・説教 ルカの福音書13章1-9節「神の裁きは因果応報なのか?」
2024.7.28
鴨下直樹
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今日からルカの福音書の第13章に入ります。今日の説教題を「神の裁きは因果応報なのか?」としました。今日は、このところから「因果応報」という考え方について、少し考えてみたいと思います。
私が神学生の時のことです。名古屋の金山にある神学塾の建物は、当時は今の場所とは少し違うところにありましたが、神学塾の周りには駐車場があまりありませんでした。また、当時は神学生で経済的に苦しかったこともあって、神学塾へ車で行くと、駐車場に停めないで、塾の建物のすぐ隣の道路に停めるということがありました。そんなある日、とうとう駐車違反で車をレッカー移動されてしまったことがあります。
駐車違反だけなら反則金だけですみますが、レッカー移動されますと罰金が跳ね上がります。だいたい当時で4万円弱。お金が無いから路駐するわけですから、4万円も払えるわけがありません。私が神学塾でそのことを嘆いていると、友達の塾生が私にこう言いました。
「やっぱりねぇ、日頃の行いが悪いからだよ」と。
そこで、私がこう言い返しました。
「クリスチャンでもやっぱり日頃の行いは大事なのかなぁ」と。
その友人は、私の一言でようやく、自分が変なことを言ったと気付いたようです。いくら神学生でも、自然に、「日頃の行いが悪いから」というセリフが出てしまうわけです。そのくらい、私たちには「因果応報」という考え方が体に染み込んでいるようです。
今日の聖書は、まさにこのことを問いかけているところです。まず、1節に「ちょうどそのとき」とあります。12章の話を主イエスが弟子たちにしていた「ちょうどそのとき」です。
「そのとき」というのは、主イエスが弟子たちに神の裁きの厳しさを語っていた、まさにその時に、何人かの人々が主イエスの近くにやってきて、一つの報告をしたのです。聞くところによると、エルサレムの神殿で捧げ物をしていたガリラヤ人が、ユダヤの総督ピラトに殺害されて、神殿で捧げ物にしていた血と、殺害された人々の血が一緒にされたという事件が起こったようなのです。
これは、ガリラヤの人々のみならず、ユダヤ人たちには衝撃的なニュースだったはずです。今で言えばトップニュースが飛び込んできたわけです。
そこでそのニュースをもたらした人々は主イエスにこんな質問を投げかけたようです。2節で主イエスはこう言われました。
「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。」
主イエスはここで人々の顔を見ながら、その思いを代弁したわけです。この神殿で捧げ物をしていたガリラヤ人たちは、信仰的には熱心な人々だったはずです。熱心にガリラヤから、わざわざ神殿のあるエルサレムまで訪ねて捧げ物をしたのに、その時に、ピラトの事件に巻き込まれるなんて、災難もいいところだ。けれども、きっとこの人たちは何か悪いことをしていた人であったに違いない。多くの人々はそう考えていたと思われるのです。
私自身も、レッカー移動された車を取りに行く時に、心の中で同じようなことを考えました。「あれ?俺、何か悪いことをしたかなぁ」そんな考えが、一瞬私の頭に思い浮かんだのです。
皆さんはいかがでしょうか。自分の身に何か不慮の出来事が起こると、何か悪いことをしてしまったから、こういう出来事が起こったのではないかと考えてしまうことがあるのではないでしょうか。
さらに、主イエスはもう一つの出来事を例にあげます。4節ではシロアムの塔が何らかの原因で倒壊して、その下敷きになって18人の人が亡くなったという例をあげたのです。それが嵐や地震というような「自然災害」だったのか、「人為的なミス」なのかは分かりませんが、そういう時の犠牲になってしまう人というのが少なからずあるわけです。
今でも街中で倒れたクレーン車の下敷きになってしまったとか、古くなった建物の壁が剥がれ落ちて犠牲者が出たとかいうニュースを、私たちは耳にすることがあります「不慮の事故」としか呼べないようなものがあるのです。
そういう出来事で犠牲になった人は、「因果応報」とか、「神さまの罰(バチ)が当たったのだ」と言われてしまうと、たまったものではありません。けれども、時としてそんな考えが頭に思い浮かぶこともあるわけです。
