・説教 ルカの福音書12章41-48節「必ず帰ってくる主人」
2024.6.2
鴨下直樹
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先日、インターネットを見ていましたらガス会社のCMが流れて来ました。「子育てのプレイボール」篇というCMです。
このCMは若い夫婦のもとに赤ちゃんが生まれるところから始まります。この子育てを野球に例えているのですが、はじめにご主人が先発ピッチャーとして登場します。ところが、ご主人の育休はすぐに終わってしまって、そのあとは奥さんがリリーフピッチャーとして交代します。もう疲れ果てたところに、おばあちゃんが助っ人として登場したり、保育園に入った子どもが熱を出してしまってピンチになると、ご主人が子どもをお迎えにいくために、ご主人の会社の新入社員が仕事を代わってくれたりと続いていきます。そして、子育てをするためには街のみんなの協力が不可欠というメッセージで結ばれています。
私はインスタでこのCMを見たのですが、そこにコメントがいっぱい載っていて、このCMを見て涙が出てくるというコメントで溢れていました。その中で、いくつか気になったコメントがありました。「ワンオペ育児」なる言葉がありますが、そこには自分一人で子育てに苦しんでいる人たちの訴えが書かれていました。夫にも頼れない、両親も遠くに住んでいるとか、いろんな事情で頼れない、そんな苦しみの言葉が目に留まりました。そこには人が孤独であることの辛さが溢れていました。自分の苦しみを誰にも分かってもらえない。共有することのできない悲しみが綴られていました。それを読みながら、私自身も反省する部分がたくさんあることに気付かされました。このCMを見ながら、今日の聖書箇所に通じる部分があるなと思わされました。
今日の聖書の箇所は前回の続きの部分で、主人のしもべが主人が留守の間に自分の務めを果たしているかどうか、自分のやるべき仕事をこなしているかどうかが問われる話です。
前回は35節から40節までの部分で結婚式に出かけた主人の留守をあずかるしもべの譬え話と、泥棒が来ても大切なものを奪われないように備えておく譬え話が記されていました。この前の部分を読みますと、主人の帰りを待つしもべも一人で孤独に待つよりは、他の仲間や協力者があるのとではだいぶ違うかなと思わされます。
今日は、その続きからなのですが、弟子のペテロの質問から始まっています。41節。
そこでペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」
ペテロは主イエスの譬え話が、何を意味するのか主イエスの意図がつかめなかったようです。そこで、主イエスはさらに譬え話をして、ペテロの問いかけにお答えになられました。
それが今日の42節から記されている「忠実な管理人の譬え話」です。
この管理人は「主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える」仕事を任されていました。そして、主人が帰って来た時にちゃんと管理人の務めを果たしている僕は幸いであると43節に書かれています。
そして、さらには忠実な管理人に「自分の全財産を任せるようになります」と44節に書かれています。これが、忠実な管理人に対する主人の態度です。ここには、主人の管理人に対する絶大な信頼が表わされています。
この主人は意地悪な主人ではありません。基本的にこのしもべ、管理を任せたしもべのことを信頼しているからこそ、この役割を任せたのです。この忠実な管理人が誰のことを指しているのかペテロには分からなかったようですが、主イエスの意図は明らかで、弟子たちのことを指しています。私たちも弟子たちと同様に、主からこの役割を任されています。それは本来孤独な務めではありません。一緒に仕える仲間たちである弟子たちがいます。あるいは、教会の仲間たちがいます。それぞれに役割が違いますが、明らかな主人の意図は、食事の時に決められた分を与えるのが仕事だと言うわけですから、み言葉を人々に届けるのが使命です。これは、本来嫌々やらされているものではなくて、それこそ子育てのように楽しんで、愛情を込めて行うものです。孤独に陥るような務めではありません。みことばを聞いて、新しく信仰に生きる人が起こされる。そうして一人の人を育て上げていく働きというのは、子育てと同様にやりがいがあります。喜びがあります。そして、そこで一緒に協力をしてくれる仲間も与えられているのです。
私たちの主人は、私たちにワンオペを要求なさるお方ではありません。私たちを孤独にされるお方ではないのです。そして、主は私たちを信頼し、期待を抱いていてくださるお方でもあります。何よりも、全財産を預けても良いとお考えなのです。
では、主が私たちに託してくださる全財産とは何でしょうか? それは、私たちを主のものとするために、神の御子であられる主イエスを全て与えても良いとお考えになられたということです。ご主人様であられる主のすべてを私たちに託してくださったのです。
これが、主の弟子であり、主のしもべの姿なのです。そして、この主は私たちを孤独にしないために、必ず戻って来ると約束を残してくださったのです。主は必ず戻って来られる。私たちを迎えに来てくださる。この知らせこそが、私たちへの福音なのです。
さて、この譬え話には気になるもう一種類の人が描かれています。それは不忠実なしもべです。そのしもべは45節、46節にこう記されています。
