2024 年 6 月 16 日

・説教 マルコの福音書1章35-39節「ガリラヤ全域に福音が伝えられる」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:20

2024.6.16

内山光生

序論

 今日は、父の日です。日常生活においてお父さん方が家族のために労しておられることを覚え、各家庭においてもお父さんに感謝を表す時となることを願います。

 また昨日の子ども食堂も、第三回目となりました。参加者とボランティアをあわせて99名が与えられた事を神様に感謝をいたします。

 さて今日の箇所のタイトルは「ガリラヤ全域に福音が伝えられる」とさせて頂きました。しかし、後でメッセージの準備を進めていく中で別のタイトルの方が良いかもしれない、と思うようになりました。ですから週報には記していませんが、サブタイトルとして「福音を伝えるために」とさせて頂きます。

I 主イエスの祈り(35節)

 では35節を見ていきましょう。

 前回の箇所によると、前の日の夜に、イエス様の元にカペナウムの人々が訪れました。病人や悪霊につかれた人々がイエス様に癒してもらおうと、やって来たのです。そして、イエス様は人々の期待に応え、皆、癒されたのです。

 この時、きっと夜遅くまで癒しの御わざがなされていたと思うのです。それで、イエス様は肉体的に疲れ果てておられたのではないかと推測できるのです。いや、肉体的だけでなく、霊的な疲れを覚えておられた事でしょう。にもかかわらず、イエス様は次の日の朝早いうちに起きて、祈りに専念されたのです。

 ある人は、前の日の疲れが残っているのならば、ゆっくりと寝ていればいいのにと思うかもしれません。私自身も、どちらかと言えば、ゆっくりと寝ているのが好きな方です。ところが、イエス様は自分の疲れを回復させるために、父なる神と祈りによる交わりを持つという方法をとっておられたのです。

 しばしばマルコ1章35節は、ディボーションをする時なら朝早くの時間が良いという聖書的な根拠とされています。確かに、その通りかもしれません。実際、多くの人は朝に聖書を読むと集中しやすいと思っているのです。もちろん、朝が苦手な人もいるかと思いますので、その場合は朝にディボーションしなければと思い込む必要はなく、むしろ、自分にとって一番聖書を読みやすい時間帯を選べばよいのです。

 というのも、他の箇所では、イエス様は昼間に祈っておられる場面がありますし、また夜中に祈っておられる場面もあります。だから、時間にこだわりすぎる必要はないのです。

 イエス様は祈る必要がある時、なんとかして、祈る場所を確保して父なる神との祈りによる交わりに専念されたのです。

 だから、祈りにおいて大切なのは、時間よりも、むしろ、祈る場所を確保できるかどうかではないかと思うのです。私自身、今、大変恵まれた環境に住んでいます。

 メッセージの準備をするために個室が与えられていて、窓の外を覗くと自然の豊かさを感じ取ることができるからです。緑に囲まれ、また、毎日、鳥の鳴き声を聞いていると、自然と祈りやすい雰囲気となっていく、こんな環境が与えられている事に感謝を覚えるのです。
 

II 別の場所へ福音を伝える(36~38節)

 続いて、36~38節に進みます。

 イエス様の弟子たち”シモンとその仲間たち”は、イエス様がどこかに出かけられた事に気づいたようです。でも、彼らはイエス様が祈りに専念するために寂しい場所に行かれたということに気づいていませんでした。恐らく、イエス様は誰にも声をかけずに、ひそかに寝床から立ち上がって、外に出かけられたのでしょう。

 シモンたちは、「イエス様は一体どこに行かれたのだろう。」と思った事でしょう。あるいは「私たちを置いてきぼりにして。早く見つけ出さないと。」と思ったかもしれません。

 シモンたちは、イエス様の弟子になったばかりです。だから、いつでもどこでも、イエス様の近くにいたいという気持ちがあったと思うのです。またこの時点では、イエス様がしばしば朝早くから祈りに専念される習慣があることを知らなかったのでしょう。

 さてシモンたちは、ようやくイエス様を見つけました。この時、すでにイエス様は祈り終えておられたようです。シモンたちは言います。「皆があなたを捜しています」と。彼らは、自分たちの気持ちを正直に伝えるのです。この前の日の夜、イエス様は大勢の病人を癒し、更には、悪霊につかれた人から悪霊を追い出したのです。でも、カペナウムの町には、イエス様による癒しが必要な人がもっとたくさんいたと思うのです。そして、その人たちがシモンの家にやって来て「イエス様はどこにいるのですか?」と訪ねてきたのではないかと思うのです。その意味をこめてシモンたちは「皆があなたを捜しています」と言ったのでしょう。

 もしそうだとすると、イエス様はシモンの家に戻り、そこで病人たちを癒してあげるのが筋が通っていると思うのです。ところが、イエス様はシモンの家に戻るとは言われずに、38節で「別の町や村へ行こう」と言われたのです。

 この時、イエス様がどういう気持ちになっておられたのかをシモンたちは気づいていなかったと思われます。イエス様は恐らく、「わたしは、福音を伝えるために来たのであって、病人を癒したり悪霊を追い出すことが一番の目的ではない」と思っておられたのだと思うのです。

 というのも、カペナウムの人々は、福音を聞いたけれども、福音の本当の意味を悟っていませんでした。むしろ、病人の癒しや悪霊の追い出しの方に心が奪われてしまい、イエス様というのは奇跡を行う力を持っている特別な人なんだ、そんなふうに受け止めてしまっていることにイエス様は気づいておられたのです。こうして、人々はイエス様の伝える福音が何なのかをきちんと理解できていませんでした。それゆえ、イエス様は、これ以上カペナウムにとどまったとしても、かえって、人々の心には福音が根付かなくなる。そう考えられたのでしょう。