そこで、主イエスは何と言われたかというと、3節と5節で主イエスは同じことを2度繰り返してこう言われました。
「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
主イエスは、その人たちが特別に悪かったというのではない。あなたがたもみな同じだと言われたのです。その人たちが他の人より、より多くの罪の負債があったわけではない。みな同じだと言われたのです。
主イエスがここで語りかけておられるのは、一つのメッセージです。それは「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」ということです。
昨日からパリでオリンピックが開幕しました。これからしばらくの間、私たちは寝不足になりながら、選手たちのスポーツに取り組む素晴らしい姿に心を奪われることになります。すでに、サッカーなどは開会式の前に開幕戦が始まっていまして、日本は南米1位のパラグアイを5−0で下しました。また昨日はマリと戦って準決勝に進むことが決まりました。私はサッカーが好きですので、今回どこまで勝ち上がれるか、今からとても楽しみにしています。また柔道女子48キロ級の角田選手が金メダルを取ったというニュースで今朝はもちきりです。
では、ああいう素晴らしい努力をして、スポーツで一流の結果を残す人たちはどうなのでしょうか。悪いことをやっている人が、神の裁きを受ける。頑張っている人や良いことをしている人であれば、救われるのでしょうか。
しかしながら、主イエスの言葉はやはり同じです。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と言われてしまうのです。私たちは誰もが、神のみ前に悔い改めることが求められているのです。
続いて、主イエスは6節から9節で、一つの譬え話をされました。ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておいたのです。おそらくそういう栽培方法を試したのでしょう。何か良い効果が得られるのではないかと期待して、ぶどう園の中に、1本だけいちじくの木を植えたのです。ところが、そのいちじくの木は3年の間、実を実らせることもなく、場所を塞いでいるだけだったのです。それで、ぶどう園の主人は、世話をしていた番人にこう言いました。「役に立たない、いちじくの木を切り倒してしまえ」と。すると番人がこう応えます。
8節と9節です。
「ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。」
この話の興味深いのは、主イエスはこの譬え話を、言ってみれば結論として話されたようですが、明確な結末を話しておられないのです。私たちは、この最後の譬え話をどう読み取ったら良いのでしょうか。
そもそも、ぶどう園にいちじくの木を植えておいて、実を実らせろというのが土台無理な話だということもできると思います。ぶどう園はぶどうの実を実らせるために環境が整えられている場所です。理不尽極まりない場所で結果を出せと言われても、そんなのは不当でしかないと言いたくなる気もします。
この譬え話は、私たちが置かれている状況に思いを向けさせます。良い環境に生まれた人はまだ良いのです。かえって、そういう人は言い訳ができないかもしれないとも私たちはどこかで思いますけれども、一方で、このいちじくの木のように、不当な環境に身を置かなければならない人がいることもまた事実です。
そして、私たちは、そういういちじくの木のような立場の人の気持ちは比較的共感しやすいかもしれません。何しろ、私たちは日本で生活しているわけで、キリスト教に優しい生活環境ではありません。あるいは、家族がクリスチャンでない人であれば尚更、共感しやすいものがあります。それで結果を出せ、実を実らせろと言われても、プレッシャーにしかならないと感じるものです。
スヌーピーの有名なセリフでこんな言葉があります。ルーシーという女の子が、スヌーピーにこう言うのです。
「時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ。」
すると、スヌーピーはこう答えます。
「配られたカードで勝負するしかないのさ。それがどういう意味であれ。」
