、最後まで先延ばしにしてしまって、やらなければいけないことにギリギリまでかかってしまう方でした。今でも若干そういうところはありますが、できるだけすぐにやろうと心掛けるようになりました。ですから、以前は、礼拝説教などは、ほとんど日曜の朝方にできるとか、夜中の2時までかかるとかいう具合でした。最近は土曜の夕方には終わるようにしています。もちろん、うまくいかないこともしばしばですが、先延ばしにしないように気を付けるようになりました。というのは、仕事ができる人というのは、すぐにやるんだということに、ある時気が付いたからです。

 また、人との関係が難しくなってしまった時となると、余計に私たちはそういうことは先送りにしたくなってしまいます。なかなか気が進まない、そんな経験はみなさんのなかにもあるのではないでしょうか。

 ヤコブも同じです。いやなことは最後の最後まで先延ばしにするタイプの人間だったようです。決断が遅いのか、その間に何かが起こることを期待しているのか。気が進まないことを先延ばしにして、漠然と時間が解決してくれることを期待したい、ヤコブのそんな思いは誰もがよく分かると思います。幸い、ヤコブは先延ばしにした結果、その何かが起こります。それが、最後までヤボクの渡し場の所で、一人残っていた時に、ある人と出会い、格闘をし、勝利を得るという出来事だったのです。

 そして、この時戦った相手はというと、主なる神ご自身であり、主はそこでヤコブに新しい名前である「イスラエル」つまり、「神に勝利した者」という名前を与えてくださったのでした。

 先週あまりその後のことを詳しく話しませんでしたが、ヤコブはその場所の名前を「ペヌエル」と名づけました。

「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

と32章の30節に書かれています。

 この時、ヤコブは主ご自身と顔を合わせたと言っているのです。兄エサウと顔を合わせるのが怖くて、おびえていたヤコブは、ここでもっと偉大なお方、最も畏れるべきお方である主と顔を合わせたのに私は生きていると言ったのです。ただ、勝者と言われていますけれども、気づいてみるとヤコブは、正反対の敗者のようになっていました。主に足を打たれて傷を負ってしまうのです。ももの関節、腰の筋を打たれてうまく歩けなくなってしまったと、32章の最後のところに書かれています。

 そして、今日の、聖書箇所は衝撃的な言葉からはじまっています。1節です。

ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウがやって来た。四百人の者が一緒であった。

 嫌なことというのは、いつまでも先延ばしにすることができません。必ず夜は明けるように、その時は来るのです。大事なことは、その時を迎えるまでにどんな準備をしておくことができるかです。

 ヤコブは、不思議なことにエサウと会うために何の備えもしなかったはずなのに、主がヤコブと出会われて、格闘し、ヤコブは意図していなかったのに、必要なすべての準備を主が整えてくださったのです。

 しなければならないことを先延ばしにしたところで、本当はそこには何の解決もありません。なぜなら、するべき準備もせず、自分に与えられている責任を果たそうとしないで、逃げているからです。ヤコブは、そのような者だったのです。

 ところが今日の33章から、新しいイスラエルという名前をいただいたヤコブの変貌ぶりが示されています。 (続きを読む…)

2020 年 10 月 11 日

・説教 創世記32章1-32節「神との格闘」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:44

2020.10.11

鴨下 直樹

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 ヤコブはいよいよ、故郷に戻ろうとしています。20年の寄留生活の中で、ヤコブはさまざまな経験をし、二人の妻を迎え、11人の子どもたちが与えられ、二つの宿営を持つほどまでに豊かになりました。ヤコブは20年の歩みを通して、神の祝福を経験し、大手をふって、顔を上げて故郷に帰ることができる日を迎えることができました。

 ヤコブという名前の意味は「押しのける者」という意味であったと、最初に私たちはその名前の意味を心に刻みました。まさに、ここまでのヤコブの歩みは、その名前にふさわしい歩みでした。人を押しのけて、自分が一番になりたい。そういう歩みをしてきたのです。そして、神ご自身もまた、そのようなヤコブを支えてこられたのです。

 そして、いよいよカナンの地に戻ることで、一つの避けて通ることのできない大きな壁がまだヤコブの前には立ちはだかっていることが明らかになります。それは、ヤコブがラバンのところを訪ねる前に起こした争いの相手、兄エサウと再会しなければならないということです。ヤコブは兄エサウの祝福を奪い取り、兄が自分のいのちを狙っていることを知って、父たちの住んでいた神の約束の地であるカナンから逃げ去ったのです。

 自分が押しのけた兄と再会するためには、兄と和解をしなければなりません。そして、自分がしてしまったことは到底赦されることではない、ということをヤコブは理解していました。

 32章はまさに、このヤコブの人生の最大の試練である、兄との和解という大きな壁をどうやって成し遂げるかという、重大局面を迎えているのです。聖書にはこの32章の冒頭にこういう出来事が記されています。1節と2節です。

さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。

 この出来事にどんな意味があるのか、昔から聖書学者たちを悩ませてきた記事がここに唐突に出てきます。神の使いたちの「神の陣営」を見たというのです。新改訳聖書には欄外に注が書かれています。そこを読みますと、「陣営」という言葉の注には「マハネ」と書かれていて、「マハナイム」という言葉には「マハネの双数」と書かれています。双数というのは、両脇にある数という意味です。つまり、「二つの陣営」という言葉が、「マハナイム」という意味だという説明です。

 ヤコブはいよいよ、最大の試練に向かう前に、突然、神の二つの陣営を見たと言うのです。これは、この後、ヤコブが兄に会うために自分の宿営を二つに分けたこと書かれていますが、このことと何か関係があるはずです。こういう聖書の説明は、聞いていても面白くないかもしれませんが、この箇所を読み解くヒントになっているはずです。

