2024 年 7 月 14 日

・説教 マルコの福音書2章1-12節「罪を赦す権威」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:37

2024.7.14

内山光生


序論

 最近、蝉の声がよく聞こえてくるようになりました。すでに何度か、真夏日となった日がありますが、もうすぐ梅雨が明けて、いよいよ夏本番を迎えようとしています。

 私は4月から芥見教会で奉仕をさせて頂いていますが、あっという間に4か月目となっていることに驚きを覚えます。この調子だと、すぐに1年が過ぎ去るのではないかと感じるのです。

 では順番に聖書を見ていきましょう。

I 中風の人が運ばれてくる(1~3)

 1~3節を見ていきます。

 前回の箇所は、ツァラアトに冒されていた人がイエス様によって癒された出来事が記されていました。それから数日経ってイエス様はカペナウムに戻ってきました。

 カペナウムの町の人々は、イエス様の評判を聞いていたものの、まだ、直接イエス様に会っていない人々が大勢いたと思われます。あるいは、もう一度、イエス様に会いたいと思っていた人もいたと思うのです。それで、イエス様が滞在している家に、多くの人々が押し寄せたのです。

 イエス様が滞在している家の中には、大勢の人が集まりました。更には、戸口のところまでびっしりと人で隙間がないほどになりました。そして、イエス様は、人々に向かって福音を宣べ伝えたのです。

 イエス様が地上世界に遣わされた目的は、あくまでも人々に福音を伝えることです。とはいえ、病で苦しんでいる人を癒したり、悪霊によって苦しんでいる人を解放したりして、助けが必要な人々に対して愛の御手を差し伸べました。

 この時も、イエス様は福音を伝えていたのですが、中風の人が連れてこられたと記されています。中風とは、現代の医学において、恐らく、脳卒中のような病だと考えられます。今の時代においても、脳卒中になると、後遺症が残って、身体の一部分が不自由になることがあります。そうなると、一人で生きていくことが難しくて、誰かの助けによって生活が成り立つのです。

 ここで登場してくる「中風の人」も、自力ではイエス様の元に歩いていくことができない人でした。それで、この人の家族あるいは仲間など四人の人の助けによって、イエス様に治してもらおうとやってきたのです。この姿を通して、この中風の人が周りの人々からどれ程大切にされていたかを垣間見ることができるのではないでしょうか。身体の不自由な人をなんとかして助けたい、その一心で、イエス様が戻ったとの情報が入るや否や、イエス様の元にやってきたのでしょう。

II 中風の人に罪の赦しが宣言される(4~5)

 4~5節に進みます。

 ところが、イエス様がおられる家の中には、すでに大勢の人がいましたので、全く近寄ることができない状況となっていました。私が思うに、急がなくても待てばいいじゃないか。ある程度、時間が経てばきっと人が少なくなるに違いない、と楽観的に考えるのですが、中風の人の仲間4人は、大胆な行動をとったのです。

 なんと、屋根をはがして穴を開け、そこから、中風の人を吊り降ろすという方法をとったのです。確かに、当時の家は、今の日本の家とは違って、簡単に屋根がはがせる構造だったと言われています。しかしそれでも、許可なく他人の家の屋根をはがすなんて、かなりリスクがあることです。家の持ち主から苦情を言われて、追い返される危険がありました。とにかく、常識では思いつかない方法で、中風の人をイエス様に引き合わせようとしたのです。

 彼らのこの行動についてどう思うかは、人それぞれだと思います。しかし、ここには彼らの行動に対して文句を言っているという情報は記されていません。むしろ、イエス様の反応が強調されています。
 イエス様は、「彼らの信仰」つまり、中風の人に加えて、4人の仲間が、しっかりとした信仰があることを見られたのです。そして言われました。「子よ、あなたの罪は赦された」と。

 このイエス様の言葉は、中風の人やその仲間が期待していたものとは違っていました。言うまでもなく、彼らは、イエス様ならば中風という病を治すことができる、そう期待していたゆえに、リスクがありながらも、屋根をはがしてイエス様の元に近づいたのです。しかし、この言葉によって、イエス様は単に人々の病を癒すためだけでなく、人々の本当の問題に光を当てるためにやってきたことが明らかにされているのです。

 中風の人が癒されたならば、確かに、もう一度、自分の足で歩くだけでなく、きちんと仕事をすることができる。そういう喜びを味わうことができます。しかし、もしもその人が罪の赦しを得ていないならば、結局のところ、その人の人生は本当の意味での喜びではなくなってしまうのです。

 だからこそ、イエス様は、中風の人に最も大切なもの「罪の赦し」を最初に宣言したのです。

III 律法学者たちが心のなかでイエス様を非難する(6~7)

 6~7節に進みます。

 ところが、「あなたの罪は赦された」というイエス様の発言は、律法学者たちにとっては問題発言となったのです。律法学者たちは、これはおかしな事を言っていると感じながらも、まだ、口には出さずにいました。しかし、イエス様は、彼らが心の中で何を考えているかを見抜いていました。

 律法学者たちはイエス様の発言に対して「神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」と心の中でイエス様に文句を言っていたのです。

 ここにイエス様に対する信仰があるかどうかの違いが出てくるのです。イエス様に対する信仰を持っている人ならば、イエス様が「あなたの罪は赦された」と言ったとしても、何も違和感を感じることがないのです。なぜなら、イエス様こそ救い主なのだから、当然、罪を赦す権限をもっていると考えるからです。

