2024 年 6 月 30 日

・説教 ルカの福音書12章49-53節「主がもたらすもの」

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2024.6.30

鴨下直樹

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 間が3週間空きましたが、今日は久しぶりに、こうしてまた芥見教会の皆さんと共に、み言葉を聞くことができることを嬉しく思います。今、私たちはルカの福音書の第12章から、み言葉を聞いています。

 ルカの福音書の第12章というのは、主イエスが群衆たちや弟子たちに語り掛けられた教えのみ言葉が次々と語られているところです。そのほとんどは「警告の言葉」と言っても良いような内容ばかりです。

 今日の聖書は、少し、というよりは、かなり衝撃的な言葉が記されています。49節には「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。」とあります。また、51節には「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません・・・むしろ分裂です。」とも書かれています。

 こういう聖書箇所を聞くだけでも、少し気持ちが重たくなる思いになります。主イエスは、私たちに「平和をもたらすために」あるいは「愛や幸いをもたらすために、おいでになられた」というイメージがあります。また、いつもそういうメッセージを聖書から受け取っていますから、今日の箇所のような言葉を目にすると、少なくとも私たちは、あまり良い気持ちにはなりません。私たちを不安にするような言葉がいくつも続いているからです。

 たとえば、初めに出てくる「地上に火を投げ込む」という言葉を聞くと、そこからどうしてもイメージするのは「神の裁き」です。皆さんの中でも家族の中で、自分が最初にクリスチャンになったという方は、51節以降にある「分裂」の話も、ある程度同じような経験をされている方があると思います。教会に行くようになると、家族から教会に行くことを反対される。あるいは、教会の話をするだけでも、家の中の雰囲気が悪くなってしまうというような経験をされたことのある方も少なからずおられるのだと思うのです。ですから、聖書がここで言おうとしている事は何となく理解できるのですが、それではあまりにも慰めがない、福音の言葉が響いてこないという思いになるのかもしれません。

 主イエスはここで私たちに、いったい何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。

 49節を見てみます。「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」とあります。主イエスはここで、火が地上に燃えていてほしいと願っておられます。けれども、地上では主イエスが願っておられるような火が燃えていないというのです。だから、この地上に火をもたらしたいと仰っています。ということは、主イエスがここで仰っている「火」というのは、「裁きの火」のことではなさそうです。そうすると、この「火」は何のことを指しているのかを考える必要があります。

 裁きではないとすると、他の考えとしては「聖霊の炎」という意見が出てくるでしょう。ある意味では、この火は「聖霊」を指していると考えても良いと思います。けれども、聖霊がこの世界にもたらされるのは、ペンテコステ以降の話ですから、直接的には聖霊のことでもなさそうです。そうすると、この、主イエスがもたらしたいと願っておられる「火」というのは、この世界から消えてしまっている「火」ということになりますから、「信仰の炎」のことだと理解してまず間違いありません。信仰の火がこの地上に燃えていたらと、主イエスは願っておられるのです。

 けれども、人々の心の中に神を思う想いが消えてしまっているのです。だから、主イエスはこの地上に来られて、もう一度信仰を燃えあがらせたいと願っておられるのです。

 次の50節には「わたしには受けるべきバプテスマがあります。」とあります。この言葉も、少し比喩的な言い方をしておられるので、ここで主イエスが言っておられるバプテスマとは何のことなのかを少し考えてみる必要があります。50節の後半にはこうあります。「それが成し遂げられるまで、私はどれほど苦しむことでしょう。

 つまり、主イエスがここで言っておられる「バプテスマ」というのは、何かの苦しみを受けることを指していることになります。そうすると、それは「十字架」のことであるとか、主イエスがお受けになる苦しみ、「受難」のことを指していると考えられます。

 主イエスがこの世においでになられたのは、この世界に信仰の火を灯すためであり、そのために苦しみを担うことになるということが、この49節と50節で語られている内容なのです。