そのしもべが心の中で、「主人の帰りは遅くなる」と思い、男女の召使いたちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て
とあります。
このしもべは主人のことを侮っています。バレなければ何をやっていても大丈夫だという考えです。しもべは本来の仕事をしないで、他の人に横柄で、自分の楽しみに興じてしまいます。
ここでしもべは主人のことを忘れてしまっています。主を忘れてしまうと、自分が主人になったと思い込んでしまうのです。この誘惑が常に私たちにはあるのです。私たちは、日常の生活の中で、主のしもべであるということを忘れて生活してしまうことが起こり得るのです。主は戻って来ない。再臨はない。まだ自分は死を迎えるほどの年齢でもない。そんなふうに考えて、自分の人生を自分の思うままに生きてしまって、主人のしもべであることを忘れてしまうのです。けれどもそれは、自分が何者であるかを忘れてしまっているということでもあります。
私たちは何者なのでしょうか? どういう存在として、主に生かされているのでしょうか。私たちは、都合が悪くなると、周りの人が助けてくれないと人のせいにしたり、自分一人の方が気楽だと考えられる時は、誰も寄せ付けないような生活をしてしまう。そうなってしまうなら、それはもはや主に与えられた新しいいのちに生かされているとは言えません。
35節で語られているように、腰の帯を締めず、明かりを灯すことも忘れてしまって、暗闇の中で、誰にも見られないような生活に身を置こうとしてしまうのです。
主イエスはここでそのようなしもべは鞭打たれると言う厳しい言葉を使っています。主人の思いを知らなかった者よりも「むちでひどく打たれる」のです。
ここに、私たちに向けられている責任の重さが語られています。ただ、私たちはこういうみ言葉を読むと、震え上がるような恐ろしい気持ちになって、こういうみ言葉に耳を塞ぎたくなります。いっそ聞かなかった方が良かった。そうすれば、そのしもべは少ししか鞭打たれないのだからと考えてしまうことが起こるかもしれません。
先週の礼拝の後で行いました礼典部主催の学び会で「ディボーションの祝福」というテーマでお話ししました。そこでもお話ししたように、聖書を読む時に大切なのは「書いた著者の意図を読み取る」ということです。私たちは厳しい裁きの言葉を目にすると、途端に福音の言葉が頭の中から消えてしまいます。やっぱりクリスチャンは大変だということになってしまいかねません。ここでルカが伝えたいのは、弟子の大変さではなくて弟子がどれだけ主に期待されているかです。自分が怠惰になってしまうと、その祝福を受け取り損ねてしまいますから、時折このような厳しい警告の言葉がでてきます。そうすると、厳しいと感じてしまうのです。しかし、肝心なことはしもべとしての責任を明確に伝えておくことです。そして、ここで語られているしもべの務めというのは、「食事時には彼らに決められた分を与える」という42節に記されていることを行うことです。つまり、み言葉を私たちの周りの人に届けていくことです。
隠れキリシタンになるのではなく、キリストの福音を喜んで証ししていくことです。それは、無理矢理にやらされていることでもありません。私たちは、私たちができることをみんなで助け合いながら、行っていくのです。
まず、そのために私たちの生活が主のみ言葉を喜んで受け取ること、福音を聞き取ることから始まります。喜びが私たちの心の中になければ、何も伝えるメッセージはありません。まずは、自分が福音に生きたら良いのです。そして、そのことを生活の中で証しできれば良いのです。
この説教のはじめにCMの話をいたしました。ぜひ、みなさんにも一度みていただきたいと思いますが、みていなくてもイメージはできると思います。一人の子どもを育てていくためには、どれだけ多くの人の助けが必要か。
それと同じで、一人のクリスチャンが誕生するためにも、多くの人たちの助けが必要です。何度も信仰のピンチがやって来ます。不信仰に陥りそうになることが、次々に起こります。ワンオペでこの信仰の試練に立ち向かうことはできません。主は、私たちを孤独にしないために、何よりも主ご自身を私たちに与え、私たちのうちに神の霊を与えてくださいました。そして、共に信仰の歩みをする教会の仲間を与えてくださいました。
一つの教会だけでなく、周りにもたくさんの教会があって、いろんな教会の人に支えられるということもあるでしょう。あるいは、たくさんの信仰の書物に勇気づけられたり、今ならYouTubeで賛美を聞いたりメッセージを聞いたりすることもできます。そして、一緒に食事をしたり、話しあったりする仲間を通して、私たちは孤独ではないことを覚えていくのです。そればかりか、今度は私が誰かを助けたり支えたりする役割をになっていることにも気付かされたりもします。
私たちの主人は、私たちを孤独にはしません。そして、私たちのために、良いものを備えてくださいます。この主は、やがて戻って来ると、再臨の約束をしておられます。ですから、私たちはその時まで、私たちの務めとして、み言葉を証し続けていくのです。
私たちは今から聖餐の食卓に招かれています。これは、主を忘れることのないように、主ご自身を心に刻むために行うものです。主が私たちのために「全財産を任せてくださる」それが、この聖餐によって明らかにされているのです。主の再臨を覚えながら、私たちはこの時、聖餐にあずかり、共に主が再び来られる日を待ち望みましょう。
お祈りをいたします。