2024 年 7 月 7 日

・説教 ルカの福音書12章54-59節「主はどこを見ておられるのか?」

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2024.7.7

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所はルカの福音書の第12章の最後のところです。この12章は主イエスが群衆や弟子たち、パリサイ人たちに向けてお語りになられた警告の言葉が次々に語られているところでした。そして、その結びの箇所が今日の54節から59節です。

 前回の聖書箇所では、主イエスを受け入れると、分裂が起こるという話をなさったところまでお話ししました。この12章は、主イエスの厳しい言葉が続きます。警告の言葉ばかりですから、厳しい言葉と感じるのは当たり前と言えばそうなのかもしれません。「警告の言葉」というのはどうしても強い言葉になります。けれども、その背後にあるのは、主イエスの深い愛情です。こういう厳しい言葉を聞くときには、私たちはその背後にある主イエスの深い愛情を受け止めることが大切です。

 しかし、実際に警告の言葉を耳にする時というのは、なかなかその背後にある愛情を受け止めるまでの余裕がありません。私も、子どもの頃は度々父や母から厳しい警告の言葉を投げかけられ続けていました。「ちゃんと勉強しないと、ろくな大人になれないぞ」とか、「宿題をちゃんと出すように」、「忘れ物をしないように」という言葉などは、本当に耳にタコができるほど聞き続けてきました。親になってみると、そういう言葉を親は本当に子どものことを思って言っているのだということが分かります。けれども、子どもの頃は「うるさいなー、毎日毎日飽きもせず同じことばっかりでうんざりする」と内心思っていました。

 「親の心、子知らず」と言いますが、まさにそういうものだと思います。この芥見教会でも、子どもたちが何人も礼拝に出ていますが、厳しい言葉の背後にある親の愛情を受け取って欲しいなと願っています。もちろん、それは、子どもたちだけではありません。主イエスの言葉を向けられている私たちも同様です。

 厳しい言葉を毎週次々と説教しなくてはならないと、私自身もため息が出そうになることがあります。けれども、こういった厳しい箇所こそ、私たちは、心を開いてよく聞き、その背後にある主イエスの愛情を受け止める必要があるのだと思うのです。

 さて、今日の箇所も、主イエスはここで二つのことを話しておられます。前半は、54節から57節です。ここでは、あなたがたは天候の見分け方の知恵をもっているのに、自分のための大事は判断をしないで、時代を見極めることができないのは何故かと主イエスは問いかけておられます。後半の58節と59節では、自分が隣人から何か訴えられるようなことがあるときには、裁判が始まる前に、和解しておくようにという勧めがなされています。そこまでは比較的簡単に理解できます。けれども、ここで主イエスが何を意図されているかを掴もうと思うと、少しわかりにくく感じるかもしれません。

 今日の部分の話の聞き手は「群衆」です。54節で「主イエスは群衆にもこう言われた。」と書かれています。その前にされていたのは、ペテロをはじめとする弟子たちへの教えでした。ここで主イエスはペテロの質問に答えて弟子たちに心構えを教えられた後で、群衆にも同じように終わりの時の心構えをお話ししておられるわけです。

 そこで、人々に向かって主イエスが言われるのは「これはあなたがたにとって大切な問題なのだから人任せにしないで、自分で判断しなさい」というメッセージです。

 そうすると、先週の説教を聞いておられた方の中には少し混乱する方がおられるかもしれません。先週の説教で私は「説教の中で自分は信仰を持っていて、自分の考えは聖書の教えに立っているので、自分の意見が絶対正しいとやってしまうと、対立を生むことになるので、それは気をつける必要がある」という話をしました。ですから、自分で判断するなと言われているように感じておられた方があったかもしれません。そうすると、今日のところでは、「自分で判断しろ」と言う。これは一体どういうことか? という疑問を持つ方があるもしれないなと思うのです。

 もちろん、そんなに混乱しない方はそのまま素直に聞いてくだされば問題ありません。先週私が話したかったのは、「自分で判断するな」と言ったわけではなくて、自分の意見は聖書の考えに立った判断なのでまちがっていないはず、自分が正義であるとして、相手を悪と決めつけてしまうと、そこには対話が生まれません。そこにあるのは、善悪だけで、自分は絶対的な正義であって、相手のことを一方的に悪人にしてしまうと、肝心な神の心である愛が届かなくなってしまうことに、注意する必要があると話したわけです。聖書の正しさを、自分の正しさとすることはできないのです。自分の考えが、すべて完全に神様のお考え通りに理解できているわけではないからです。まして、相手の考えが間違っていると決めつけては、聖書の考えとはまったく異なった考え方になってしまいます。