 そこまで分かってきますと、少しこの箇所を安心して読むことができるのではないでしょうか。、主イエスがこの世においでになられたのは、何だか災いの種をもたらす、喧嘩や分裂の火種をもたらすためかのような思いも持つのですが、実は主イエスご自身の使命のことが語られているのだということが分かってきます。

 主イエスは並々ならぬ覚悟と決意を持って、この世においでになられたということになります。たとえ自分が苦しみを受けることになっても、この世界の一人一人の心の中に、信仰の火が灯されていることがどうしても必要なのだと主イエスは思っておられるのです。

 けれども、そのように少し安心したところで、51節から主イエスはもう一度だめ押しの如くに、さらに厳しい言葉を語られます。

あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。

 主イエスが来られて、この世界に信仰の火を灯されると、そこでこの世界が平和になるかと期待していると、そうではなくて、「むしろ分裂が起こる」と主イエスは言われるのです。やっぱり厳しい言葉が響いてくるのです。

 もちろん、主イエスが語られる神の国の福音は、「平和の福音」です。このことは、何度も強調して言っておく必要があります。「福音とは分裂のこと」だというのではないのです。主イエスはこの世界に平和をもたらしたいと思っておられるのですが、それは、まず第一に、神との平和です。神との関係が回復されることが、神の国の福音の第一義的な意味です。

 ところが、主イエスの福音を受け止めて、神の国に生きることになると、それは神の意思に従って生きることになります。もし、この地上の人々全員が同時に神の福音を受け止めれば、まさにこの世界に平和がもたらされることになります。けれども、残念ながら、神の国の福音を受け取っていない人は、相変わらず自分の意思を尊重し、自分の思うまま、願いのままの生活をしようとしていますから、当然そこでは反発が生じます。

 それは、この世界に戦争がもたらされていることから見ても分かります。どの国にも、自分たちの信念があり、自分たちの国や民族が繁栄するために熱心になります。初めからあえて人を攻撃したいという思いは無いはずです。けれども、自分たちの意見を貫こうとすると、どうしても、その意見に反対する勢力の存在が面白くありません。そして、邪魔なものは排除する、自分たちの意見は正義なのだからと言って、自己の考え方を正当化して、攻撃に転じるわけです。

 イスラエルとパレスチナも、ロシアとウクライナの問題も、社会主義国家と資本主義国家との衝突も同じです。そして、それは、これまでの生き方を貫こうとする人々と、主イエスの語られる神の国の中に生きようとする人々との間でも同様に、争いや分裂が起こってしまうというのです。

 このような対立は、国家だけではなく、私たちの身の回りにもたくさん起こります。職場の中や、学校や、家庭の中でも起こります。5人いれば、2人と3人とに分かれ、家族の中でも、父と息子、母と娘、姑と嫁との対立となって現れるのだというのです。そこでは、いろいろな改善策や妥協案が考えられるのかもしれませんが、対立が生じることは否めません。

 こういう時に、自分の考えは絶対的な正義だという信念に立つと、事はさらに厄介になってしまいます。「私は聖書の考えに従っているから、それは神の意思だから自分の意見は絶対に正しいのだ」とやってしまうと、それがどんな暴力的な手段であったとしても正当化してしまうことにさえなるのです。

 旧約聖書の中に「目には目を、歯には歯を」という言葉があります。これは、「同害報復法」と言って、同じだけ相手に報復することを認めるという考え方です。旧約聖書にこういう考えがあるから、聖書は反撃することを容認していると考えられてしまうことがあります。けれども、いつもお話ししていますが、聖書では神の啓示は、少しずつ発展していきます。これを「漸進的啓示」と言いますが、神の啓示、神はそのみ心を、その段階ごとにステップアップさせていかれるのです。人の歴史が始まったばかりの旧約聖書の時代にあっては、神はその時代の最低限度の対処法として、同害、同じ被害までの報復を許容するという考えを認められましたが、ここに完全な神のみ心があるわけではありません。これは、まだステップ1の段階です。人間で言えば、赤ちゃんに教える時の手法です。けれども、人が成長するにしたがって、神はより高度な考えを明らかになさいます。

