2024 年 6 月 23 日

・説教 マルコの福音書1章40-45節「病のいやし」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:59

2024.6.23

内山光生

序論

 今日の箇所には「病」、つまり「ツァラアトに冒された人」が癒された出来事が記されています。ツァラアトは、以前の翻訳では「らい病」となっていました。しかしながら、聖書の研究が進むにつれて「旧約聖書に記されているらい病は現代医学のらい病と同じではない」ことが分かってきました。

 旧約聖書では、「らい病」は様々な種類の皮膚病のことを指す時に用いられています。そこには幅広い病が含まれています。一方、現代医学のらい病は極めて限定された特定の感染症なのです。

 特に日本においては、以前は、らい病患者に対する差別や偏見があった事から、(現在は法律が改正されたので良い方向に進んでいますが、、、)誤解を与えないためにも「らい病」という言葉を使うのをやめた方が良いとの考えで、新改訳2017版では「ツァラアト」あるいは「ツァラアトに冒された人」と訳されています。別の翻訳では「重い皮膚病」と訳されている事もあります。

 何れにせよ、聖書に出てくる「ツァラアトに冒された人」が、大変みじめな人生を送っていたことは確かなことです。それは、単に病による肉体的苦しみだけでなく、社会的に隔離生活を強いられなければいけないという、精神的苦しみが伴ったからです。

 当時は、ツァラアトに冒されたならば、その人は、一般の人々の前に出て来ることが禁止されていました。恐らく、伴侶や親兄弟とも距離を置かざるを得なかった事でしょう。そのような悲惨な状況が変えられた人の話が今日の箇所に記されています。
 

I ツァラアトの人を癒された主イエス(40~42 )

 では今日の聖書箇所の40~42節から見ていきます。

 先ほど説明したように、当時のユダヤ社会では、ツァラアトに冒された人は隔離された生活をしなければなりませんでした。それゆえ、一般の人が大勢いるような場所に行ってはならなかったのです。

 そのことを考えると、このツァラアトに冒された人は、恐らく、イエス様に近づくためのタイミングを見計らっていたのではないかと思うのです。もしも誰かに「あの人はツァラアトに冒された人だ」と指をさされたら、その場にいることができなくなります。そうならないために、この人はイエス様の周りに人が少なくなった時を見極めて、そのチャンスを生かしてイエス様にお願いしたのではないかと思うのです。

 ツァラアトに冒された人は言います。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」と。この人は、自分が重い皮膚病だという事、そして、他人が自分に触ると病がうつることを自覚していたのでしょう。だからイエス様に病気をうつさないために「お心一つで」と言ったのでしょう。この人は、それなりに気を遣っていたのです。

 さて、40節のこの人の姿を通して、教えられることがあります。それは「イエス様ならば、自分の病を癒すことができる。」と心から信じ、イエス様に近づいていった、という点です。というのも、この時代には、この人以外にも、多くのツァラアトに冒された人がいたと思われます。しかし、常識的に考えると、「人々が大勢いる場所には行くことができない。禁止されているのだから、、、。」と考えるものです。でも、この人は、そのような常識を乗り越え、なんとかして、自分の病が癒されたいと強く願ったのです。

 私たちの事を考えてみましょう。良い話も聞いただけなら、何も変化は起こりません。しかし、実際に何らかの行動に移す時に今の状態が変えられていくのです。同じように、聖書のことばも、「聞いて良かった」だけで終わっていたならば状況が変わることは期待できないでしょう。しかしながら、みことばを実行することができるようにと神に祈る時、聖霊が働いて下さり、心が作り変えられ、行動に変化が出てくるのです。

 当時の常識からすれば、ツァラアトに冒された人が自分の方から病気でない人に近づくことは禁止されていました。しかしながら、イエス様は、ツァラアトに冒された人に対して、そのことで文句を言っていません。むしろ、この人の熱心な姿に心を打たれたのでしょうか、この人に対してあわれみを示されたのです。

 具体的には、イエス様がご自身の手を伸ばして、ツァラアトに冒された人にさわられたのです。これはさわられた当事者からすれば、全く予想していなかった出来事です。「自分に触れたら病気がうつるので、そうならないために、お心一つで直してください」とお願いしたのですから、、、

 イエス様はツァラアトに冒された人をご自身の手でさわられただけでなく「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。すると、この人から病が消え去ったのです。

 私自身、風邪をひいたり体調が悪い時は、神様にお祈りをするのですが、だからといって、瞬間的に癒される訳ではないのです。それゆえ、イエス様の時代に生きていた人も、ことごとく瞬間的に癒されていくことに驚きを覚えたのです。そして、「あ~、自分も一瞬で癒されたいものだ」と思ってしまったことでしょう。

 確かに、私たちクリスチャンは神様に祈る時に病が癒されると信じて、互いに祈り合います。時に、熱心に祈ります。しかしながら、あのパウロが祈っても、癒されなかった事があったように、私たちは癒されない場合もあることを受け止める必要があります。

 最終的には、パウロは自分の病が癒されなくても神に感謝をささげております。私も含めて多くの人は、すぐにはパウロのような気持ちを理解できないかもしれない。時間がかかるかもしれない。でも、私たちが神との交わりを深めていく時に、いつかはきっとパウロの気持ちを理解できる時が来るのではないでしょうか。

 さて、今日の箇所は単に「ツァラアトに冒された人が癒された、良かった」という出来事ではありません。むしろ、次からの箇所が本題だと言えるでしょう。

II モーセの教えを実行するよう命じる主イエス(43~44)

