2024 年 7 月 21 日

・説教 マルコの福音書2章13-17節「医者を必要とするのは病人」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:38

2024.7.21

内山光生


序論

 昨日行われた子ども食堂は、97名の参加がありました。毎回、たくさんの方々が芥見教会の子ども食堂に来てくださっていることを神様に感謝いたします。

 子ども食堂では、毎回、メニューが違っていて、よく工夫されているのが分かります。準備をして下さっているボランティアの方々に感謝をいたします。

 小学・中学・高校といよいよ夏休みに入ったと思います。今週は、猛暑日が続くと予報されているので、外で遊ぶよりも室内のクーラーのきいた部屋で過ごすのが良いかもしれません。夏バテにならないよう私も気をつけたいと思います。では今日の箇所を見ていきましょう。

I 召しに応じたレビ(13~14節)

 13~14節を見ていきます。

 この前の箇所は、イエス様がカペナウムの家で中風の人を癒した出来事が記されていました。そして今日の箇所13節では、イエス様はカペナウムの町を出てガリラヤ湖のほとりへ向かった事が記されています。

 イエス様の評判はガリラヤ地方全体に広められていました。それで、群衆がイエス様のもとに集まってきたのです。そして、イエス様は群衆に福音を宣べ伝えたのです。

 14節に移りますと、恐らくカペナウムから割と近い場所と思いますが、イエス様は、レビという取税人が座っているのを見つけました。レビとは、あの12弟子の一人、マタイの事を指しています。恐らく元々の名前がレビであって、弟子になった時、マタイという名前が与えられたのでしょう。

 レビすなわちマタイは、取税人という仕事をしている人です。ですから、最初の弟子に選ばれたペテロたちとは違って、人々から嫌われていた職業の人だったのです。

 取税人は、ローマ帝国の手下となって同じユダヤ人であるにもかかわらず、同胞のユダヤ人から法外な税金を取りたてていました。ですから、今で言う税務署とは、やっている事が異なっていたのです。当時の取税人は、例えば、本来1万円の税金を集めればよかったところを、その何倍も、つまり、2万円とか3万円を集めていたと言われています。そして、1万円だけをローマに収め、残りを自分のふところに入れていたのです。

 こんなおかしな事が、どうして許されるの? と疑問に思うかもしれません。しかし、当時のローマ帝国は、自分たちにきちんと税金を収めてくれれば、余分に税金を集めていようが見て見ぬふりをしていたのです。

 当時の多くのユダヤ人たちは、取税人を嫌っていました。そして、彼らと仲良くすることはありませんでした。

 にもかかわらず、イエス様は取税人レビに声をかけたのです。「わたしについて来なさい」と。ここに人間の感覚と神様の決断とに大きな違いがあるのです。

 ある人々は、イエス様の弟子となって福音を伝える働きをするのならば、人々から信頼されている仕事についている人がいいに違いないと思うかもしれません。確かに、そういう場合もあると思うのです。しかし、神様が誰を招くかに関しては、私たちの常識や感覚とは異なっているのです。

 レビは、すでにイエス様の評判を聞いていたと思うのです。もしかしたら、直接、イエス様の話を遠くから聞いていたかもしれません。あるいは、間接的だけれども、誰かから良いうわさを聞いていたかもしれません。しかし、そんなお方が自分に声をかけて下さるなんて、驚くべき事であったに違いありません。

 レビは「わたしについて来なさい」と言われると、すぐにイエス様に従ったのです。これは最初の弟子として招かれたペテロたちと同じ反応です。

 イエス様から直接、弟子になるようにと招かれるということは、誰でも経験することができるものではありません。当時、イエス様に従いたいと思った人は大勢いたと思われますが、しかし、中心的な弟子にさせて頂けたのは、たった12人だけなのです。

 レビは、自分の仕事から考えると、イエス様に相手にされないのではないかと思っていたかもしれません。でもその予想に反する事が起こり、喜んで、すぐにイエス様に従ったのでした。

 これから先、彼は以前のように金儲けをすることができなくなります。でも、お金よりもすばらしいものがあることに気づき、取税人という仕事を捨てて、イエス様の弟子となったのです。

II 食卓に招かれた主イエス(15節)

 15節に進みます。

 レビはさっそくイエス様を食事に招いたのでした。なぜ招いたのでしょうか。恐らく、自分がイエス様の弟子にさせた頂いた事に対する感謝を表すためでしょう。それゆえ、レビは、自分の仲間たち、すなわち取税人たちも食事に招いたのです。

 今の時代でもそうなのですが、当時、誰かを食事に招くというのは特別な関係があることを意味していました。あるいは、これから特別な関係を築いていきたいと願っている人を招くのです。

 ですから、レビはイエス様と親しい関係を築いていきたいことを願って、イエス様を食事に招き、そして、以前からの仲間たちを招くことによって、喜びを分かち合おうとしたのでしょう。

 その食卓に招かれたのは、イエス様だけでなく、すでにイエス様の弟子となった人々はもちろん、取税人たちや罪びとたちでした。

III 律法学者たちに答える主イエス(16~17節)

 16~17節に進みます。

 パリサイ派の律法学者というのは、律法学者の中でも特に権威がある立場の人たちでした。彼らは、様々な教えを人々に伝える役割が与えられていました。それゆえ、良くない事をしているのを見たら、だまってはいられないのです。

 彼らは、イエス様が罪人だと見なされている人々と一緒に食事をしているのを見て、文句を言ってきました。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」と。

 確かに、当時の律法学者の立場からすれば、そして、多くのユダヤ人からすれば、取税人という職業についている人は罪人の代名詞でした。そして、実際、取税人は嫌われていましたし、親しく関わりを持とうとしなかったのです。