 それでイエス様は「別の町や村へ行こう。・・・そこでも福音を伝えよう。そのためにわたしは出て来たのだから。」と言われたのです。

 確かに、今の時代においても、病人が癒されるように祈ることによって、病気が治ることがあります。時には、奇跡としか言いようがない驚くべき癒しを経験する人もおられます。しかしながら、イエス様が地上世界に遣わされた一番の目的は、”神の福音”を人々に宣べ伝えるためなのです。私たちは、この事をしっかりと押さえておく必要があるのです。

 もしもキリスト教が単なる病気を治してもらうところだったとすれば、あるいは、驚くべき奇跡が起こる場所だったならば、別の新興宗教と同じ種類となってしまいます。また、もしも教会が自分の都合の良い願いをかなえてもらうところだったとすれば、他の宗教となんら変わりがなくなってしまいます。あるいは、願いがかなえられないと嘆いて教会から離れてしまう事になりかねないでしょう。

 この時点で、シモンやその仲間たちは、まだまだイエス様が何のために地上世界に来られたかを知りませんでした。イエス様が私たちの罪のために十字架にかかるということを理解できていませんでした。まして、イエス様の弟子以外の一般の人々には、まだ福音の意味が分からない状態だったのです。人々が本当の意味で福音が何か理解できるためには、イエス様が十字架にかかってよみがえられ、更には、聖霊が注がれるまで待たなければならなかったからです。

 マルコの福音書は、イエス様が何を行ったかについて、あるいは、イエス様が活躍した時にどういう出来事が起こったかを中心に記されています。そのためでしょうか、他の福音書よりも「悪霊を追い出す」記事が目立ってしまっています。

 私が20歳ぐらいの頃、教会のある年配の女性が「マルコの福音書は悪霊の記事が多いから、私は嫌いです。」と言っていたのを思い出します。けれども、マルコの記事を細かく読んでいくと、イエス様は決して”悪霊を追い出すことを強調していない”事に気づかされます。むしろ、イエス様は「福音を伝えよう」とはっきりと言っていて、イエス様の一番の目的は人々に福音を伝える事だということは明らかなのです。

 ただ、旧約聖書の預言にあるように、救い主は、病気の人を癒し、悪霊を追い出すことが預言されていて、それが一番の目的ではないにしても、人々の苦しみを解放するという愛のある行動を取られたのも事実なのです。そして、今の時代においても、私たちが神に祈り求める時に、私たちの苦しみを取り除いて下さるのです。

 私たちは聖書が示している福音が何であるかをしっかりと受け止めつつ、自分の願いを神に祈る特権も与えられているゆえに、その両者のバランスをよく考えることが大切なのではないでしょうか。
 

III ガリラヤ全域に福音が伝えられる(39節)

 39節に進みます。

 イエス様が38節において「別の町や村へ行こう」と言われて、その後、イエス様とその一行は、ある程度の時間をかけてガリラヤ全域の町や村に福音を伝えに行かれたのです。ここには、訪れた町や村についての具体的な事は省略されていますが、一つや二つではなく、多くの町や村を訪ねて行かれたことでしょう。

 イエス様の一番の目的は、福音を伝えることです。そのために、イエス様は会堂すなわちシナゴーグで聖書の説き明かしをしつつ、神の国の福音が何であるかを宣べ伝えたのです。また、必要に応じて、病人をいやしたり、悪霊で苦しんでいる人を解放したのです。

まとめ

 イエス様とシモンを中心とした弟子たちによる福音は、まずカペナウムの町で伝えられました。そして、その後、ガリラヤ地方全域の町や村に福音が伝えられていったのです。更には、ガリラヤ地方だけでなく、イエス様は全世界に福音を伝えたいと願っておられたのです。

 それゆえ、福音を伝えるという際に心の片隅に置くべき事は、伝える地域を広げていく、それがイエス様の願いだということです。ある地域では、一生懸命に福音を伝えたけれど、あまり良い反応がない、そういう場合もあるでしょう。一方、別の場所で福音を伝えたら、次々とイエス様を信じる人々が起こされる場合もあるでしょう。

 今の時代は、ますます、効率の良さを強調するようになってきました。勉強にしても仕事にしてもスポーツにしても、あるいは音楽にしても、効率よく身につける方法が模索され、そのようなノウハウがもてはやされるのです。ところが、福音を伝える事に関しては、人間の知恵を超えていて、計画通りにいかないことが多いのです。

 イエス様が福音を伝えておられた時、カペナウムの町の人々が不信仰だということをイエス様は気づいておられました。実際、歴史的にカペナウムの町は衰退していくのです。だからといって、イエス様はカペナウムで福音を伝えるのをやめようとは言われませんでした。一時的にカペナウムを離れ、別な町や村に行って福音を伝えられるのですが、後にカペナウムに戻って来られるのです。

 多くの教会は、イエス様を信じる人々が起こされるようにと願っています。そして福音を伝えるために何をすればいいのかを思い巡らしたり、実際の行動に移しています。その一つ一つは必ずしも効率的な方法だとは言えないかもしれない。しかし、大切なのは、自分たちの住んでいる町にも、必ずイエス様を信じる人々が起こされるに違いないと信じて、福音を伝え続けることにあるのです。

 イエス様は言われました。「わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出てきたのだから。」

 お祈りいたします。
 

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