 43~44節に進みます。

 43節で、イエス様はツァラアトを癒された人に対して、厳しく戒められたとあります。なぜ厳しく戒められたのかを考えてみましょう。

 ツァラアトに冒されていた人において、私たちが見習うべき点は、常識にとらわれずにイエス様に近づいて行った事、しかも、「イエス様ならば自分のツァラアトを治すことができる」と信じていたことです。この部分は、私たちもこの人のようでありたい、と願うところです。一方、この人には良くなかった事もありました。イエス様は、彼が戒めを守らないことを予期しておられたのでしょうか。かなり強い口調で「だれにも何も話さないように」と命じられたのです。イエス様が願っておられた事は、旧約聖書の教えに従って、「ツァラアトが治ったかどうかを祭司に見てもらうこと」でした。そして、治っていたのが確認されれば、その時、神様に「きよめのささげ物」をすることでした。

 けれどもイエス様は、この人は厳しく戒めなければ言う事を聞かないと察知しておられたのでしょう。結果的には、この人はイエス様の戒めを守らなかったのですが、それでも、イエス様としては言うべきことは言っておく必要があると考えられて、厳しく戒められたのだと考えられます。

 多くの人々は、戒められることを苦手だと感じます。けれども、イエス様が戒められる時には、必ず、それなりの理由があるのです。人間側には、その理由がすぐには分からないことがある。しかし、時が経って、起こった出来事について振り返ってみると、やはりイエス様の言われることが正しかったということに気づかされる、そういうことがあるのではないでしょうか。

 イエス様がツァラアトを癒された人に願っておられたのは、単に病が癒されて感謝の思いになるだけでなく、祭司のところへ行き治った事を認定してもらうことによって、社会的な立場が回復することであったのです。それこそ本当の意味での回復だと言えるからです。更には、神様への感謝を具体的な形で表すことを期待されていたのです。

 私たちは、クリスチャンの仲間のためだけでなく、その家族や友人・知人のためにもお祈りをします。病が癒されるように、また、試練を乗り越えることができるようにとお祈りをします。そして、祈りが聞かれた時に神様に感謝をささげます。しかしながら、祈りが聞かれたとしても、人々の心が神様に向かわなかったとすれば、とても残念な事だと言えるでしょう。

 神様の願いは、私たちが神と生きた交わりを持つことであって、具体的には、教会において礼拝をささげたり、各家庭において聖書を読んだり、祈りをささげたり、賛美をささげることにあるのです。だから、私たちは祈りが聞かれた時には、その後で、どのような行動を取れば神様が喜ばれるのだろうかを考えてみると良いでしょう。私たちが感謝をもって神との交わりを持つことこそ、神様が期待しておられることだという事を心にとめておきましょう。
 

III 言うことを聞かなかった癒された人(45)

 最後45節に進みます。

 イエス様が心配しておられたように、良くない結果となりました。ツァラアトを癒された人が、イエス様の戒めを破って自分の病が癒されたことを言い広めたのです。

 ある人は「なぜ癒されたことを言い広めることが悪い事なの。」と思うかもしれません。しかし、イエス様の願っておられたことは、あくまでも祭司のところに行って治ったことを認定してもらう事だったのです。その上で神に感謝のささげ物をすることだったのです。ところが、この人は言われたことを守らずに、単に「自分の病が癒された」ことを言い広めただけだったのです。

 この人に、悪意は無かったと思います。純粋にイエス様に感謝をしていたと思うのです。けれども、結果的には、人々にはイエス様がどういうお方なのかが伝わらず、誤解される事となったのです。

 確かに、イエス様は福音を人々に伝えられる際に、病を癒され、悪霊を追い出されました。しかしながら、イエス様の本来の目的は、福音を人々に伝えることの方だったのです。病の癒しや悪霊の追い出しは人々に強烈な印象を与えます。それがゆえに、気をつけないとイエス様のことを単に「特別な癒しができる人」と誤解されてしまう危険があったのです。

 実際、多くの人々はイエス様に対して間違った印象を持ってしまいました。その結果、イエス様は表立って町に入ることができなくなってしまわれたのです。

 イエス様は、町の外の、人がいない場所に退かれました。けれども、それでも人々はイエス様の元にやって来るようになったのでした。 

まとめ

 私たちは自分の身に何かすばらしい出来事が起こった時に、自然とそれを人々に知らせたいという思いになるものです。そして「だれにも何も話さないように」と言われたとしても、そんな戒めを無視して、かえって大きな声で言い広める、そういう事があるのではないかと思うのです。

 ツァラアトを癒された人には、良かった点がありました。一方、良くなかった点もありました。でもこれが人間の姿なのではないかと思うのです。

 だからこそ、私たちは自分の祈りが聞かれた時に、その後、どういう行動を取る事が神の喜ばれる事なのかをよく考えておく事が大切なのです。何も考えていないと、ついつい、自分の感情に流されて神様が願っておられないことをしてしまう危険が出てきます。けれども、あらかじめ、どうすることが神が喜ばれることなのかを知っていたならば、それなりの行動を取ることができるものです。

 もしも今日の箇所に出てきた人が、自分が軽率な行動を取るとイエス様に迷惑がかかる事をきちんと理解していたならば、この人は戒めを守って沈黙していた事でしょう。けれど、自分の軽率な行動の結果、何が起こるかを予想する力が不足していたゆえに、残念な結果となったのでした。

 私自身も神様の前に、何度も何度も失敗をしてきました。その事から考えさせられることは、神のみこころが何であるかを十分に祈っていなかったのではないかということです。それで結果的に的外れな行動をしてしまい、大きな痛手を負ったのでしょう。

 もちろん広い視点で見ると、神様は、私たちの失敗さえも益に変えて下さるお方です。それゆえ、自分を自分で責めすぎるのではなく、むしろ、正しい道を示して下さる神に期待をしていきましょう。

 お祈りいたします。

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