この言葉はとても有名になって、いろんなところで使われるようになりました。私たちは、誰もが異なる環境で生まれてきます。生まれた環境を嘆いてもどうにもなりません。その環境を受け入れるところから始めるしかない。この言葉は、そんな大事なことに気づかせてくれる言葉となりました。
ところが、主イエスはここで、いちじくの木の番人が、そのような不条理な環境に置かれ、主人から切り倒してしまえと言われても、そのいちじくの木ために、もう一年最善をつくしてみましょうと、とりなしをする話で結ばれているのです。自分に配られたカードで勝負するのではなくて、いちじくの木のために一所懸命になってくれる人があると言われるのです。
つまり、ここに主イエスが一番お語りになりたい福音が記されているわけです。主イエスは、滅ぼされてしまうことが確定しているような、いちじくの木であっても、その木のために最善を尽くし、忍耐と寛容の限りを尽くして愛を注ぎ続けると言われるのです。
「因果応報」という考え方によって、何か思わぬ悪い出来事が自分に身に降りかかってきた時に、それは自分が何か悪いことを行なったことへの罰(バチ)ではないか、神の裁きではないかと多くの人は考えます。けれども、主イエスは、見るべきは悪いことが起こってしまったその結果ではなくて、私たちは誰もが神の裁きの対象であるという、この根本的な問題から目を背けていることにあると気づかせようとしておられます。実際、すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない存在なのです。
多くの人は悪い状態だけに目をとめてしまい、通常は問題のない生活をしていると安心してしまっています。しかし、本来気づかなくてはならないのは、私たちは誰もが、いつ切り倒されてもおかしくない、いちじくの木のような存在だということです。そのような、いちじくの木が滅ぼされないためには、本当に神に見捨てられないためには、自分の努力で何とかすることはできません。私たちを生かしてくださる神の忍耐と、主イエスの取り計らいだけが、それを可能にしてくれるのです。そして、この主のみ業に気がついて、このお方に身を委ねるならば、私たちは新しい存在に造り変えられ、神の喜ばれる実を実らせる存在へと造り変えられるのです。それは、すべて主のみ業です。
私たちの主は、私たちを生かしたいと願っておられるお方です。決して私たちを滅ぼしたいと考えておられるお方ではないのです。私たちは、誰もが、文字通りすべての人が、神のみ前に悔い改めなければ、滅ぼされてしまう存在です。私たちは誰もが、エデンの園を追い出された時から、死の存在、滅びを身に受けた存在となってしまっているのです。
私たちは、誰もがこの死の世界で生きているわけですから、そこに例外はありません。ただ、主イエスは、この死の存在となってしまった私たちに救いの道を示されました。それが、主イエスによって示された救いのみ業です。このお方の救いを受け止める時だけ、私たちに死の世界から救いの世界に至るためのチャンスが再び訪れるのです。主イエスと共に歩みたいと願うならば、主は死の存在である私たちに、神のいのちとしての聖霊を与えてくださいます。私たちが、この神のいのちである聖霊と共に生きる時、私たちは神のみ前に「良しと見られる」存在になるのです。
スヌーピーを描いたアメリカの漫画家チャールズ・M・シュルツはクリスチャンであったと言われています。私は、この人について詳しいわけではありません。けれども、少なくともシュルツは知っていたはずです。私たちに配られたのは、生まれた環境というカードだけではなく、最高の切り札とも言うべきカードが配られていることを。それが、私たちの主イエス・キリストです。主イエスは私たちすべての人に、ご自身を与えてくださいました。だから、誰であっても、このキリストを受け入れる者は、自分を変えることのできるチャンスを受け取ることができるはずなのです。
私たちは、今ともに主イエスを与えられて、新しく生きる者とされた人たちと一緒にこの礼拝に集っています。私たちはこのとても大きな喜びの礼拝の民とされています。この喜びを心に刻みながら、主のみ前で共に感謝したいと思います。
主イエスは私たちが悔い改めて、新しく生きることのできる道を開いてくださったのです。それを共に心に刻みましょう。
お祈りをいたします。