 他方、イエス様に対する信仰がない者にとっては、「あなたの罪は赦された」といった発言は、神を冒瀆していることだと感じてしまうのです。

 確かに、人間の罪を裁くことができるお方は、聖書が示している神のみです。また、人間の罪の赦しを宣言できるのも、まことの神のみです。だから、軽々しく罪の赦しについて語ることはできないのです。もし「罪の赦し」を宣言しているお方がいたとすれば、その人は神だと言える。いや神に違いない。あるいは、その反対の考え方もできるでしょう。つまり、自分を神だと自称している偽預言者だと言える。そのいずれかとなってしまう。では果たして、イエス様はどちらなのでしょうか。そのような問いかけがなされているのです。

 そして、それに対する答えは各々が自分自身で判断するようにと促されているのです。

IV 律法学者たちの心を見抜いて応答する主イエス(8~9)

 8~9節に進みます。

 イエス様は、律法学者たちがよからぬ事を考えていることを見抜いていました。それで、彼らに対して質問を投げかけたのでした。

 イエス様の質問は、「中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」でした。

 これに対する答えは、その人がどういう立場なのかによって意見が分かれていきます。例えば、律法学者たちは、罪の赦しを宣言することができるのは神のみだと考えていました。だから、「あなたの罪は赦された」とは決して口に出すことができなかったのです。かと言って、「起きて、寝床をたたんで歩け」という言葉も簡単には言うことができないのです。なぜなら、もしもすぐに中風の人が起き上がらなかったとすれば、恥をかくことになるからです。

 それゆえ、律法学者の立場からすれば、両方とも、決して口にすることができない内容だったのです。

 一方、律法学者ほどこだわりのない立場の人ならば、「あなたの罪は赦された」と言う方が簡単だと言えるでしょう。なぜなら、罪が赦されているかどうかは、目で確認することができないからです。しかし、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言ったならば、中風の人の身になんらかの変化が起こらなければ、その人には何も力がない事が明らかになります。それゆえ、「起きて、歩け」の方が難しいと言えるのです。さて、イエス様はこの後、どういう言葉をかけるのでしょうか。

V 罪を赦す権威を持っていた主イエス(10)

 10節に進みます。

 新約聖書の中で「人の子」と出てきたならば、ほとんどイエス様ご自身の事を指しています。人の子であるイエス様は、この地上において、罪を赦す権威を持っているのだ、ということが、ここに記されています。それゆえ、今日の箇所は、中風の人が癒された出来事が記されていますが、マルコが言いたいことは、イエス様には地上で罪を赦す権威がある、ということなのです。そして、イエス様が伝えている福音は、まさに、私たちの罪の赦しなのです。

 人は誰であっても神の基準からすれば、多くの罪を犯す存在です。その罪の結果、暗い人生となったり、自分が嫌いになったり、他人を憎んだりするのです。しかし、それらの罪がイエス様の十字架によって赦されるという、聖書の言葉を信仰によって受け止める時に、罪が赦されている喜びで心が満たされるのです。

 イエス様には、私たちの罪を赦す権威が与えられていて、私たちがイエス様の十字架を仰ぎ見るとき、罪が赦されている喜びで満たされるのです。

VI 中風の人が癒されたことに驚いた人々(11~12)

 11~12節に進みます。

 さて、イエス様は、その場にいる人々に対してご自身が「罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」との前置きをしながら、いよいよ、中風の人に癒しの御手を差し伸べるのです。

 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」

 この言葉は、実際に病気を癒す力がある人のみが言うことができるものです。そして、イエス様には、その力があったのです。

 この言葉の通り、中風の人は立ち上がって、自分の足で歩いて、人々の前から出ていったのでした。

 驚くべき奇跡です。中風という病は、今の時代でもそうですが、医学の力では治すことが難しい病でした。しかし、イエス様には、中風の人を癒す力があったのです。

まとめ

 イエス様は、罪を赦す権威を持っているお方です。そして、罪の赦しこそ、本当の意味で私たちの人生に輝きをもたらすものです。とは言うものの、私たち人間は、自分の願いが叶わないと、なかなか、神様に心を開くことが難しいのかもしれません。

 神様は私たちの弱さをご存じのお方です。だから、私たちの切なる祈りに応えてくださることによって、神様の愛がどれ程大きいのかを示そうとしているのです。

 今日の箇所の出来事では、四人の人がイエス様が滞在している家の屋根をはがしてまで、イエス様に中風の人を治してもらおうとしたことが記されています。そして、イエス様は彼らの常識を外れた行動、ある意味、家の持ち主に対して迷惑をかけているのですが、、、しかし、そのことについては一言も悪く言っていません。むしろ、彼らの信仰を見られたのです。すなわち、イエス様の元にこの中風の人を連れていけば、きっと病を治して頂くことができる、そういう信仰があったのです。

 多くの人は、人生の中で、もう神様に祈るしか方法がないという程の試練を体験することがあるのではないでしょうか。病気の場合もあるし、人間関係の疲れ、あるいは、仕事上の悩み、家庭での悩みと、自分の努力では乗り越えることが難しい試練というのは幾つも存在します。そんな時、私たちは、大胆にイエス様の元に行き、イエス様にお願いすれば良いのです。

 神様は、私たちに対して、どのような信仰があるかどうかを見ておられるのです。そして、私たちの祈りに対して何らかの応答をして下さるのです。そのようにして、私たちが神様の愛の大きさに触れる時、イエス様の十字架の贖いによって罪が赦されていることが、どれ程、感謝すべきなのかに気づかされるのです。

 お祈りいたします。

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