 ただ、聖書ははじめから、私たち人間に、自分で判断することを要求しておられます。聖書は、創世記の初めから、人間を創造された時から、「自分で判断するように」と人に応答する責任を託されました。これを「応答責任制」と言います。神のこのような思いがあるので、私たちは自由だと言うことができるわけです。自分で判断できないのであれば、私たちは不自由なロボットと同じです。けれども、神は、私たち人間に自由意志を与えて、自分で考え、自分で決断して判断するように、人間を創造されました。

 ところが人間は自分にとって大切な問題であっても、どこかで気楽に考えているところがあります。「だって、どうせ他の誰かがやってくれるから。自分なんて考えても大したことはできないし、分からないから、頭がいい人に任せればいい、もっとできる人がやればいい」と、どこかで考えているところがあるわけです。

 こういうところが、例えば選挙の時の投票率の低さにも現れてくるわけです。しかも、こういう考え方は、選挙の時だけでなくて、あらゆる分野で顔を出します。この国のシステムのこと、経済のこと、教育のこと、会社のこと、あげればキリがありません。そして、それは信仰のことも、自分自身の大切なことなのに、人任せにしてしまう部分があるわけです。

 けれども、すべてがまるっきり人任せかというと、そういうわけでもありません。たとえば、自分に直接関わる天気のこと、たとえばこの聖書に挙げられているように、西に雲が出て来ればにわか雨が来るぞと言って、必要な準備をしたりします。今で言えば天気予報を見て、傘を持って出かけたりはするわけです。あるいは、今日は暑い日になるとわかっていれば水筒の準備をするとか、脱水にならないようにお茶を準備したり、塩飴を準備したりしようと考えるわけです。

 それなのに、自分にとって大切なこと、「今の時代を見分ける」ことに関しては人任せにしているのは何故だと、主イエスはここで問いかけておられるのです。

 「今の時代を見分ける」という言葉が56節で使われています。この言葉は、次の57節では「何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。」と書かれています。そこで、問われているのは「正しさ」だというのです。

 では、ここで言う「今の時代」というのは、一体何を指しているのでしょうか。実は、この「時代」と訳されている言葉は、少し特別な言葉で「カイロス」というギリシャ語が使われていまして、「時」と訳されていることが多い言葉です。ところが、一般の時間を表す場合、聖書は「クロノス」という言葉を使います。このクロノスは一般的な「時」「時間」を表すのですが、ここで使われている「カイロス」という「時」は、「神の時」とでもいうような「特別な時間」を意味しています。

 ではこの特別な時間というのは、何のことかというと、それは「主イエスがおられる時」のことを指しています。主イエスがおられる時間というのは、普通の時間ではありません。まさに特別な時間です。まさに、「神と共にある時間」です。神と共に生きている時間です。

 この世界の創造者であられる神ご自身が、人と共に歩まれた時間、人と共に過ごしておられる時間、その時間というのは、まさに人にとってはとても貴重な、この上もなく大切な時間です。そして、そんな主イエスの話を、今は直接自分の耳で聞き、自分の目で見、自分の声を届けることができる大切な時なのに、その主イエスと共に過ごす時間が、人にとってどれほど大切な時なのかが人々には分かっていないのです。神ご自身に自分の生活が見られている、そして、そんな人々に主イエスが直接、その生活をご覧になられて、直接語りかけておられる。そうであれば、このお方の言葉に耳を傾け、自分で判断し、自分で決断するしかないのに、他の周りの人たちはどう見ているんだろう、このお方はどのくらいすごい方なんだろうかと呑気に考えて、何千人、何万人という人々がこの時、主イエスを取り囲んでいながら、まだその判断を決めかねているのです。

 そんな群衆に向かって主イエスはそんなに悠長に構えていていいのか? 見えていないのか? 分からないのか? と問いかけておられるのです。

 今、わたしがあなたがたと共に生きている。それはこれまで過ごしてきた時間とは、まったく異なる特別な時間であるはずなのに、どうして自分で判断できないのかと問いかけておられるのです。

 私たちの主イエスは、私たちと共に時間を過ごしてくださるお方です。そして、私たち一人ひとりにみ言葉を通して主イエスご自身のことをはっきりと示してくださいます。主は、私たちと共にいてくださるお方ですから、私たちが生かされている状況を良く知っていてくださいます。そして、その私たちが助けを必要としているときには、最も必要な助けを備えてくださいます。私たちが大切な判断をすることができるための材料を、あらかじめみ言葉を通して示してくださっているのです。

 つまり、主イエスはここで人々に神との正しい関係について、今、このときに判断することができるように備えていてくださっているのです。

 私は明日の月曜日、東海聖書神学塾の主催するアドヴァンスコースと言いまして、すでに牧師として働いておられる方々のための継続教育のセミナーでお話しすることになっています。今年の、アドヴァンスコースのテーマは「牧会事例研究」というものです。それで、神学塾の運営委員の教師たち5人が一年に2回ずつ担当しまして、それぞれの牧会の中での事例を紹介しながら、こういうときにどうするかということを、一緒に考えようという時を持とうとしています。それこそ、その時にどういう判断をするのが良いのか、あるいは間違った判断をしてしまうということも起こりえますから、そういうさまざまなケースを取り上げて、みんなで一緒に考える時を持とうとしているわけです。