 問題は、ヤコブがこの神の陣営を見て、どう思ったのかという事が書かれていないことです。怖いと思ったのか、励まされたのか。それさえよく分かりません。そうすると、ヤコブの身になって想像してみるより外ありません。

 私はこう思うのですが、エサウの陣営が突然目の前に二つ現れるのと、神の陣営が突然二つ現れるのとどちらが恐ろしいのでしょうか。この後の話を読んでいきますと、ヤコブはじつに、ぐずぐずやっています。ちっとも、エサウの前に出ようとしないのです。

 まず6節にこう書かれているのですが、最初にヤコブはエサウの所に使者を送ります。エサウがどんな態度なのか様子をさぐるためです。その遣わした使者が戻って来るのですが、その時に使者がこう言ったのです。

「兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」

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2020 年 10 月 7 日

ざっくり学ぶ聖書入門01

Filed under: ライブ配信,聖書の学びと祈り会 — susumu @ 19:36

2020 年 10 月 4 日

・説教 創世記31章17-55節「巣立つヤコブに」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:18

2020.10.04

鴨下 直樹

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 10月に入りました。このコロナ禍にありながら、私の生活はこの一週間で一気にいろいろと変わり始めています。今、新しく何かが始まろうとしていることを感じています。

 先日、JEAの宣教フォーラムが行われました。JEAというのは日本福音連盟の略ですが、いわゆる私たちが所属しております福音派と呼ばれている教会が、宣教について考える研修の時を持ったのです。今回は、例年ですとどこか一つの所に全国から集まりまして、会議や講演が行われるのですが、今回はオンライン会議という方法で行われました。200名ほどの牧師たちが参加しました。ここで主に語られたのは、このコロナ禍の状況で、日本の教会は今何が問われているのかというテーマの講演がいくつもなされました。

 先週行われた私たちの教団の日の集いでもそうですが「ピンチはチャンス」という言葉をいろいろなところで耳にします。この機会を、どのように積極的な意義としてとらえるのかという事が、様々な方面から語られていて、とても面白いと思いました。

 その中で主に語られていたのは、このオンラインで礼拝を配信したり、在宅でオンライン会議などができるようになったことで、さまざまな可能性が広がるということです。そのことに、積極的な意味を見出していこうということです。

 このフォーラムの中で、ある牧師は、その時の発題の中で、「身体性」というテーマの話をされていて、教会の集いに来ないと、身体性が損なわれているのか、オンラインのモニター越しであっても、そこにも身体性を見出すことができるのかという問いかけがなされました。

 簡単に言うと、教会に何らかの事情で来ることが難しい人がモニター越しで礼拝を捧げることを、教会に来ていることと同じように考えることができるのかどうかということを話されたわけです。

 その発題の時に、質疑の時間がありまして、その講演をされた先生にこんな問いかけがなされました。
「オンラインになると、聖餐式ができなくなる。そのことについてどう考えますか?」
という問いかけです。この講師の発言の急所を突く質問でした。その時に、その発題をした先生は、今の自分個人の考え方はという限定的な言い方でしたけれども、「聖餐は、象徴なのだという考え方が強くなっている」と答えられました。

 この発言はとても大きな意味をもっているのですが、要するに聖餐がなくても、オンラインの参加であっても、その画面の前にはその人がいるのだから、それでいいのではないかということです。

 今後、この考え方が主流になっていくのかどうかは、全く分かりません。私個人としてはそうならないことを願っています。

 というのは、このフォーラムで別の講師の方が発題をなさった時にも、同様の質疑があり、その時にそれに答えられた吉川直美先生、この方は聖契神学校で霊性の神学を教えておられる先生ですが、その質問に答えて、こんなことを言われました。今、教会は聖餐が出来ない、愛餐と言われる食事が一緒にできない。交わりができない。ロシア正教会などでは聖なる口づけという習慣ができなくなっているし、カトリック教会では亡くなった方にする終油という、油を注いでお別れをするということができなくなっている。それは、愛するという具体的な行為が教会から奪われているということだという話をなさったのです。これは、今さかんに言われているソーシャルディスタンス、人との身体的な距離を取る必要があるということの中で起きてきたことですが、人との距離をとらなくてはいけないという流れの中で、具体的な愛の業が失われてしまっている。そのことを問われたのです。

 私は、この方の話を聞きながら、まさにそのことこそが、このフォーラムで考えられるべきテーマだったのではないかと感じました。

 そして、先週から、私が関わっております名古屋の東海聖書神学塾の講義が始まりました。名古屋まで様々な事情で来られない方がありますので、対面の講義と同時進行で、オンライン配信もすることになりました。なれない高齢の先生が多いために、事務の方々は大変な一日でした。

 私はその中で、説教学基礎という講義を教えています。昨日は、最初の講義でしたので、まずその導入、イントロダクション的な話をいたしました。そこで、そのフォーラムで考えさせられている話をいたしました。

 今、愛の行為が教会から奪われている。これが私たちが抱えている課題だというのです。そして、実は、それは教会だけではない、私たちの世界が抱えている大問題です。人と、身体的な距離を取らなければならないということは、人の愛や優しさ、思いやりというものが感じにくい、まさに人との距離が出来てしまって生きにくい社会を生きているわけです。

 けれども、教会は愛の業が奪われて何もできないと言っていていいのだろうか? オンラインのその向こうに、その人の体があるので、オンラインでいろいろなことができる。そこに可能性がある。それは、一面ではそうだと思うのです。けれども、その可能性をどこに見出すか。このことこそが、重要なのではないか。 (続きを読む…)

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