 今の時代においても、一般的に職業差別をしてはいけない、と言われていますが、それは建前であって、多くの人は、無意識の内に、その人の職業によって仲良くなったり、そうでなかったりすることがあるのではないでしょうか。差別はしていなくても、区別はしてしまう、それが人間の弱さだと思うのです。

 確かに、世の中には反社会的な事をする人々が存在します。あるいは犯罪スレスレの事を会社という組織全体で行っている、そういうこともあるかもしれません。社会の中の負の部分を知るときに、私たちの心に正義感が出てきて、ついつい、良くないことをしている人々に対して文句を言いたくなるのです。

 イエス様の時代の律法学者たちは、イエス様に敵対する人々でした。しかし、視点を変えると彼らは、ある意味、とても真面目で、正義感が強かったとも言えるのです。けれども、彼らは他人の罪に対して敏感でありながらも、自分自身にも同じような罪があるということに気づいていなかった点で、残念な人々だったと言えるのです。

 17節に進みます。

 イエス様は律法学者たちに言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」

 これはとても有名な言葉です。ここでは、イエス様ご自身のことが「医者」とたとえられています。そして、律法学者たちは「丈夫な人」で、更には、取税人たちが「病人」だとたとえられています。そうです。医者は、自分自身が病人だと自覚して、医者の助けが必要だと感じて、医者の元に来る人々だけを直すことができるのです。

 ある人は、自分の体調が悪いにもかかわらず、その自分の状態を認めようとしませんでした。しかし、病気なので、早くお医者さんに見てもらった方が良いのです。けれども、周りの人のアドバイスを聞こうとせずに、決して病院に行こうとしなかったのです。その人が、もしも医者の助けが必要だと自覚することができたならば、適切な治療を受けることによって、あるいは、適切な薬を飲むことによって、回復が早かったに違いないのです。でも、自分には医者が必要だと認めようとしなかったので、結局のところ、何か月もひどい咳で苦しんだのでした。

 私は、その人の気持ちが分からなくはないのですが、でも、やはり、早く自分の身に何が起こっているのかに気づいた方が良いと思うのです。その方が回復が早いのですから……。

 イエス様は言われました。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

 と。

 律法学者たちは、自分たちは「正しい人」だと思い込んでいました。自分たちこそ、旧約聖書の教えに忠実な生き方をしていると確信していました。神様の教えを守っている正しい人、それが私たちなんだ、と。一方、取税人のような仕事をしている人たちは、まさに「罪人」だと思っていました。彼らは、そのままでは神の裁きを受ける、彼らのようになってはならない、そのように思っていた事でしょう。

 ところが、イエス様は、罪人だと後ろ指をさされている取税人たちのような人々を招くために来られたのです。レビは、自分が罪人だということに気づいていました。そして、このままではいけないと思っていた事でしょう。そんな時に、罪から救い出して下さるイエス様に出会い、そして、イエス様から弟子となるよう招きを受けたのです。

 律法学者たちと取税人レビとの違いは、自分が罪人だということに気づいているかどうかです。

 世の中には、たとえクリスチャンでなかったとしても、真面目で誠実な人生を歩んでいる人もおられます。しかしながら、もしも自分は正しい人間であって、何一つ間違った生き方はしていない、と思っているならば、結局のところ、律法学者たちと同じような種類の人だと言えるでしょう。

 一方、自分の人生を振り返るとき、色々な所で失敗したり、間違った決断をしたり、誰かとトラブルを犯してきた人であったとしても、いや、実際は多くの人がそうなのですが……その人が自分の罪深さを自覚しているならば、イエス様は、そういう人のために来られたと言っているのです。

まとめ

 イエス様の十字架の福音を聞いて、それに応答することができるかどうかは、実は、その人が自分の内面をきちんと見つめて、自分がいかに罪深い人間だと自覚できるかどうかにかかっているのです。

 けれども、それは決して簡単な事ではありません。聖霊が私たちの心に働きかけ、聖書のことばによって罪が光に照らされる時に、ようやく、私たちは自分こそが罪人だったと気づくことができるのです。

 レビは、人々から嫌われている職業についていたからこそ、そういう立場にいたからこそ、お金に関してずいぶん悪いことをしてきたという自覚があったのです。そのままでは、喜びの人生を歩むことができません。お金があったとしても、しあわせだと感じ取ることができません。しかし、イエス様の福音を心に受け入れる時、今まで犯してきたすべての罪が赦され、そして、罪が聖められる経験をすることができるのです。

 私たち人間は、誰であっても他人の罪に対して気づくことができるにも関わらず、自分の罪に関して気づけないことがあります。いや、他人の罪が目障りに感じる時こそ、実は、自分の中にも同じような罪が隠れているのです。私たちは自分の罪に目を向けていくと、だんだん暗い気持ちになっていきます。しかし、だからこそ、イエス様の十字架に目を向ける必要があると気づき、そして、実際に、イエス様に心を向けていく時に、罪が赦されている喜びと平安で心が満たされていくのです。

 ある人は、子育てをしていく事を通して、いかに自分が罪人かに気づくようになったと証しています。また、別の人は、職場の人間関係の複雑さを通して、いかに自分が自己中心的な考え方をしているかに気づかされたと証しています。更には、親子関係や夫婦関係を通して、自分が罪人だと気づかされたと証している人もいます。多くの場合、人との関わりを通して本当の自分に気づかされるのです。

 私たちは、注意しないと律法学者のようになって、罪深い人を見つけては文句を言うような人間となってしまいます。一方、取税人レビのように、自分の罪を自覚することができるならば、イエス様の福音を喜んで受け入れることができるようになります。イエス様は私たちの罪を赦し、聖めるために十字架の上で苦しんで下さいました。このイエス様に信頼することができれば幸いです。

 お祈りします。

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