 牧師が10人いれば、その10人は様々な取り扱いをすると思います。皆が、同じような判断ができるわけではありません。そこで、その牧師の性格や、性質というものが顔を覗かせます。例えば、どこかで誰かが喧嘩をしてしまう、諍いをおこしてしまう。そういうケースの時に、どちらの意見を受け入れるのか、あるいは、その時にどういった指導をするのか、どうするのが正解だったのか、いろいろなことを考えるわけです。牧師も完璧な人間ではありませんから、いろんな失敗をします。私などは「失言大王」とさえ言われることもしばしばですから、常に、後で振り返って今の自分の発言で誰かが傷付かなかったかというようなことをよく考えます。

 大切な事柄であればあるほど、人任せにすることはできません。ときにはおせっかいなことをしてしまうこともありますし、反対にここは少し様子を見ていようと遠慮していると、後でもっと積極的に関わった方が良かったと反省するケースも起こります。失敗することも多々ありますが、それでも、人と関わり続けていく必要があります。特に、私たちは自分たちの意思で判断することを神様が私たちに求められているわけですから尚更です。

 まして、誰かが、信仰の問題で悩んでいたり苦しんでいたりするのであれば、それはその人と神様との関係のことになるわけですから、そこから逃げるわけにはいきません。失敗することもありますが、その失敗と共に、私自身も学びますし、その中で神様にも、他の人にも赦しをいただきながら関わりを持ち続けるわけです。

 後半の58節、59節も同様です。私たちは、周りの人たち、隣人と共に生きているわけですから、その中で赦しあって、理解しあって、受け入れあっていく必要があるのです。その時に、一番大切なことは、神を愛することと、隣人を愛することです。

 自分の気持ちを最優先にするとき、それは最初にお話ししたように、常に失敗することを意味します。ですが、不思議なもので、私たちは多くの場面でこの自分の考えや意見を最優先させてしまうわけです。そして、そういう時に限って、自分が正しいと思い込んでしまうのです。

 私たちは、自分で判断することが要求されているのですが、その判断の基準はいつも、自分ではなくて、神のことを第一に考えることであり、第二番目に隣人のことを考えることです。この優先順位を間違えてしまうと、かならず失敗することになるのです。

 昨日私は、笠松教会のある方の葬儀をいたしました。亡くなられた方は、昨年の10月に洗礼を受けられた89歳の方です。教会に初めて足を踏み入れたのは50年以上も前のことでしたが、なかなか信仰には至りませんでした。その間に、実に多くの宣教師や、牧師たちが関わってこられました。昨日の葬儀の時、4名の牧師が来てくださいまして、本当にこの方のために、多くの牧師が関わってこられたのだということがよくわかりました。

 長い間、この方はこの大切な判断を保留にしてきたのです。けれども、家族の長い祈りと、多くの方々の関わりによって、その方が信仰に導かれました。ですから、昨日行われた葬儀は、本当に大きな喜びが支配していました。この方を導かれた奥様が最後に挨拶をされたのですが、私はその挨拶を聞きながら非常に感激しました。どれほどご主人の救いのために祈ってきたのかがよく分かりました。私がそんな話を葬儀の後でお話しすると、葬儀に来ておられた他の方々も何人か同じように感じたと話してくださいました。そのような祈りと多くの人の関わりの中で、信仰の決断へと導かれていったのです。

 神との関係を回復し、隣人との関係を回復すること。これが、この所のテーマです。そして、この大切な決断は、先延ばしにしていてよい問題ではありません。私たちにとって、緊急のテーマでさえあるのです。

 主イエスは私たちのすぐ近くにきてくださるお方です。そして、私たちに関わってくださって、私たちに何が正しいか、神の御心はどこにあるかを聖書を通して教えてくださるお方です。ここには、私たちへの深い愛が込められています。この主イエスの愛を受け止めるなら、私たちもまた、主の愛に応え、また隣人に対しても愛の心で接することができるように変えられます。こうして、主の素晴らしさが証しされるのです。

 主イエスの語る言葉の中には、大きな真理が語られています。人に対する深い洞察があり、大きな愛があります。このことがわかると、私たちは安心して、この神のお考えに従うことを決断することができるようになります。私たちが決断する時に、その判断に確信を与えてくださるのです。それは、私自身を誇りとするためではなくて、神と隣人のための確信です。そんな、確かなものを心に秘めて、自由に生き、自由に判断することができる者へと、私たちを成長させてくださるのです。

 お祈りをいたします。

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