 それが、主イエスが教えられた次のステップとしての「あなたの敵を愛しなさい」という教えでした。ところが、この次のステップに進むには、かなり大きな階段を登らなければなりません。敵は敵であって、愛せるわけがないという反論が出てくるからです。しかも、主イエスの教えを受け入れていない人たちは、主イエスの教えた次のステップである、この考え方には耳を塞いでしまいます。「敵を愛するということが神のみ心なんですよ」という神からのメッセージを聞かなかったことにすれば、、やられたらやり返せと聖書が言っているから、その教えのままで行かせていただきますというところで止まったままでいられるからです。

 このようにして信仰の火が消えてしまうわけです。人々はこの神のみ思いを受け取らないで、自分たちの都合の良い考え方だけを受け入れるところで止まったままでいました。そのために、主イエスはこの世界に火をもたらし、そのために自分が「バプテスマ」を受ける必要があるのだとここで言っておられるのです。そのために自分が犠牲を払う必要があるのだと言われたのです。

 50節で主イエスは「それが成し遂げられるまで」と言われています。主イエスは人々が、このことを受けとれるようになるまで、自分は苦しみを受けるのだと、その覚悟をここで明らかにしてくださったのです。

 ここでいう「それ」が何を意味しているかというと、主イエスが受けるべきバプテスマのことです。この世界にあっては、燃えるべきものが燃えていません。そうなれば、神の裁きがこの世界を覆ってしまうことになります。主イエスはそれを望んではおられません。そこで、主イエスはこの神の裁きを、自らが負うことを選ばれました。これが、主イエスの受けられた苦しみです。受難の意味です。そして、この苦しみ、十字架の苦しみというのは、本当は私たちが受けるべき神の裁きでした。主イエスはその神の裁きを、私たちの代わりに受け取ってくださいました。これが、「成し遂げられるまで」の意味です。主イエスの十字架のみ業を通して、主イエスは、私たちの心の中に、火を灯そうとなさったのです。

 なぜ、神がここまでなさらなければならないのか。悪いのは、この世界の人々ではないか。神を悲しませているのは、他の誰でもない、私自身ではないか。主イエスの苦しまれる姿を目の当たりにした時に、私たちの中には自分自身を顧みる思いが浮かび上がってくるのです。それは、聖霊の働きによるものです。ですから、「信仰による火」というのは、「聖霊のみ業」ともいうことができるわけです。

 私たちの心のうちに、信仰の炎を灯されるために、主イエスは神の裁きを身に負ってくださるのです。これが、この箇所で私たちに語りかけようとしておられる福音です。

 誰かがこのことを受け入れて、信仰に生きるようになると、残念ながら争いが起こることがあります。家の中でも対立が生じることがあります。それは、主イエスご自身が経験したものでした。自分たちは正しい考えを持っていると考えていたパリサイ人や、ユダヤの宗教指導者たちと対立が生まれました。けれども、そこで主イエスは自らの正しさ、正当性を一方的に訴えて、上から目線で論破し続けられたわけではありませんでした。語るべき事はしっかり語られたのですが、まさに文字通り、敵をも愛されたのです。その人の考えを正す事はあっても、その人自身を敵対視することはありませんでした。かえって、その人を憐れみ、受け入れて、手を差し伸べ続けられたのです。

 この主イエスのお姿の中には、この地上にあって私たちがどのように人と接するべきかのヒントが隠されています。ただ我慢してひたすら耐えるということが、愛することではありません。そのようにイメージされてしまうことが多いのですが、主イエスは、罪は罪であるとはっきりと指摘なさいます。けれども、その人に対してはひたすらに、愛の手を差し伸べ続けられたのです。そうすることで、主イエスは、地上に、この世界に強烈な「愛」のイメージを遺されたのです。

 これが主イエスというお方です。愛こそが、主イエスがこの世にもたらされたものです。主イエスはこの愛を私たちに届けてくださるために、たとえご自分がどれほど苦しまれたとしても、その愛を成し遂げてくださるお方なのです。こうして、この地上に、私たちのうちに信仰の火が灯されたのです。

 お祈りをいたします。

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